医者、医療

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 明治、大正期の医療、医事の関連項目をまとめます。
 CoCに限らず、ToCでもあやびとでもKutuluでも大正期(1920年代)の日本を舞台とした医療従事者の探索者、PCの参考資料としてください。
 明治初期から大正期は西洋から最新の医療を取り込むとともに、それらが拡散した時期ですが、同時に様々な伝染病が入り込み、猛威を振るった時代でもあります。

コレラ

 コレラは歴史上、繰り返して大流行を見ている感染症です。
 記録上、最初の流行は19世紀初頭のインドからでしたが、これが世界各地に広がり、幕末の日本にも侵入しています。
 幕末から明治期にかけて数年おきに流行を繰り返して、「虎列刺」などと表記されたり、「コレラ」がなまって「ころり」などと呼ばれました。
 明治12(1879)、15、19、28、35年、大正9(1920)年に大流行し、12、19年の流行時には感染者は10万人を超え、死者1万人以上という未曽有の被害となり、明治13年には「伝染病予防規則」を制定、コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフス、天然痘を伝染病に指定しました。この規則には届け出義務、検疫制度、避病院(隔離施設)、交通遮断、火葬、消毒についての条項が定められました。

 当時、「コレラ!」と言えば警官を先頭に官吏に医師が次々と出てきて「消毒!隔離!」と強行されました。
 医学による対策も当時は捗々しくなく、基本的にやることは感染者の隔離と関連個所の消毒となり、隔離施設(当時は避病院などと呼ばれ、病院とは名ばかりの急増のバラック小屋で用が済めば焼き捨てるようなものでした)に行くとまともな治療が受けられることも少なく、運に任せて生き死にが決まるような状態でした。

 江戸期から明治期にはコレラに治療らしい治療はなく、民間では神仏に頼って「コレラ祭」「疫神祭」などが行われたと伝わっています。
 また、何故だか分かりませんが炭酸水が健康に良いと言われていたことが曲がって伝わったのか、炭酸入りの飲料が効くという噂が伝わり、ラムネが品薄になるなどの事態もあったようです。
 地方においては明治期から続く米価の高騰に加えてコレラ予防の名目として魚類の販売停止、避病院へ送る際の官憲の横暴などから、検査所、避病院を打ち壊すなど『一揆』とも報道される暴動まで起こるほどでした。
(また、当時まだ土葬が中心だった中で、コレラに感染して死亡すると火葬にされたことも当時の人々の感情を逆なでしたようです)。

 明治30年にようやく伝染病予防法(このとき、ベスト、猩紅熱が追加)が公布されるとともに、上下水道の整備、民衆への感染予防の啓蒙も進むことで江戸期のような大規模な流行は見られなくなりましたが、戦後までも繰り返すことになります。
 昭和後期にもなると感染者が確認されるとニュースになるほどまでになりました。

往診鞄

 近年では全く見なくなりましたが、一昔の医者が往診にぶら下げていた人々の目を引く大きな革鞄は、薬籠などと言われていました。
 明治25(1892)年の当時の人気だった風刺雑誌『團々珍聞(まるまるちんぶん)』に「着目早見立鑑(イチバンメニツクモノ)」として「壮士のステッキ、番兵の抜剣、医者の薬籠」と挙げられて、当時から人々の目を引くものでした。医者の方もそれを承知で、白衣に鞄をぶらさて「俺は医者だ!」と主張していたようです。
 薬籠と呼ばれていますが皮の鞄で、当初は薬を入れる為の引き出しなどが入っていたものでした)。

院内回診

「御回診!御回診!」と先触れを出し、主任看護婦を先頭に医員を引き連れて病院内を回診する……、『白い巨塔』などで有名になった病院内の大名行列のような回診は、明治期に近代的な大型の病院が出来はじめてからすぐに行われていたようです(あるいは、小型の病院でも)。
 当時の病院は病室に特等、一等、二等と等級を付けており、特等から順に巡っていったと言われています。

街角の開業医

 明治期から免許制となった医者ですが、都会の市井には医院と称する入院設備のない開業医が多く出現しました。
 恐ろしいことですが、これらの医院では免許を持った医師が実際に出てくるのは月に1回ぐらい、その他は無免許の医師か、医師志望の受験生が代診生として診察したと言われています(そして、訴訟沙汰にまで発展するのはある意味当然の気もします)。

受診料

 日本の国民皆保険制度が始まるのは戦後の昭和36(1961)ですが、大正11(1922)年に健康保険法が成立します。これは主に労働者とその扶養家族向けのものであり、過酷な労働を強いられていた労働階級に対する対策の一つでした。
 明治期においてこういった保険はない上に、診察、診療の費用を定めるものもなかった為、医師個人の裁量に委ねられるとともに、前述のような代診行為に加え、受診側にも医者の診察だけでは金は払えない、という気質があったらしく、治療代の多くが薬代ということがあったようです。

当時の医療機器

 幕末から細菌学は輸入されていましたが、明治中期より盛んになったことで顕微鏡などの器具の輸入が盛んになり、以降、国産化、普及が始まりました。
 西洋医学のハイカラな(!)七つ道具として最も目立ったのは聴診器と注射器でした。聴診器は最初期のものは木製でしたが、象牙製のものとなっています(ちなみに、明治中期で2~3円、検温器、いわゆる体温計が1円)。
 注射器は最初、外筒の部分も金属製であり、明治33(1900)年に全ガラス製のものが輸入されてから国産化しました(ちなみに、注射針は白金イリジウム製で貴重品でした)。

 明治29(1896)年に日本で最初と思われるレントゲンについての新聞記事が『時事新報』の掲載されます。翌々年の明治31年、軍医芳賀栄次郎が小型のレントゲンを私費で輸入、陸軍軍医学校へ送りました。
 国産のレントゲンは明治42年に島津製作所が作成したものが千葉の病院へ納入したものが最初だと言われています。

大正期の女医

 日本で最初の医師免許を持った女医は荻野吟子で、明治18(1885)年に試験に合格、資格を取得しました。
 それまで前例がないことを理由に女性の受験を認めていなかったのですが、荻野は諦めずに食い下がり、同情した実業家高島嘉右衛門や、井上頼國からの内務省衛生局への働きかけがあり、明治17年に女性でも試験を受けることが認められました。
 また、外国で医師免許を取得して国内で医師として登録する女性も居たようです。
 明治年間に登録された女医は239人(官報に掲載された人数)、大正年間には1000名を超えました。特に大正13年は前年の震災によって登録の手続きが滞ったことがあり、年間で140名も登録されています(ちなみに大正期には東京府内には200名以上の女医が居た記録があります)。
 登録時の年齢は18~60歳と非常に幅が広く、産婆や民間医療の経験者や、独学で試験に合格して医者に登録されたこともあるようです。

篤志解剖

 日本における篤志解剖は明治2(1869)年、東京医学校(のちの東京大学医学部)併設の黴毒院で行われた遊女のみきと言われています(当時の解剖の記録は残っておらず、医学生や立会人の回顧からそう言われています)。
 回顧からは本人が死後の解剖を希望した、と言われていますが、わずか一週間前の遺言であり、黴毒院は当時不治の病であった梅毒を患っていた患者を扱っていることもあって、非常にきな臭いと言わざるを得ません(解剖後、親元には十両払われたと言われています)。
 同じ記録によって明治3年のうちにさらに3人の篤志解剖が行われたとあり、四人目は同じく遊女のは津でこちらに至っては解剖の前日に希望の書面を提出、許可されており、さらには4日後には埋葬済みとなっています。
 以降、刑死者や獄中死亡者、引き取り手の無い死体を解剖することが明治3年に許可され、明治14年には解剖された死体は1400体にも達し、埋葬されている谷中の天王寺で解剖千体祭が行われています。
 大正初期には死後、篤志解剖に供することが妙な流行としてあったらしく、桂太郎や夏目漱石も死後に解剖されています。

介抱女、看護婦

 明治16(1883)年に鹿鳴館で有栖川宮御息女、大山巌夫人捨松、伊藤博文夫人梅子、井上馨夫人武子、森有礼夫人常子らによって慈善バザーが開かれました。
 3日の開催で延べ1万人を超え、売り上げは7千円にも達しました。これらは収益金は翌年に同じく夫人たちによって集められた義捐金6千円とともに有志共立東京病院へ寄付され、建物を新築したほかに明治19年に看護婦教育所が開設されました。同じ時期に桜井女学校にも付属看護婦養成所とあわせて、日本初となる看護婦養成の機関となります。
 しかし、看護婦はまず上流階級に供給され、その為に彼女らには礼儀作法や言葉遣いまで厳しく指導されていました。
 これらの動きに反発して、明治24年に看護婦派出の慈善看護婦会が生まれます。以降、全国に看護婦会が生まれていきます。
 看護婦と言えば病院付きで医者の補助をするのが主な役割ですが、派出看護婦は病人に付き添うことを役割としていました。
(当時、病人に付き添い、その世話をするのは家族やそれに近い人間の役割であるのが常識であり、看護婦がそれを行うのはある意味画期的でした)

 正式な職業訓練を受けた看護婦が世に出る前に、それに近い働きをした女性たちは介抱女、あるいは看病人などと呼ばれました。当時は既婚女性が採用され、病人に付き添いました。
 幕末の戦争時の野戦病院などでも活躍し、褒美金などももらうほどでした。

産婆と堕胎、間引き

 明治初年に早くも堕胎を取り扱うものとして太政官布達が出されるなどして、堕胎を禁止する法令を出しましたが堕胎、間引きは貧しい地方では普通に行われていました(生まれて来た子供が男だった場合は労働力になる為そのまま生かし、女だった場合は殺してしまうことが地方ではあったと言われています)。
 産婆と呼ばれた助産婦たちの中には、特にこの堕胎や、間引きを専門としていたものも居ました。間引きに関しては一応家族の了解を得て行うもので、一律殺された訳ではなく、赤子を欲しがる親へ渡したり、どこか必要なところへ売りさばくルートもあったようです(売った後にどうなったかはやはり悲惨なのでしょうが)。
 こういった家族内の秘事に関わることもあって、産婆を家族の一員と見なすような習慣のある地方もありました。
 戦後は助産婦(平成14(2002)年から助産師)と法律的にも呼ばれるようになりましたが、明治、戦前期までは産婆と呼ばれるのが一般的でした。これらの産婆たちは医者と同様に看板を掲げて堂々と営業しました。この中の鼠の看板は堕胎、猫の看板は赤子の引き取り手を求めるものだったと言われています。
 明治7年の医制にも産婆の規定は含まれており、産婆の営業には許可が必要だったのですが、許可を取って営業を行ったものが新聞に出るぐらいだった為、あまり浸透していませんでした。
 明治32年に産婆規則が発布され登録制になりましたが、無資格未登録の町医者が多く居たのと同様に、未登録の産婆は多かったと推測されます。

転地療養

 明治期から結核は様々な文学作品(とくに有名なのは富徳蘆花『不如帰』)に取り上げられ、美しい悲劇として取り上げられたせいか、何故かロマンチックな病気であると思われていたところがあり、結核文学、サナトリウム文学という一ジャンルにまで成長します。
(病人の衰弱した姿を色白で痩せていると美しく描写をした為に、結核の佳人のようなイメージが定着したようです。どちらが後先か分かりませんが、やはり結核による喀血を美しいものと捉える妙な美学もあったようです)
 当時、結核にはまだ有効な化学療法が発見されていなかった為、安静にして体に良いものを食べる、空気の良い土地に行くといった転地療養が一般的でした。そこで、明治20年に鎌倉に、同22年に兵庫県須磨、同30年に湘南にサナトリウムが建設されました。
 サナトリウムは結核の療養所を指す言葉だったのですが、現在は治療所全般を指す言葉になっています。

 明治中期に湘南地方の温暖な気候と風景が保養地として再発見されて、大磯が日本最初の海水浴場となります(大昔から、海水浴は実は病気療養の一環でした)。
 以降、湘南、特に大磯の海岸には華族、政府官僚、豪商たちの別荘が立ち並び、有名なものだけでも以下の様なものがあります。これらの多くが大磯で隣接して建てられており、ここが『政界の奥座敷』となどと呼ばれた所以です(大正10年には大磯の別荘所有者は200名を超えていました)。


 伊藤博文の『滄浪閣』は大正10(1921)年に当時の韓国李王家に譲渡、西園寺公望の『隣荘』は伊藤が死去した為に大正6年に三井銀行の総帥、池田成彬に売却、大隈邸は明治34年に古河市兵衛に売却されています。
 その他、やはり大物が世を去った後に順次手放されましたが、戦後までも一部の別邸には政財界の大物のものとして同じような役割を果たし続けました。
(一応、名目上は『保養』『療養』の為の別邸なのですけれど)
 また、安田善次郎は大正10年に大磯で右翼の青年に刺殺されています。

スペイン風邪

 大正7(1918)年5月にスペインで発生した悪性のインフルエンザは、大正12(1923)年までに世界で6億の発病者、死者2130万人という有史以来の大流行となりました。
 日本にも大正7年8月に発生、10月~11月に関西を中心に全国で蔓延し、大正10年に至るまでに3回の流行が繰り返されました。
 発病者2380万人、死亡者39万人。当時の日本の人口は5470万人で、その1/3以上が発症し、学校の休校はもちろん、鉄道や郵便などに支障をきたしたり、あるいは火葬場が間に合わないなど、すさまじい流行ぶりだったようです。

災害と疫病

 大正期は、関東大震災に代表される様々な災害、あるいは疫病が起こっています。
 明治期より日本はどうも不衛生の国であったようで、様々な流行病によって多くの人命が失われています。
 100人以上が死傷する台風、水害、大洪水、などの自然災害は言うに及ばず、食中毒、ペスト、チフス、コレラなどが流行したり、炭鉱火災、大火事、船舶の沈没なども少なくありませんでした。
 これらの災害、流行病、事故が年に一度は必ずあり、なんら無い年は存在していません。