浅草
大正期において浅草は帝都の娯楽の中心で、興行街であり、そして歓楽街を形成していました。
花屋敷をはじめとして多くの娯楽施設があり、活動写真館(映画館)や、劇場があり、浅草公園や花屋敷には各種の大道芸が揃い、休日には兵隊や丁稚が、平日でもおのぼりさんたちが多く集まりました。
また、芸能の流行も浅草が発信地となることも少なくなく、多くの著名人が訪れ、特に文化人には浅草浸りになる者も多くいました。
その反面、十二階下に代表される私娼窟や、浮浪者が暮らしやすい環境であった為か、大きな犯罪等は起こってはいませんが、いわゆるスラム街の様相を呈しているところもあったようです。
元々浅草は江戸時代に官許の興行権を持っていた中村座、市村座、森田座があり興行街を形成していましたが、これが江戸末期から明治にかけてそれぞれ浅草の外へ出てしまい、一旦は消滅してしまいます。
この後、明治の初頭に浅草寺付近を公園指定し、さらに明治17年に街区を六つに分けて再び興行街を形成しました。
浅草の六区は下記の様になっています。
- 浅草寺境内
- 弁天山(弁天堂)を含む、宝蔵門一帯
- 伝法院、心字池一帯
- 瓢箪池の辺りの本堂西側
- 本堂裏手、奥山、花屋敷
- 凌雲閣の南側、3区、4区の西側に位置する南北に長い興行街
当初は七区として仲見世から馬道町の辺りが含まれていたのですが、後に廃止されました。
ただし、官許の鑑札がなく、観物場(いわゆる見世物小屋)としてかなりの制限を受けながらの営業となりました。
この六区が明治、大正期において興行街として様々な芸能、流行の発信地となりました。
浅草六区において劇場が変ったり、あるいは名前が変って見せるものが変ることは珍しくありませんが、大正5年の時点で、地図上の丸囲み数字の区画の建物は以下の通りです(複数ある場合は基本的に北側から)。
- オペラ館
- 千代田館、電気館
- 東京倶楽部、常盤座、金竜館
- 西の道路側から、文楽座、遊楽館
- 大盛館、キネマ倶楽部、東京館
- 世界館、大勝館(この二館の北側は不明)
- 三友館、富士館、帝国館
- この区画に、みくに座、汽車活動、木馬館、バテー館
この地図内には記述されていませんが、雷門の脇と浅草寺境内、ひょうたん池の南側に交番(派出所)がありました。
自動電話機、いわゆる公衆電話機は浅草寺境内の交番の隣あたりに存在しています。
また、地図の西側には無数のお寺が存在しており、北側には十二階下と呼ばれる私娼窟が、そしてさらに北側に吉原が存在します。
正式には金龍山浅草寺(せんそうじ)なのですが、地元の人々は浅草寺(あさくさでら)と呼んでます。
観音菩薩を本尊とすることから、「浅草観音」「浅草の観音様」と庶民に親しまれました。
境内には本尊の観音像を収める観音堂を中心に、その正面から右の奥手に浅草神社(いわるゆ三社様)、手前の仲見世側には五重塔、仲見世側の近くには伝法院浅草寺があります。他にも不動堂大行院、薬師堂、淡島尊堂、地蔵堂、善光寺如来堂、六地蔵堂、稲荷がありました。
総門である雷門(これも正式には風雷神門です)を出ると、左右に仲見世が続きます。この雷門は慶応元年に焼失しており、大正期には門はありませんでした。
仲見世は明治18(1885)年に、元の店舗を政府が追い出して煉瓦造りの新店舗で再開されました。しかし、この煉瓦造りの仲見世も関東大震災で倒壊、焼失し、鉄筋コンクリートの商店街にさらに生まれ変わります。
また、境内にある五重塔は現在は左側ですが、元は右側にあり、戦災によって倒壊したものが右側に再建されたものです。
4区にある、人工の大きな池で、これは明治17年の浅草公園地改正区画時に、周辺の田圃や池を埋め立てる為に、市が囚人を使って掘られたものです。
ひょうたん型の池と、大きな池があり、最初はひょうたん池と大池と呼ばれていましたが、いつの間にか両方ともひょうたん池と呼ばれるようになりました。
池の中には「中の島」と呼ばれる島があり、この島に東西へ橋を渡しました。
ひょうたん池の周りには藤棚や、ベンチ等が設置されており、昼間は浅草に遊ぶ人々の休憩する場となりましたが、夜になると浮浪者や、それに近い人々がベンチで寝ていました。
なお、このひょうたん池は戦後の昭和25(1951)年に埋めたてられて、現在は跡形もありません。
江戸期は基本的に高層建築は禁止されており、あったのは城、物見櫓、寺社の五重塔(?)のみであり、およそ庶民が上られるものではありませんでした。
明治期に入っても高層建築は作られなかったのですが、明治23年、上野公園で開かれた第三回内国勧業博覧会を当て込んで通称「十二階」、正式名称「凌雲閣」の建設が始まります。ところが、博覧会の開催中に建築は終わらず、結局博覧会が終わって4ヶ月経った同年11月に開場することになりました。
広告ではフランスのパリのエッフェル塔の日本版などと謳われていましたが、実際には煉瓦に囲まれた八角塔でした。全長52メートルと当時の東京中の建物のなかでは図抜けて高く、一階から十階までが煉瓦造り、十一、十二階は木造となっていました。
内部は二階から八階までは全て商店、九階は休憩室と陳列室、十階以降は展望となっており、十二階には望遠鏡が備え付けられていました。
内部は螺旋階段でその中を巡るようになっており、開場当時にはエレベーターもありましたが故障が続発し、半年ほどで廃止されてしまいました(このエレベーターも呼び物の一つだったのですが・・・)。
浅草は東北からの玄関口ともいえる上野駅に程近いこともあり、十二階も一挙に東京の有名な名所となりました。ところが、十二階が人気だったのも最初のうちだけで、明治30年には早くも不人気のために売り渡されています。
この時期と前後して、十二階下と呼ばれる私娼窟が拡大し始め、塔周辺はいかがわしいとの噂が立ち始めます。
さらには浅草の活動写真ブームが十二階からさらに客足を遠のかせましたが、明治44年に1階の十二階劇場が十二階演芸場として改めてスタートし、何とか経営の助けになりました。この頃、正式名称は「凌雲閣」から「十二階」に改められます。
大正3年にはエレベーターが復活しますが、やはり十二階の人気は復活せず、持て余しものとして爆破計画まで持ち上がる中、関東大震災によって倒壊、爆破解体に至ります。
十二階下と呼ばれる私娼窟は、まさに十二階自体に人が寄り付かなくなると同じ時期に拡大し、浅草を訪れる東京人、おのぼりさんの間で密かな名所となっていきます(十二階はその目印として語られます)。
表向きは銘酒家(めいしや))、新聞縦覧所など様々な店を名乗っていますが、明らかな娼家が十二階の裏手から千束町、最盛期には竜泉寺のあたりまで広がっていきます。
大正初年の検黴では新聞縦覧所が146軒、銘酒屋が89軒、合計440人の私娼がいたという記録がありますが、もちろんお役所の発表である為、この倍はいたと思われます。また、明治末期から震災までに3000人の私娼、銘酒屋の雇い女がいたととも言われています。
十二階下と呼ばれる私娼窟は〜新道、〜横町というものが数限りなく存在し、まるで迷路の様な、複雑な小路地を形成し、昼間でも流しのが出入りしたり、あるいは夜、観音境内で売り物をしていた者達も流れ込みました。
浅草の近くには吉原もあったのですが、値段も安く(50銭銀貨で事足りる、と言われました。まあ、最安値なのでしょうが・・・)、手続きが簡単なこの私娼窟は大繁盛します。
これらの娼婦は年齢も少女と呼べるものから大年増、職業にしている専門の者から、アルバイトのようなものまでおり、中には高等教育を受けたものや、詩や小説を読むものなども居て、インテリ層の客に受けたと言います(インテリの客も十二階下に足を運ぶのです!)。
中には素見(ぞめき)、ただ女を見て回る、話すだけに徹する客もおり、妙な文化圏を形成していたともいえます。
たまに当局の手が入ることも珍しくは無かったようで、これらの場所では抜け穴や何かが用意されており、初見の客などには「押入れに衣服をまとめて入れておいて、いざと言うときはそこから逃げられる」と言った説明なども行われていたようです。
また、この十二階下には今でも有名な文学者、画家等々が訪れており様々な作品にその影響を与えています。
大正3,5,7年に大掛かりな私娼撲滅運動が当局とともに起こったのですが、それも一時だけのことで、一旦鞍替え、あるいは浅草から去り、結局戻ってくる、と言ったものがほとんどだったようです。
この十二階下は結局は関東大震災のどさくさに紛れて撲滅されたかのように見えましたが、それは十二階下を引き払っただけで、浅草中に、あるいは東京中に私娼達が散って行っただけでした。
震災後はすっかりと規模が小さくなりましたが、それでもまだ怪しげな小路は残っていたようです。
明治30年頃から活動写真が輸入されはじめ、同じく30年代には国産の映画が作成されるようになります。
そして30年代末期には浅草は活動写真が大流行し始め、大正期にはその隆盛を極めます。
明治36年に日本発の常設の活動写真館の「電気館」が開設されました。最初は経営困難でしたが、日露戦争によって戦況を知らせるフィルムを毎週流すようになると客足が伸び始めます。
以降、明治40年代には浅草は言うに及ばず、日本の各地で常設の活動写真館が建設されていきます。このなかで浅草は従来の小屋を洋風の劇場に変えいてくものが増えて、尖塔を持った丸屋根の欧風建築の活動写真館が立ち並ぶようになります。
当時は無声映画であり、一切の音声がありませんでした。この為か、日本にはストーリーを解説したり、台詞をつけたりする活弁なるものが存在します。活動写真を見るものの中にはこの活弁が不要というものと、活弁がなければ映画が面白くない、というものの両方がいました。
また、活動写真は庶民のものだけでもなく、大正5,6年頃には洋画の封切りはまずは浅草行われた為、多くの洋画ファン、多少の英語の分かる上流階級やインテリ層が足を運びました。
大正期の浅草は「三丁を足らぬ六区に二十を数え、昼夜押し通しの大入り満員」と言った有様で、活動写真の人気は元々浅草にあった様々な芸能を押し流していきます。
震災に遭い、多くの活動写真館が炎上、崩壊しましたがいち早くバラック建てで営業を再開し、昭和の初期までは人気を保ちます。
昭和6年には映画の多くはトーキーとなり、そして日本発の全てトーキーである「マダムと女房」が上映されます。
この頃から活動写真は映画と呼ばれるようになり、以降、トーキーが普及することで浅草の映画街の価値を失い、弁士達も職を失いました。
六区の映画館は夜の八時を回ると入場料が半額になる、といったサービスを行っており、それを狙った客も大勢いました。その為、八時以降から閉館までの間は特に見物客でごった返し、そして閉館と同時に皆が帰途に着くために帰り道もごった返す、と言った様相を呈していました。
大正元年に、帝国劇場がオペラを上演する為にロンドンからイタリア人のジョバンニ・ベットーリオ・ローシーを半ば引き抜く形で招きます。
これにより帝国劇場には洋楽部というオペラを上演する為の部署が出来るのですが、最初の「魔笛」の上演により、グランドオペラは無理だと判断したローシーはオペレッタ(喜歌劇、あるいは小歌劇)に切り替えていきます。
しかし、帝国劇場に来る客と言えば歌舞伎が目的か、あるいは単に高級であるというだけで来る客ばかりである為、客受けが非常に悪く大正5年のローシーとの契約切れとともに洋楽部は解散してしまいます。
その後ローシーは赤坂見附の活動写真館を買い取り、改造しローヤル館を開場しますが、やはり高尚に過ぎたのか、大正7年には経営困難のため閉館、ローシーは日本を去ります。
そして、この帝劇の洋楽部、そしてローヤル館のオペラ歌手が浅草に流れ込み、浅草オペラは最盛期を迎えます(元々浅草には様々な演劇小屋があり、また音楽に造詣が深い者も多く、また丁度この時期に高木徳子と伊庭孝によりミュージカルが大当たりを取っていました)。
浅草で最初に公演されたオペレッタは大正6年の、高木徳子の「女軍出征」であると言われていますが、それ以前にもオペレッタともミュージカルとも言える和製演劇がいくつか上演されていました。
この「女軍出征」が大当たりを取り、浅草オペラは大流行になります。浅草オペラと言われますが、ほとんどがオペレッタ、「ボッカチオ」「天国と地獄」などが繰り返し上演され、日本人に分かりにくい箇所等はカットされたり、俳優や女優が歌えない部分は台詞にしてしまったりしました。また、観物場取締規則の制限上、大幅な削除や変更というもの珍しくありません。
またローシーの高尚なオペラではなく、日本語に意訳したり、あるいは日本語の創作オペラ等も上演されたりします。
大正6〜9年までが浅草オペラの最盛期であり、あまりにも早すぎた流行がオペラの粗製濫造させ、質の低下を招きます。同時に、客層も変化していき低俗なショー化が進みました。
浅草オペラには熱心なファンを呼び出し、これをペラゴロと呼ぶようになります。最初の頃は単なる熱心なファンで済んだのですが、流行が過ぎた後になるとこれが単なるごろつきと化しヨタモンと呼ばれるようになり様々な事件を起こしました。
その後、大正10年に金竜館が本格的にオペラの常設館として改築を行い、震災までは本格的なオペラが中心となり、「カルメン」「椿姫」「アイーダ」などが上演されるようになります。この中に田谷力三などの俳優がおり、これまで男性中心だった客層に女性も混じり始めます。
震災によって浅草オペラは大打撃を受け、活動写真のように素早く復活もできず、半年後になんとか再度の上演がされましたがわずか半年ですでに客足は遠のき、時代は変っていました。大正14年10月の浅草劇場で、田谷力三、清水夫妻の「オペラの怪人」を最後に、浅草オペラは消滅します。
観物場取締規則というものは、「劇場」より一ランク下の「観物場」に対する規制です。主に下記のような規制があります。
- 十日目ごとに新しい狂言にしなくてはならない
- 必ず一幕ものであって二場を越えてはならない
- 一場と二場の間で幕を下ろしてはならない
等々、今からすれば信じられないような規制が入っていました。
これが大正10年に興行場及興行取締規則にて多少緩やかになった為、金竜館が早速改築に踏み切ったのでした。
浅草オペラは料金が安く、金竜館の場合で二階が二十銭、一階が十銭です。
帝国劇場の最高料金が5円、ローヤル館が十五円(ボックス)なのでまさに大衆向けの料金体系と言えます。
また大正10年の金竜館では、下記のようなプログラムで上演されています。
- 新劇
- 少女歌劇
- オペレッタ
- グランド・オペラ
日に二回の公演で、入れ替えは無く、いつでも出入り自由というなんとも気軽なものでした。
また、芸術とアナーキストは結びつくのか、一時は大杉栄などのアナーキストなどが楽屋に出入りしていたと言われています。
当時、多くの社会主義者は直接的な行動ではなく、文筆活動によって社会主義を啓蒙しようとしていましたが、ここでは(単に目立ちたがりなだけかもしれませんが)文士劇を演じました。
現在までも続く「花やしき」ですが、古くは全て漢字で「花屋敷」と書きました(昭和24(1949)年に「浅草花やしき」になります)。
嘉永6(1853)年に植木商の森田六三郎が牡丹と菊細工を主とした植物園とした開園しました。江戸期、及び明治初期は茶人やら俳人やら文化人や上流階級のものが中心に利用されていました。
明治に入り、浅草寺一帯が浅草公園と指定されると同時に、花屋敷は五区に指定されます。明治21年には通称「五階」と呼ばれる奥山閣が建ち、明治36年に大阪で開催された万国博覧会に出典されていた外国産の動物達は全て花屋敷に引き取られ、その一画で象、虎、ライオンなどを観覧させる動物園も作られます。
大正期の花屋敷には、活人形、大津絵、都々逸、新内、浪花節、操り人形、骸骨踊り、蓄音機、活動写真に象やライオン等々、様々なものが存在し、
明治末期から大正期、震災前までは花屋敷は浅草における代表的な遊技場であり、和洋折衷、新旧の見世物、芸能が共存していました。
震災前から時代遅れの感があったのですが、震災を持って鳳凰閣(奥山閣を改称したもの)が焼け落ち、動物達の多くが薬殺されてしまいます。以降、浅草自体が興行や芸能の中心地ではなくなって行くなか、花屋敷も時代遅れの遊技場となってしまいます。
なお、当時の花屋敷は入園料を取られはしませんでしたが、回数券などを買い、利用する施設毎に料金を払うタイプでした。
こちらは明治末期から大正初期にのみ存在した、幻のような遊園地です。
浅草六区を歓楽街するために力を入れた吉沢商会の河浦謙一が、アメリカの遊園地や活動写真の現状を視察して作り上げました。ルナは月の意味で、夜間も営業しているという意味を込めています。
吉沢商会は同じ六区に電気館、三遊館などの活動写真館も経営しており、その為ルナパークの中には帝国館という活動写真館の他、汽車活動館という実際の汽車の客席に座って活動を見、座席がゆれる等の仕掛けがあるものがありました。
この他、様々な見世物もあり、なにより外観も内容もハイカラで、山の手からの客を集めたと言われています。
しかし、ルナパークは明治43年9月に開場、翌年4月に汽車活動館からの失火で灰燼に帰します。そして翌年に再建されますが、大正2年には早くも客足が悪くなったという理由で閉館されてしまいました。
なお、大阪にも明治末期から大正12年まで、通天閣の南にルナパークという遊園地が存在しました(帝都のルナパークとの関係は不明です)。
エノケンのカジノ・フォーリーが二階で見られる、と言うのは昭和に入ってからの話ですが、浅草水族館自体は明治32(1899)年に開館しています。
エノケンが腹がすいたら水槽から魚をすくって食べた、などといわれてもおり、水族館としてはかなり貧弱だったのではないかと思われますが、浅草唯一の水族館どころか、日本初の私設水族館であり、薄暗い水槽から魚が見えるという光景は文士達には受けたようで、様々な作品に(幻想的な)描写が見えています。
一般受けはしなかったようで、大方、二階の劇場へ行くために通過する為の空間でした。
大正期の浅草には様々な芸能、見世物があり、大道芸人達が集まり、その芸を見せていました。
残念ながらいつからいつまで、誰が、という資料はほとんど見つかりませんでしので、以下に見られた、あったとあるものを列挙します。
- 浪花節
- 三味線を伴奏に物語りをするもの。いわゆる「浪花節」的なものが多い。
- 安来節
- 安来節、ドジョウ掬い。震災後に流行を見た。
- 娘義太夫
- 女性による義太夫節。義太夫節は浄瑠璃の一種。
- 猿芝居
- 猿回し、あるいは猿に衣装、かつら等をつけて芝居の真似事をさせる見世物。
- ガマの油売り
- ガマの油から作ったとする油薬を口上と共に売る見世物。
- ダーク人形
- 明治期に浅草で公演されたイギリスのダーク一座の人形劇から、西洋操り人形の見世物を指す。
- X線の見世物
- 人体の骸骨を見せ、透視させているように見せる見世物。
- 居あい抜き
- 居あい抜きの見世物。
- 珍世界
- ・・・不明。
- 女相撲
- 文字通り。見世物としての相撲。この見世物はかなり珍しいらしい。
- 砂絵、砂文字
- 砂で絵を描く。色の付いた砂の場合と、色の無い砂で凹凸のみで書く場合の二つがある。
- 玉乗り
- 文字通り、玉の上に乗る。曲馬の見世物の一つ。多くが若い娘、あるいは少女が行った。
- かっぽれ
- 三味線等の伴奏に合わせた踊り。
- 独楽回し
- 文字通り、独楽を回す芸。
- ちょぼくれ
- ちょんがれ
- 阿呆陀羅尼
- 踊念仏が芸能化されたもの(?)。それぞれ、囃子言葉が「ちょぼくれ」「ちょんがれ」である為。
- 祭文語り
- こちらは祝詞等の祭文に節と三味線等による伴奏をつけたものが元で、当世の事件や、風俗を歌う。
- ゴゼ(瞽女)
- 鼓を打ったり、三味線を弾いたりしながら民謡や、俗謡を歌う。
- よかよか飴
- 太鼓を叩きつつ「よかぁーよーかぁあめー」と歌い、飴を売る。
- 覗きからくり
- 箱の中を覗き穴から見せ、口上と共に見せている絵が変っていく、というもの。
- 角兵衛獅子
- 獅子舞?
- 新内流し
- 2人1組での三味線で合奏。
- 声色屋、声色使い
- 声帯模写。
- 法界屋
- 法界節を歌う。
盛り場でもあった浅草にはかなりの数の浮浪者がいました。
浮浪者の大半は野宿であったのですが、中には10銭の木賃宿に泊まる人々、日雇いの労働者達の、定住する家を持たない人々もこの浮浪者に含まれていました(最も、宿の止まる金がなければ野宿なのですが・・・)。
大戦景気から9年頃までは景気が良かったこともあり、あまり浮浪者は見られなかったのですが、大戦景気の悪化とさらには震災によって浅草の浮浪者の数は増して行きました(昭和に入ってからさらに増加の一途をたどります)。
この浮浪者の多くは地方から上京した者の落伍し、帰郷する金も無い者でしたが、中には学歴もあり、家柄もあるようなものが浮浪者となっているものもあります(有名な文学者の中にはわざわざこの浮浪者を体験したり、あるいは浮浪者であったものがいました)。
一見無秩序に見える浮浪者達も一種の組合、ギルドのようなものを作っていることが有り、稼ぎの分配などに厳しい規則と序列があったとも言われています。
また、この浮浪者の中には感染病や、当時は感染病と信じられていた病気に罹っている者達が家を追い出され、やむなく浮浪者をしている場合もありました。