流行語

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『流行語』目次:
 大正、昭和初期で流行した言葉の数々です。
 当時の文化的、時代的な感性を知るのには非常にお手軽で、出すだけでそれっぽくなるので、流行に敏感なキャラクターなどに使用させるとよいでしょう。

変態

 変態、と言う言葉自体は明治末から使われ始めて、明治42(1909)年の森鴎外『ヰタ・セクシャリス』が最初だと言われています。
 これが流行を見たのは、リヒャルト・フォン・クラフト・エビング『Psychopathia Sexualis』が『変態性欲心理』と翻訳されて大正2(1913)年に出版されたことによるのが大きいとされています。
(『Psychopathia Sexualis』が翻訳されたのは初めてではなく、明治27(1894)年に『色情狂篇』として翻訳、発禁となっています)
 これに続いて、アウグスト・フォーレル『Die sexuelle Frage』が『性欲研究』として大正4(1915)年に出版されて、それまでタブー視されてきた性科学や、性的なテーマの精神医学などの研究が進められました。
 大正6(1917)年に中村古狭が精神医学会を設立、『変態心理』が創刊しました。これには森田正馬、幸田露伴、生田長江などが寄稿したことで変態の語が一般に広く宣伝されました。
 大正末期まで変態とは字義通りに『変わった態』を表す言葉として(多少なりともエロ的な要素はあったとしても)使われていました。昭和初期から梅原北明などの登場によって、『性』、『恋愛』、『変態心理』、『変態性欲』、『性公論』、『恋愛革命』などの雑誌が発行され、最初は比較的真面目に性科学、精神医学を扱っていたのですが、内容が次第に過激化、エロ化が進み、大体発禁になっていきました。
 この結果、変態は性的な意味が強くなり性科学、精神医学的な言葉からは遠くなっていきました。

浪漫

 明治40(1907)年に夏目漱石が『ホトトギス』に掲載した『野分』で、ロマンに、浪漫の当て字をしたのが最初だと言われています。
 ロマンスの語源自体がロマンス語で書かれた小説だったのですが、伝奇的、空想的、恋愛を扱ったものを指すようになりました。
 さらに日本に紹介されて、恋愛事件、艶聞の意味を含むようになりました。

文化

 明治で文明開化と言われたところですが、文化が流行語になったのは大正です。

 文化包丁、いわゆる万能包丁、三徳包丁の原型のようなもの
 文化鍋、アルミ製の深鍋、炊飯も可能
 文化人形、布製で洋装の人形、ぶらぶら人形、ヘロヘロ人形とも
 文化干し、干物をセロハンに包んで販売したのが文化的と。現在は天日干しに対して機械を使用した干物を文化干しとも
 文化刺繡、下絵にそって刺繍する絵画的な刺繍
 文化譜、主に和楽器の演奏法に合わせた楽譜
 文化ランプ、トルコランプのこと?
 文化住宅、和洋折衷の家。表向きは洋風、奥の方は和風のものが多い。
 文化村、東京郊外、東京府落合村(現在の新宿区中落合のあたり)に作られた郊外型のモダンな住宅街

 なんでもかんでもとりあえず新しいものには文化をつけてみた、というところです。
 西洋かぶれと言われつつも文明の利器を利用する生活などもやっかみ半分に文化生活などとも言われました。

「今日は帝劇、明日は三越」

 大正時代の流行語にもなった、三越とそして帝劇が提携して行ったイベントのプログラムの宣伝コピーです。
 また、有閑婦人の代名詞でもあり、帝劇は大正一のハイカラ劇場、三越は最高級デパートと歌われ、帝劇、三越へ行くことは時代の最先端を行くことを意味していました。

 三越は大正3(1914)年に日本橋に本店、ルネサンス式新館を新たに建築し、有名なライオン像や、日本初のエスカレーターなどを備えていました。
 三越は早くから呉服店と言う名前を返上し、呉服店が特定の顧客のみとしか商売をしなかったのに対し、「百貨店」という新しいスタイルで、大衆を相手に衣料品、雑貨、生活用品を販売し、まさに現在のデパートが行うような、新しいライフスタイルを提供する情報発信基地へと変化していきます。
 百貨店は、単に物を買う場所としてだけでなく、「行楽スポット」であることを宣伝し、豊富に品を揃え、新しいライフスタイルや娯楽施設などを提供するとともに、全国に広く伝えるために新聞や雑誌などに広告を展開しました。

モボ、モガ

 明治に入ってから女性の洋装化が次第に進んで行きました。
 大正末から昭和初期にかけて、時代の先端を行く洋装・洋髪の若い女性の姿が、大都市の新しい風俗となりました。
 明治、震災前ぐらいまでは「ハイカラ」と言われていたものが震災前後から「モダン」と切り替わります(まあ、大正中期ぐらいにはもう「ハイカラ」はあまり使われなかったようですが)。
 それらの女性たちを『モガ』(モダンガールの略)と呼んでいました。
 モガは洋服を着こなし、切りそろえた断髪で颯爽と銀座の街を闊歩していました。
 それまでの女性たちと違い、はっきり自己主張し、おしゃれに着飾る姿は脚光を浴びました。
 しかし、このような恰好が出来た女性たちは、都会でも一部のものたちに限られていたようです。
 また、周囲からは、冷ややかな目で見られていたそうです。当時は『髪は女の命』という訳では無いですが、断髪をした彼女らを『毛断ガール』などと呼んだりもしました(いきなり断髪は難しいという女性の為に、『耳隠し』という前から見ると耳が隠れる程度の長さに見えるものの、後ろで長い髪をまとめている髪型が流行しました)。
 大正中期にもなると資生堂が大正5(1916)年から美容部を始め、現代にまで続くような化粧品の開発、販売を始めました。また、これに前後して、海外の美容法や化粧法も紹介されるようになります。
 これと呼応して、モダンな恰好をした男性を『モボ』(モダンボーイの略)と呼ぶことがあります。
 彼らはいわゆる軟派であり、洋装(特にセーラー服など)に身を包み、帽子、ステッキといった西洋的な小物で洒落た感じを演出、モガの出現する銀座界隈に同じく出没しました。

マルクスボーイ、エンゲルスガール

 昭和の始め、モダンボーイ、モダンガールに代わる言葉として流行しました(モボ、モガのようにマボ、エガと略されたらしいですが響きが悪いのであまり使われなかったようです)。
 本当にマルクス主義に傾倒していた若者を指す言葉ではありません。社会主義者が配るちょっとしたパンレットなどを読んで(何なら人伝に噂を聞く程度でも)、マルクス主義を語るような、インテリ気取りの若者を皮肉る言葉として使用されました。
 マルクス主義≒共産主義であるため、当局の追及を恐れてあまりメディアには出なかった、などとされていますが、単なる流行語として人口に膾炙しました。

赤大根、丹頂鶴

 赤大根は表面だけ赤いため、一見、左翼的思想にかぶれているように見えるものの、一皮むけばそうでもないことを揶揄して赤大根などと言われました。
 丹頂鶴は頭頂部だけ赤いため、労働組合などで幹部クラスのみ左翼的、社会主義的思想を持っており、下へ降りれば白くなることを指しています。

シャン

 美人をあらわすドイツ語schöne(シェーン)がなまってシャンになっています。
 大正半ばごろから使われ出したようです。文字通り、美人という意味で使われますが、このシャンにいろいろとくっつけて合成語が生み出されて、単なる美人ではなく何とか美人と皮肉ることもありました(地域、学校、組織限定のものも珍しくないと思われます)。

 トテシャン、とても美人。
 スコシャン、すこぶる美人。
 ハットシャン、はっとするほど美人。
 ドテシャン、とてが濁っている=不細工、醜い。
 お化粧シャン、お化粧をすると美人の皮肉。
 虎シャン、遠くから見る虎は美しいことから、遠目は美人。
 ロングシャン、遠目の美人。
 バックシャン、後ろから見ると美人。
 ヨコシャン、横から見ると美人。
 ウンシャン、ウンがドイツ語で打ち消しなので、不美人。
 肉体(ニク)シャン、肉体は美人。
 つんシャン、つんけんしている美人のこと?

 このほか、エロシャン、イットシャンなどなど、なんでもありです。

猟奇

 大正末期から使われ始めたと言われています。
 諸説ありますが、佐藤春夫が大正13年の新青年に発表した「探偵小説小論」の中で「curiosity hounting」を「猟奇耽異(キューリオスティハンティング)」として翻訳したのが最初だとも言われています。
 佐藤春夫は探偵小説におけるロマンチシズムの文脈として語ったのですが、何故かこれが当時流行の「エログロナンセンス」の路線となり、怪奇、異常なもの、それらに対する歪んだ嗜好を指すようになりました。

イット

 昭和2(1927)年に公開されたアメリカ映画『イット』に由来する、性的魅力を備えた女性あるいは、性的魅力そのものを指す言葉です。
 当時の英語の辞書には「美貌」「性的魅力」「あれ」と書かれており、「あれ」はまあ、あれです。
 ちなみに英語圏ではイット女優などと、性的魅力のある女優を指す言葉のようでした。

ド級

 弩級とも。ド、あるいは弩はイギリスの戦艦ドレッドノート、あるいはその類型艦としてのドレッドノート級のド、漢字の当て字となります。
 明治39(1906)年に進水、就役したドレッドノートがそれまでの戦艦を時代遅れにするほどに強力であったため、各国は競ってドレッドノートを参考にした大型戦艦を建造するようになります。
 ドレッドノートは、"Dread”+”nought"の造語で「何ものも恐れず」ぐらいの意味なのですが、これに「格段に大きい、強力」などの意味が付加されました。
 ド級の思想はより大きく、より強力にと進化したために、超ド級、高超ド級などと称されるようになっていきます。

超人、末人

 日本でもニーチェ『ツァラトゥストラはかく語り』は、明治35(1902)年に初翻訳がなされており、以降、様々な翻訳がなされました。
 この中で紹介された『超人』と『末人』の概念が大正末期ぐらいから流行しました。
 これと同じ頃に、超を付けて強調する表現が流行ったようです(現代でもひと昔前になんでもかんでも超を付けましたが、こちらは数量的な表現に限られたようです)。

積読

 つんどく、文字通り、購入した本を読まずに積んでおく、ということ表す言葉です。
 また、積読をする人々、見栄で本を買ったはいいが、実際には読まないような人々を指して、積読階級などとも言ったようです。
 現代の言葉のイメージがありますが江戸期からある言葉らしく、明治時代の辞書などにも登場しています。江戸期より、読書が一般化するとともに作られました(読書の一般化とともに、積読も一般化しているという…)。

ナオミズム

 谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミのように、夫を虐待することで快楽を得る一種のサディズムの意として使われますが、単純に男をうまく操縦するようことでも言われます。
『痴人の愛』は大正13(1924)年~翌年に一時中断もありましたが大阪朝日新聞に掲載、改造社から単行本が発売されたもので、少女といってもよい年下のナオミに翻弄されるサラリーマンの話です。

大学は出たけれど

 昭和4(1929)年の小津安二郎監督、松竹キネマ配給による映画のタイトルで、流行語にもなったと言われています。
 昭和恐慌中、当時はエリートであった大学生ですら就職率が3割程度であったことから、職に就けない大学生を描いたコメディ映画です。ちなみに、サイレント。
 この後、昭和5(1930)年に『落第はしたけれど』、昭和7(1932)年に『生まれてはみたけれど』と生活苦三部作と言われます。

何が彼女にそうさせたか

 昭和2(1927)年の藤吉成吉の戯曲『何が彼女にそうさせたか(何が彼女にさうさせたか)』を原作として(初演時は『彼女』と言うタイトル)、昭和5年の同タイトルで映画化されて、これが大ヒットとなり流行語ともなりました。
 そのままだけでなく「~が~を~させたのか」というようなそれっぽい文章にするのが流行しました。

今からでも遅くない

 昭和11(1936)年2月26日、帝都で珍しい大雪が降った日に起こったのが2.26事件です。そこで反乱軍にまかれたビラに書かれていたもので、その後ちょっとした流行語となりました。
 ビラの全文は以下のとおりとなっています。

 一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ヘ歸レ
 二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
 三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    二月二十九日   戒嚴司令部