戦時中

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『戦時中』目次:
 主に太平洋戦争時、昭和16(1941)年から終戦、昭和20年までの文化、生活項目を紹介します。
(主に『戦時中』のため、昭和16年より前の項目も存在します。まあ、問題は『戦時中』っていつからなの、というのに明確な定義がないことです)。

配給制度

 日中戦争の泥沼化に伴い、昭和15(1940)年より、最初は5月に東京市で、以降、順次全国へこの制度は広がりました。
 米をはじめとして塩、味噌、醤油、砂糖、マッチに酒から衣類に至るまで、生活必需品を国が管理すると決めて、配給券との交換を行うとしました。
 かなり早い段階からこれらには不正がはびこり、配給通帳の改ざん、職場と家庭の二重申告、死んだはずの人間への配給など、かなりの量が不正に受給されました。
 これは何も配給を受ける側にだけではなく、配給する側もわざと少なくして余った分を着服する、なんらかの賄賂(野菜や、服など)によって配給量を増減するなど普通に行われていました。
 一応、これらの不正が発覚した場合、懲役刑(執行猶予付き)が科される例もありましたが、あまり効果はなかったようです。
 ちなみに配給券は配給を受ける権利だけで、現金を払わなければ配給対象を購入することはできません。

 この配給制度は戦後しばらく続き、たばこは昭和22(1947)年、酒は昭和24年、衣類は昭和25年まで続きました。

興亜奉公日

 昭和14(1939)年から、毎月1日に設定された日で、一日を質素に暮らす日として、一汁一菜、あるいは日の丸弁当とし、禁酒、禁煙を勧めて、飲食店は休業などとしました。
 昭和17(1942)年に大詔奉載日が8日に定められると廃止されました。

敵性語

 昭和15(1940)年頃から、英語、中国語などの外国由来の言語を排除する運動が、主に民間から吹き上がりました。
 これまで使われていたものを、日本語で言い換えて外来語、カタカナの言葉を排斥し始めました。
 例として、ビール→麦酒、エンジン→発動機、ガソリン→揮発油、オイル→潤滑油、パーマ→電髪、チェリー(煙草)→桜、ゴールデンバット(煙草)→金鶏、レコード→音盤、カレーライス→辛味入汁掛飯、フェリス和英女学校→横浜山手女学院などです。
 ただ、これは全く徹底されておらず、日常では普通に外来語、外来語由来の言葉が使われていました。
 野球に麻雀など、すでに一般の浸透していたものも排斥されたため、特に野球などで、ストライク、セーフ→よし、ボール→だめ、ホームラン→本塁打、タイム→停止など微妙な言い換えが行われました(正岡子規が泣きそうですが)。
 これに伴い、言語だけでなく音楽や服装、映画、演劇などからも外国由来の要素が排除されていきました。

戦時のスローガン

 今でも有名なものがありますが、ここで戦時のスローガンを紹介します。
 当時の日本の精神性の一端が垣間見え、これらの一語で時代性が分かります。

「ぜいたくは敵だ」

 昭和15(1940)年に国民精神総動員運動で打ち出されたスローガンの一つです。
 これは単なるスローガンに留まらず、国民精神総動員本部が取締部隊を出して、繁華街などに繰り出すことも実施しました。
 奢侈品等製造販売制限規則、いわゆる贅沢品禁止令などの高価なものの販売、製造を禁止する命令につながっていきます。
 これは販売などをしている店舗などだけでなく、それを製造している職人などにも影響を及ぼして、転職を余儀なくされました。

「欲しがりません、勝つまでは」

 昭和17(1942)年に大政翼賛会、朝日、読売など新聞社による公募のスローガンです。
 作者は11歳の少女として応募されたものでしたが、実際は脚本家だった父親の作品だったと言われています。

「進め一億の火の玉だ」

 日米開戦時、昭和16(1941)年に大政翼賛会が掲げたスローガンです。
 ちなみに一億は当時日本領であった台湾や韓国を含む数字で、日本本土の人口は7000万人ぐらいでした。
 同名の軍歌も作成されてニュース歌謡としてラジオで放送、人気を博して流行語のようなものにもなりました。

「一億総玉砕」

 昭和20(1940)年、敗戦直前の本土決戦を決断した陸軍が打ち出したフレーズです。
 もはや兵士もなく、物資もない中で、ただの精神論、中身のない言葉だけでしたが、これを本気にする国民も存在したことは確かです。

「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」

 昭和17(1942)年の大歳翼賛会と各新聞社(読売、東京日日、朝日)が開催した、国民決意の標語の入選作です。
 現代でもたまに囁かれるあれですが、これに工を消して「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」とした、働き手が戦争に取られる皮肉とした落書きがありました。
 似たようなものに、「ぜいたく敵だ」に素を書き足して「ぜいたくは素敵だ」としたものがあります。双方とも発覚すれば犯罪者となることは間違いなかったため、その起源などは不明です。

「古釘も生まれ変われば陸奥長門」

 昭和16(1941)年の日本カレンダー株式会社のスローガンです。
 些細なものでも金属供出を促したものです。ちなみに陸奥は大正10(1921)年、長門は大正9(1920)年に竣工なので、金属供出とは程遠い存在です。

「飾る身体に汚れる心」

 昭和15(1940)年の中央標語研究会のスローガンです。
 戦時、民間において化粧などのおしゃれが規制されるようになりました。
 これらの規制は最初は民間の自主的なものだったものが、そのうちに規制化されたものです。

「一杯二杯三杯失敗」

 昭和18(1943)年の日本国民禁酒同盟のスローガンでです。説明は不要かと。

隣組

 江戸期より、町内でのまとりなどによって連帯責任、相互監視、互助を行うような組織、制度が存在していましたが、昭和15(1940)年に制度化されました。
 5~10軒程度の隣近所を1組としました。当初は互助会的な意味合いが強かったのですが、戦局、国民感情の悪化に伴い、相互監視、思想統制の色合いを強めました。
 また、組長には配給の配分などの特権があったため、気に入らない組員への村八分など、都市部における新たな問題を生み出す元ともなりました。

ヒロポン

 ヒロポンは昭和16(1941)年に一般に発売されました。
 戦前においては現在でいうエナジードリンクのような位置づけであり、薬局などで購入可能でした。違法となるのは戦後のことです。
 元々が覚醒効果などが軍部で認められて、主に夜間哨戒などのお供だったのですが、24時間戦えますかとばかりに、軍需工場などで長時間勤務の疲労対策などに使われるようになっています。

赤紙

 臨時召集令状のことです。赤い紙で来たために、このように呼ばれました。
 昭和16(1941)年の太平洋戦争の開戦と、その戦局の悪化にともない臨時が乱発されるようになります。
 この赤紙は、赤いインクの不足から赤ではなくピンクっぽくなり、それもどんどん薄くなっていたと言われています。
 赤紙以外にも、工場などへ働くことを強要する白紙、徴用令状のほか、青紙、工場などで指導員として徴用されるものもありました。

はなし塚

 昭和16(1941)年に浅草の長瀧山本法寺に、はなし塚は建てました。
 落語家たちが自主的に時局合わない、ということを理由に、落語の演目の一部(53演目)を禁じて、その台本をはなし塚の下に埋めたと言われています。
 埋められた演目は主に遊里や酒、女、廓話で、不謹慎であるなどが理由であると言われています。
 この後、落語にも国威発揚、戦意高揚を目的とした新作が作られていきます。

同期の桜

 太平洋戦争末期に、特に特攻隊員の間で流行したと言われる軍歌です。
 大元は少女俱楽部に掲載された『二輪の桜』、作詞は西條八十でした。
 これを海軍の士官が『同期の桜』として替え歌したのが大流行した、と言われていますが、そもそもの始まりも眉唾物で、さらにこの替え歌の伝播過程で様々なバリエーションを生み出しており、どれが原初のオリジナルだったかは分からない状態となっています。

金属類回収令

 昭和18(1943)年に、一般家庭を含めたあらゆる場所から不要不急の金属の提出を求めました。
 この結果、道路標識、マンホールの蓋、街路灯、釣鐘、仏像、郵便ポストなど、あらゆる金属類が回収されました。
 渋谷のハチ公像や、大阪の通天閣なども供出の対象となり、町中から姿を消しました。ハチ公像が復活するのは昭和23年、通天閣は昭和31年に再建されています(通天閣は元にあった場所がすでに民家などで埋まっていたので、近い公園に再建されました)。

「ガソリンの一滴は血の一滴」

 あるいは、『石油の一滴は血の一滴」とも言われます。
 特に日本で作成さた標語ではなく、戦時の石油、ガソリンの貴重さを語る標語です。
 石油を海外からの輸入に依存している日本では、やはりガソリンは貴重でした。
 このため、ガソリンを使わない木炭車などへの改造が試みられました。

木炭車

 アメリカとの開戦の理由の一つにガソリンの禁輸がありました。その結果、ガソリンは軍部への優先的に供給され、国内ではガソリンの不足しました。
 これに対して、元はガソリンで動いていたものを木炭で動くように改造するという(無理のある)対策が取られて、ガソリン車が木炭車に改造されたりしました。
 木炭車は、木炭が温まるまで動かない、煤と黒煙が激しい、馬力が出ないうえに、一酸化炭素中毒で死亡者まで出る始末でした。
 当然ですが、戦後にはこの木炭車は姿を消しました。

国内でも阿片を栽培を推奨

 モルヒネの原料となる阿片も、多くを輸入に頼っていました。
 昭和14(1939)年、輸入の不足を補おうと、国内でこれを増産するため、阿片の原料となるケシの栽培を国家が推奨するようになります(元々、国内でケシは生産されていました)。
 そのほかの農作物を同じく、銃後の女子供がこれらの栽培に関わり、収穫の時期には休校になるなどもありました。
 これに関わった女子供の中には、収穫のために重度な中毒症状を示すこともありました。
 なお、戦後にケシの栽培はGHQによって禁止されています。

母子手帳

 母子手帳は現在の制度ですが、その起源は昭和17(1942)年の妊産婦手帳です。
 元々は「産めよ、増やせよ」という国策に基づいて、人口増加のための対策でした。
 これが普及した背景には、妊産婦手帳には加配、妊婦のために配給を増やすという措置があったためでした。

鉄道

 すでに鉄道は国民の生活に浸透し、欠かせないものとなっていました。
 一部を「不要不急の路線」として廃止、資源の回収と再利用を進めていましたが、市民の足として止まることはありませんでした。
 政府は戦局の悪化にともない、不要不急の移動をしないように呼びかけましたが、すでに通勤、通学に使用されていたうえに、ガソリン不足による動く車の減少によって、鉄道の需要はむしろ上がっていました。
 昭和20年3月10日の東京大空襲の翌日にも、焼け跡をいつものように鉄道は走っていました(広島でも原爆投下の3日後には一部の路線が復旧していたと言われています)。
 日本の鉄道を意地でも走らせる風習は、すでにこのころからあったようです。

徴兵制度の変化

 昭和16(1941)年には、招集の上限年齢が40歳から45歳へ引き上げられました。
 昭和18(1943)年、この延期も20歳以上の文系と一部の学科に対して徴兵を開始、学徒出陣と言われるものです。大学生などの高等教育機関の学生は、26歳までは兵役の延期が認められていました。応召義務のある学生ならば日本国内に限らず、台湾、朝鮮、満州と当時の日本の統治下の学生も対象となりました。
 続いて昭和19(1944)年には、徴兵適齢が19歳とされて兵役の延期も見直されました。

建物疎開

 昭和17(1942)年より防空法によって建築禁止区域を設けていましたが、空襲が激化した太平洋戦争末期の昭和19(1944)年には、空襲の火災による延焼を防ぐ、防火地帯を確保するため、事前に建物を取り壊して更地にするという措置が取られました。
 これは計画的に行われて、第1次の昭和19年末から4回の予定だったものが、6回まで行われています。
 この効果はあまりなかったようでしたが、取り壊し対象となる建物の選定など地域住民、あるいは助言を与える地元有力者の感情を考慮したものとなっており、一種の不満のはけ口のようなものとなっていました。
 また、取り壊し後の資材を周辺住民が持ち帰るなどの事象もあったようです。
 この建物疎開について、補償が一切なかったというものと、市価の査定額よりも割安だが一定の補償がなされたという記録があり、実際はどうだったか定かではありません(補償をすると言って実際は払われていなかった、なども考えられます)。

B29

 日本を爆撃したB29は有名ですが、これが最初に姿を現したとき、その速度や、大きさ、高度の高さなどから全く現実感がなかったとも言います。
 実際の空爆が始まればそうも言ってられなかったのですが、あまりにも空爆が繰り返し行われることもあってか、そのうちに空襲警報が常となり、「定期便」などとも呼ばれてやり過ごすのが日常となりました。

幻の東京五輪

 戦前、日本は昭和6(1931)年からオリンピックの誘致運動を開始、同7年に開催地に立候補、昭和11年に正式に第十二回の会場に東京が決定され、昭和15年に開催を予定していました。
 昭和12(1937)年には第十二回東京オリンピック大会組織委員会が組織されて本格的に準備が開始され、このときに記念グッズなどもすでに販売をしていました。
 しかし、昭和12年、日中戦争勃発によって開催を辞退、幻のオリンピックとなりました。

戦時国債

 昭和16(1941)年で軍事費が125億円を突破、全国家予算の75.7%を占める額に達していました。
 それでも足りないと言う事で、戦時国債を大量に発行しました。国民に余裕がないにもかかわらず、これを買うことは愛国心の証、などと売り文句が並びました(当然ですが、敗戦とともに紙切れになるのですが)。
 子供向けに弾丸切手なるものまで発売されていました。

徴兵保険

 徴兵されると様々な費用が掛かることや、一家の働き手が減るということもあって、徴兵されると保険金が払われる徴兵保険が存在していました。
 日清戦争の後、明治31(1898)年に保険会社が販売を始めて、富國徴兵、第一徴兵など30社余りが取り扱っていました。
 しかし、赤紙の乱発、招集人数の増加によって保険会社の負担が激増、倒産にまで追い込まれる保険会社が多数出ました。

天気予報

 昭和16(1941)年、真珠湾攻撃とともに、ラジオや新聞などから天気予報が消えました。
 天気の情報は戦略の判断の情報ともなるため、一般には公開されない情報とされました。
 台風などの災害の可能性のある場合でも、軍部の判断によって情報が伝達されないか、地域の代表者などにしか情報が伝わらなかったため、災害の被害が大きくなったとも言われています。

国家総動員法

 昭和13(1938)年4月1日に公布、5月5日施行されました。
 冒頭の「本法ニ於テ国家総動員トハ戰時(戰争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有效ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」がすべてを語っている通り、国防のためなら人、モノ、金のすべてを統制、運用することが可能としたものです(国防と謳っていますが、実際は戦争そのものです)。
 これによって、国内のあらゆるものが国家の管理下、統制下に置かれ、いわゆる全体主義国家となりました。
 この法案は昭和14、16、19年とに改正が行われており、改正の度に権限が大きくなるといったものでした。権限の強化に伴い、反則時の罰則を強化するなど、国家への従属を強くするものです。

 この国家総動員は突如登場したものではなく、大正6(1917)年の帝国議会において「次の戦争準備に国家総動員をせよ」という言葉も登場しており、戦争が国家の総力戦へと変化した時代に対応するために登場したものでした。

国民精神総動員運動

 昭和12年8月に国民精神総動員実施要綱が閣議決定されて、民間に戦争協力をさせる国民精神総動員運動が行われました。
 初期は民間の行事などを通じて精神的な国威発揚を図る運動でしたが、実践可能な項目の増加として、愛国公債購入運動、貯蓄報国運動、一戸一品廃物献納運動など国策協力が始まります。
 昭和14(1939)年には興亜奉公日を実施するなど、精神的な活動よりも実際の行動に重きが置かれるようになりました。
 これらの活動は、昭和15年の大政翼賛会に引き継がれていきます。

大政翼賛会

 国民精神総動員運動を引き継いだ、官制の国民運動団体です。
 大政とは天皇の政治を、翼賛はそれを助けて支えることを意味しており、平たく言うと国策の推進組織でした。
 国家総動員体制のために、ナチスのような一党独裁体制を敷く必要がある考え、昭和15(1940)年に結成された政治結社ですが、政治結社(政党)ではなく誰でも参加できるとして、翼賛会の総裁が首相ではなく、首相が翼賛会の総裁となると言いました。
 下情上通、下の考えを上に通す機関であるとして、政府に協力するものだと声明を出しました。
 結成当初から全国に支部を置き、昭和17年には町内会なども組み入れられて、国民をまとめました。

国民優生法

 昭和15(1940)年に発布された、ナチスでも利用された優生思想に基づく法律です。
 国民優生法は「国民資質の向上」を目的としており、「悪質なる遺伝性疾患の素質を有する者の増加防遏」、「健全なる素質を有する者の増加」を掲げます。
 前者は優生手術(不妊手術)によって遺伝的疾患を持つ国民の増加を防ぎ、後者は優生であると判断したものの人工中絶を禁止したものとなります。
 戦中のどさくさに紛れて成立したこの法律が実際にどこまで効力を発揮して、これらの手術などが本当に実施されたかどうかは不明ですが、戦中という狂気の時代、ナチスドイツに大いに影響を受けた時代にこういったものがまかり通っていました。

戦中の物資不足

 よく戦前は物資、食料不足が……、と言われていますが、あるところにはありました。地方都市で豪勢な接待を受ける商人、政治家の話は戦中でも珍しくなかったと言われています。戦中や、終戦直後、田舎の農家に買い出しに行けば割高ではあるが買えた、という点もこれを裏付けています。
 物資が無かったのは主に都市部で、その原因は行政機関、軍部による統制のずさんさと、軍優先、インフラ軽視による輸配送の停滞にもあったと推測できます。
 戦中、どこもかしも飢えていたわけではないことは、注意するべきでしょう(表立って売るほどあるとは言わなかったにしても)。