遊廓、吉原

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 大正期の吉原、遊郭の情報です。
 場所が場所だけに、悲惨、あるいは性的な話が多いため、そういった事柄が苦手な方は参照しないことをおすすめします。

 大正期と書きましたが、江戸期からの情報が多く含まれています。吉原という場所柄、江戸の雰囲気を多く残していたと伝わっており、古い時代の風習が残っていたことが多かったようです。
(その多くが、遊女を拘束するための風習や、客に金を落とさせるためのものであることも確かですが)

遊廓

 そもそも遊廓とは、遊女屋、遊女を置く店が集まった場所のことで、他にも遊里、色里等々の呼び方がありました(時代によって異なりますが)。
 遊女屋というのもまたそう呼んでいるだけで、遊女屋側は妓楼と言い、経営者のことは楼主と言いました。
 江戸期には江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町などが3大遊廓などと言われました(時期により異なることが多いです。ただ、吉原は常にこの3大に入っていました)。
 宿場町や門前町に発生した無許可の場合は岡場所などと呼ばれ、「岡」、つまり本道ではないとされています。
 江戸末期には全国に200ヵ所以上も存在したと言われており、規模はともかく、ほぼ全国津々浦々にあったと言ってよいでしょう(江戸期に流行った番付に遊廓番付なるものまで出るぐらい)。

 いわゆる売春、売春宿と言う主に女性が春をひさぐ行為、場所は太古から存在していましたが、鎌倉時代から治安の悪化、犯罪の温床となるこれらの場所を管理するようになり、戦国末期になるとその手間を省くために一か所に集めるようになりました。
 吉原などは「一日千両」などとも言われるほどの経済効果があったと言われており、遊郭が立ち退くと周辺の経済が成り立たないなどの事象もあったようです。
 明治期に入ってからも遊郭や花街に税を課すなどで似たような状況でした。

 多くの様々な人々が遊廓に通いました。金が掛かるために貧乏な町人などには縁がないことも確かですが、遊郭に入れば身分を忘れて様々な階級の人々が交流し、一種のサロンのようなものになっていたと言われています。
 遊廓側もこういった側面を利用して、狂歌や書画、音楽のお披露目会などを催して客を喜ばせたと言われています。
 大正期となっても吉原には江戸の雰囲気や仕来りが多く残っていたと言われており、娼妓解放令などの法令に触れない限りはあまり遊女の待遇は改善されていなかったようです。

花魁(おいらん)

 吉原の初期のころ、遊女の格付けの上から2つ、太夫、格子を花魁と呼びましたが、宝暦10(1760)年にそれまで花魁と呼ばれていた格付けの遊女が絶滅したため、これらの格付けが廃止されることに伴って、今度は呼出(よびだし)、昼三(ちゅうさん)、付廻(つけまわし)を花魁と呼ぶようになり、そのうちに遊女全般が花魁と呼ばれるようになりました。
 花魁の起源は諸説ありますが、もっとも有名なのは遊女の付き人である禿が「おいらのねえさま」と呼んだのがなまって「おいらん」になったというものです。
 花魁は容姿端麗なだけでなく、教養と芸事を身に付けていることが要求されました。これは花魁の客層が大身の武士や大名、裕福な商人や知識人、文化人だからだと言われています。
 このため、花魁になるには幼い頃からそのように育てられた、遊女の中でもごく一部のサラブレッドだけがなれたと言われています(伝説的な花魁の多くはそうでなかったようですが)。

吉原

 吉原は江戸開府間もない元和3(1617)年に日本橋の辺りに作られました。江戸が出来て以降増え続ける人口に合わせて増えた遊女屋をまとめて管理するためです。この手の利権を一本化して、幕府が利益を得やすくする狙いもあったようで、吉原以外には遊女屋を設置しない、他の遊女は認めないとしました(つまり、江戸では吉原以外の遊女、遊女屋はすべて非合法となります)。
 明暦3(1657)年の明暦の大火の前年から、手狭になっていた江戸の町の拡張に合わせて追い出されて、浅草山谷へと移動させられます(その際、莫大な移転の準備金と補償を受けています)。
 浅草に移転した際には約2万坪の敷地を誇る、日本最大の遊廓になり、夜間の営業も許可されて昼も夜も賑わうことになりました。
 吉原は戦後までも営業続け、敗戦後には特殊飲食店街と名前を変えて接待所で売春を行う形態となり、いわゆる赤線地帯となります。
 この形態は昭和33年の売春禁止法まで営業が続けられ、その後は風俗街となりました。

大門

 有名な吉原の正面となる大門です。
 門とは言いますが、戸になる部分はなく枠だけのようなものでした。
 こちらも吉原が焼けるのと一緒に何度も焼けており、都度、再建されていますが関東大震災の後は再建されませんでした。
 吉原は人造の街として長方形でまっすぐ伸びた通りを持っていますが、その方向は東西南北に沿っておらず、大門は北東を向いています。これは客が寝るときに北枕にならないように配慮したからだと言われています。
 江戸期ではお歯黒どぶに囲まれた吉原唯一の出入り口だったのですが、明治末期の地図では吉原内部の大きな通りが面している箇所に出入口が出来ているのが確認できます。
 ただし、客以外がそこを通るにはやはり許可が必要だったようです。

仲の町

 大門から入って吉原の中心を貫く大通りです。通りには引手茶屋が多く存在しました。
 多くの年中行事はこの通りで行われて、花魁道中も同じく目立つここを通りました。

稲荷社

 吉原の四隅にはそれぞれ稲荷社が設置されていました。
 北西側、江戸一丁目に榎本稲荷、北東側、江戸二丁目に明石稲荷、南西側、京町一丁目が松田稲荷、吉原の南東側、京町二丁目、羅生門河岸の奥に九郎助稲荷です(ちなみに吉原の外、大門近くの高札場にも玄徳(よしとく)稲荷があります)。
 特に人気があったのは九郎助稲荷で、毎月の午の日が縁日として屋台などが出てにぎわったと言われています。

 これらの吉原の四隅の稲荷、玄徳稲荷の5社は明治14(1881)年に合祀されて、吉原神社となりました。最初は玄徳稲荷のあった位置にあったのですが、関東大震災で焼失、昭和9(1934)年に現在の位置(吉原の南西側)に再建されています。
 この吉原神社の南側には吉原の遊女たちが信仰した吉原弁財天があり、こちらは吉原神社とは関係が無かったのですが昭和10(1935)年に合祀されています(関東大震災のとき、火から逃げ場を無くした遊女たちが、神社の境内にある池に飛び込み、溺死したことで有名です)。

お歯黒どぶ

 吉原を囲む堀の呼び名です。
 遊女たちの使うお歯黒が流れ込んで黒くなっているからだとも、お歯黒のように黒く汚れているからそう呼ばれているとも言われています。
 吉原開設当初は5間(約9m)あったと言われており、明治期には3尺(約1m)しかなかったと言われています。

吉原の地図

吉原地図

遊女、娼妓

娼妓となる手続き

 多少手続きが異なりますが、明治期以降、娼妓となるためには以下の様な流れでした。
  1. 女衒などに連れられて妓楼へ赴き、面談を受ける。
  2. 病院で性病等の検査、問題が無ければ証明書を発行。
  3. 所轄の警察署(吉原の場合は浅草象潟警察署)へ「娼妓出稼願」を提出。認められれば鑑札が発行される。
  4. 借金(前借金)、年季の契約を楼主と交わし、正式な遊女になる。
 多くはありませんが、女性が自ら妓楼に赴いて遊女になるパターンもありました。
 また、大正期などでは警察署へ娼妓出稼願を提出した際に、本当に本人の意志であるかどうか確認がされるようになったと言われていますが、付き添っている女衒に事前に言い含められる、あるいは女衒が受け答えをするなどであまり意味が無かったようです(警察側もこれは認識しており、ただの茶番のようだった、という証言があります)。

遊女、娼妓の年齢

 明治6(1873)年の貸座敷渡世規則において、娼妓は15歳を越えるもの、と定義されており、16歳から娼妓として登録可能でした。
 明治21年の貸座敷引手茶屋娼妓取締規則によって、学生生徒・未成年者・婦女の貸座敷への出入り禁止となっています。
 明治33年の娼妓取締規則でも同じく16歳を下限としていましたが、大正15(1926)年の改正によって18歳に引き上げられました。

遊女、娼妓

 遊女たちは江戸期は遊郭の敷地から出る事が出来ませんでした(無断で出た場合は足抜け、つまり脱走扱いとなり、きつい折檻のうえに下級の店に落とされるなどの処置がとられたようです)。
 明治以降、自由廃業が可能になると外出もある程度は自由になったようですが、その際には警察に届け出たうえに、逃亡を防ぐために単独での外出は出来なかったようです。
 また、関係者でも外に出るには鑑札を見せる必要があり、自由な出入りとは言い難かったようです。
 大正期となっても吉原には江戸の雰囲気や仕来りが多く残っていたと言われており、娼妓解放令などの法令に触れない限りはあまり遊女の待遇は改善されていなかったようです。

年季

 遊女は妓楼で働く年数を事前に決めていましたが、実際は前借金が完済するまでは妓楼から出られることはありませんでした(身請けなどされれば別ですが)。
 遊女の年季は契約によるところがありますが、大体10年です(最長10年だったのが、何故か10年契約が普通になっていたようです)。借金がかさんでいればその限りはなく、また御礼奉公と呼ばれる延長期間までもありました。結局、遊女として現役を終える28歳まで働かされることが珍しくなかったようです。

水揚げ

 遊女が新造と呼ばれる見習いから花魁にデビューする際に、初めて客を取る儀式です。
 水揚げの客は見世側が選び、主にこういったことに慣れた年寄りの客が選ばれたと言います。
 この後、本格的に客を取りはじめ「突上げ」と呼ばれます。このとき、扇や盃などの品物を配ったり、赤飯を配ったりとお祝いしました(が、これらの費用は当の遊女持ちで、さらに借金がかさみました)。

身請け

 遊女は年季を開ける前でも借金を清算すれば引退は可能でした。このとき、他人に払ってもらい、払った者のもとへ嫁ぐことが多かったため、「身を請ける」と言います。
 それまでの借金に加えて、これから稼ぐであろう分の金に、ご祝儀なども加えて払う必要があり、上級の遊女などは空恐ろしい額になります(太夫が自身の体重と同じだけの金を払わせた、などという伝説もあります)。

3度通うという伝説

 よく言われる、高級な見世では1回目は「初会」は顔合わせ、2回目は「裏」で一緒に食事などをし、3回目でやっと「馴染み」となって、やっと床入り……、というものは吉原の全盛期、太夫が客を袖にするのも普通だった時期にあった伝説のようなもので、吉原の高級さを喧伝するための俗説として流布していたようです。
 特に江戸中期、太夫が絶滅した時代以降には廃れた風習であると考えるのがよいでしょう。
(ちなみに客の訪問回数を「初会」「裏」「馴染み」という言い方はしていたようです)

遊女の恰好

 吉原の開設の際に幕府側から出された条件の一つに、遊女は派手ではいけない、というものがあり、遊女たちも最初の頃は町民と変わらない恰好でした。
 しかし、江戸期の商人バブルに乗って次第に華美になっていきます。
 太い帯を前で締め、打掛の重ね着に金襴緞子の帯を結び、頭の飾りも大きく、多数の櫛に簪を刺すようになりました。
(前で帯を締めるのは一般の女性も行っていたのですが、そのうちに廃れて、これが遊女の独特なスタイルとなりました)

郭言葉

 郭独特の言葉は、各地の遊廓や、時代、場合によっては妓楼ごとに異なります。
 最も有名な「ありんす」は吉原、江戸後期と言われており、その他にも「ざんす」、「おす」などの言葉があります。
 一説には京都弁のなまりが元であるとも言われており、諸説あるなかで有名なのは、地方から女衒に連れてこられた、女性の地元の言葉をごまかすための人造言語であると言われています。
 大正期にはすでに教育が行き届かない状況となっており、ごく普通にお国の訛りのある言葉を話すことも多かったと言われています。

遊女のランク付け

※江戸期の情報となります。大正期はどうだったかは要検証の項目です。
 初期の元吉原では、上から太夫、格子、端の3つで、上の二つが花魁と呼ばれます。
 これが時代が下るにつれて細分化されて、新吉原の初期で太夫、格子、散茶、局、切見世となり、江戸中期には太夫が全滅したために太夫、格子が廃止されて散茶が格上げ、細分化して呼出、昼三、付廻となり、その下に座敷持ち、部屋持ち、切見世と続きます。
 太夫、格子、端の廃止後は、元散茶の呼出、昼三、付廻が花魁と呼ばれるようになっています。

張見世

 通りに面した妓楼の座敷を格子で隔てて、そこに座る遊女たちから遊ぶ相手を選ぶ形式を張見世と呼びました。
 格子のうちに夜は大きな行燈に灯を入れて見せ、三味線で客の気を引いたと言います。
 明治期から女性を動物のように檻に入れているように見える、見世物にしているなどと批判を受けて、大正5(1916)年に廃止され、遊女の写真を飾って選ぶようになりました。
 この写真は遊女が着飾って化粧もばっちり決めたうえでプロの写真家が撮影したため、トラブルの元になることも少なくなかったようです。

揚屋

 大見世の場合、遊女は妓楼から揚屋に呼ばれる形をとり、まず遊女が移動して揚屋で酒宴、遊びという形式を取りました。
 この移動の際に花魁が禿と店の者を連れて行列をするのが「花魁道中」として有名です。
 揚屋は宝暦に花魁の絶滅とともに姿を消しましたが、「花魁道中」はイベント時の見世物として残りました。

引手茶屋

 主に大見世、中見世への案内を行う茶屋です。一見さんお断りですが、時代とともに緩くなるのはどこも一緒です。
 本来は遊びの場所ではなかったのですが、見世に案内されるまでの時間、客を楽しませることもあったり、簡単な食事なども出しました。
 引手茶屋を通すことで客は面倒な手続きや、支払いを安心して任せることが出来たといい、この引手茶屋を通すのが通だと言われています。
 また、大見世は引手茶屋を通さないと入店が許されないこともありました(このルールがいつまであったかは不明ですが、大見世を使うような客は引手茶屋を通すのが普通な上に、遊女と遊ばず引手茶屋だけで遊ぶ客もあったようです)。
 普通の客が引手茶屋を通さずに直接妓楼へと赴くことを、直きづけと呼びます。

切見世

 吉原は置いている遊女の格によって大見世、中見世、小見世と部類されましたが、さらにこの下に切見世、河岸見世というものがありました。
 こちらは値段の方も最低クラスとなりますが、吉原特有のルールもなくいきなり床入り可能でした。また、切見世は大部屋を衝立などで区切っただけでしたが、河岸見世は個室でした。

三業

 貸座敷、引手茶屋、芸者の三つの業種のことです。
 これらにそれぞれの組合があり、それらを取りまとめる吉原三業取締事務所がありました。この事務所は警視総監から吉原の全責任を負うとされていたと言われています(代わりに吉原内では絶大な権限を持ったとも)。

吉原の年中行事

花魁道中

 吉原の年中行事、夜桜、玉菊灯籠、仁輪加の際に、豪華絢爛に着飾った花魁が八文字と言われる独特の歩き方(遊廓や遊女によっては内外が変わったそうです)で、禿、店の者を引き連れてメインストリートである仲の町を歩きました。
 上級の遊女、いわゆる花魁と呼ばれる遊女が客から指名を受けて遊女屋(置屋)から揚屋へと移動するさいも、小規模ながら同じように行い、こちらも花魁道中と呼ばれます。
 時代が下って揚屋が廃止されると、客を迎えに行く際の花魁道中は無くりましたが、イベントでのショーとしての花魁道中が残ります。しかし、これも明治期にはすでに取りやめとなっていました。
 明治44(1911)年の吉原の大火の後、大正3(1914)年、東京大正博覧会に合わせて吉原復活をアピールするイベントの際に「花魁道中が復活」と話題になりました。
 1年後、同じようなイベントとして再び花魁道中を行おうとした際、前年に花魁として選ばれた白縫が体調不良だったにも関わらず、重い着物に飾りを着せて吉原を長く歩かせた奴隷的な労働であると救世軍に訴え出て、廃娼運動にまで発展します。
 訴えが通って白縫は自由廃業として娼妓をやめ、花魁道中はその年から廃止となりました。

紋日(もんび)

 揚代が倍になるという吉原的な祝日扱いの日です。
 江戸期の初期には月に3~4日程度だったのですが、江戸中期の町人バブル期には月の半分程度が紋日になったと言われています。その後、吉原の大衆化に伴い、吉原の行事に連動したものへと激減して年間に10日程度になりました。
 大正期にはすでに紋日は廃止されていたようです(明朗会計!)。
(紋日に、予定された揚代を稼げない遊女はその分を妓楼側に補填する、という訳の分からない制度が存在していました)。

夜桜

 江戸期から吉原の年中行事の一つで、文字通り夜、吉原の通りに植えられた桜を眺めるものでした。
 この桜は季節が来ると植え替えられたもので、吉原の通りは季節ごとに植え替えを行っていました。
 吉原は入るだけなら無料だったので多くの見物客でにぎわったと言われています。

玉菊灯籠

 7月1日から末まで、引手茶屋などで灯篭を吊るすイベントです。
 太夫だった玉菊の慰霊のために有志が行っていたのものが、吉原全体のイベントになったものだと言われています。趣向を凝らした灯篭で客を楽しませました。

仁輪加(にわか)

 江戸期から吉原の年中行事の一つで9月の初めごろに行われました。
 吉原の通りをそこのけ(そこぬけ?)という枠だけの舞台を引いて歩き、その中で遊女たちが仮装をしたり、芝居を演じたりしました。
 にわかの呼び名のとおり、本業ではない遊女たちが行うものであるため、お遊び、茶番の類……と言ったことはなく、遊女たちの威信をかけてかなり本気で臨んだイベントであるようです。

郭に関わる人々

女衒(ぜげん)

 遊女を斡旋する仲介人のこと……ですが、実際は人身売買の業者です。時代が下ると口入れ屋、明治期以降には周旋人などと呼ばれるようになりました。
 主に貧しい田舎の村々を回ってそこの娘を買い取って、遊女屋と売り払っていました。
 元和2(1616年)年に幕府は人身売買を禁止する命令を出していたため、年季奉公の口を斡旋し、その前金を払う、ということにしています。あるいは、借金のあるところはその権利を買い取り、その形として娘を貰っていくようなこともありました(明治期以降の政府も人身売買は禁止、犯罪としています)。
 人身売買の仲介者であることは間違いないですが、一面として食うのも困る極貧の家庭から借金まみれとはいえ衣食住がある程度保証される暮らしが出来るようになる……、ということはあります(飢え死ぬよりはマシ、という考えになってしまいますが)。

忘八(ぼうはち)

 遊女屋、妓楼の経営者、楼主のことです。
 表向きは八つの徳(仁義忠孝礼智信悌)を忘れさせる場所の持ち主であることに由来しているとされていますが、実際はそれらの徳を一つ残らず忘れ去った者であるということです。

禿(かむろ)

 遊女見習いとして遊女の付き人となった主に10歳未満の子供達です。
 禿の衣食住は付き人となった遊女が持つために、上級の遊女でなければ禿は付きませんでした。こちらも主に女衒に買われた少女達で、遊女となるには若すぎる場合に禿として遊女たちから廓の仕事内容や必要な知識、教養までも学んだと言います。
 また、特に花魁の候補となる楼主が目をつけて雑用などさせない「引っ込み禿」なるものも居たそうです(そして、実際に花魁になれるのはこの引っ込み禿だったと言われています)。
 明治、大正期に入っても禿は存在したようですが、明治21(1888)年の貸座敷引手茶屋娼妓取締規則によって16歳未満の娼妓登録禁止、学生、未成年、婦女の貸座敷への出入り禁止が出され、女衒がすぐに店に出られるような年齢の女性以外は買わなくなっているようなことがあり、明治、大正期の禿がどうだったのか、詳細は不明です。
 有名な大正3年の花魁道中には禿の姿が見えますが、そのときだけ雇ったのか、元々居たのかは不明です。

新造

 新造とは元は商家の妻のことでしたが、吉原では禿が12~13歳になると新造と呼ばれるようになりました。
 これも「振袖新造」と「留袖新造」に分かれており、その名の通り振袖をあてがわれた花魁候補の遊女と、留袖をあてがわれた遊女となります。
 ちなみにこの新造のお披露目も「新造出し」というイベント化されて、やはり付き人の遊女が費用を出していました。
 例外的に「番頭新造」と呼ばれる年季が明けた遊女が郭に残っている場合があります。彼女らは客は取らず、遊女たちの世話や教育、監督を担ったと言います。

遣り手(やりて)

 主に遊女を引退して吉原に残った女性がなると言われています。そのため、遣り手婆となることが多いようです。
 対外的に客との窓口になりその交渉や、遊女との段取りを決める役割を担い、妓楼内では遊女の監視役となっていました。

若い衆

 年齢に関わらず、郭内で働く男性をこう呼びました。
 郭内には裏方として働く男性も多く存在しています。楼主の補助で金庫番である「番頭」、客を呼び込む「客引」、玄関で客を取り次ぐ「見世番」、履物を預かる「下足番」、そして客を案内したり遊女の動きを取り仕切る「二階廻し」が居ました。
 また、この他に妓楼には所属しない雇われの「風呂番」「中郎」「不寝番」なども居ました。
 妓楼の中で遊女と接触する機会が多かったですが、恋愛はもちろんご法度でそういった関係になれば男は吉原から追い出され、女は下級の店に移されたと言われます(もちろん、その前にきつい折檻が待っています)。

付馬(つけうま)と仕置屋

 付馬は遊興の代金が払えない客の取り立てに吉原の外まで付いていくもので、主に中級以上の店が使いました(客が家に帰れば払うあてがあることが前提のため)。
 これに対して下級の店では、一旦客の借金を立て替えて借金自体を買い取るのが仕置屋で、こちらも吉原の外へ客に付いていき、厳しい取り立てを行いました。

芸者

 歌舞音曲、技芸で客を楽しませ、場を盛り上げる役割を持った女性です。
 吉原では芸者は遊女の座敷を盛り上げるための存在であったため、遊女より下と見られていました。
 見番に登録して派遣される芸者と、妓楼が抱えている内芸者に分かれます。見番は仲の町にあったことから、仲の町芸者とも呼ばれ、二人一組で派遣されました。
 吉原では芸者が遊女のように客と深い仲になることは禁じていたため、厳しく監視されました(二人一組なのもその為です)。
 遊郭の外の場合、有名な深川の芸者は「芸は売っても体売らぬ」と言いましたが、深川も岡場所として有名でした。

幇間

 いわゆる太鼓持ちです。
 妓楼に所属しておらず、見番と呼ばれる吉原の事務所に所属していました。
 客や引手茶屋に呼ばれて座敷に現れて、客や遊女を持ち上げ、小噺から歌に踊り、様々な芸を披露して場を盛り上げる役割を担っていました。

郭に出入りする人々

 郭に出入りしているのは何も客と妓楼の関係者に限った訳ではありません。
 遊女を相手に商売をする髪結、小間物屋、呉服屋、易者に按摩、貸本屋が出入りをしていました。
 また、吉原は入るだけなら無料であるため、物乞いや大道芸人も入り込んでいます。
 探索者が出入りする最も簡単な理由は客としてですが、それ以外にもこれらの職業や、その関係者としても面白いかもしれません(客でも郭を見るだけの見物客、いわゆる素見(すけん、ひやかし、ぞめき)でもよいのですが)。

廻し

 吉原では遊女が一日に複数の客を取るのが普通で、客を待たせてそこを遊女が順番に回っていくのを「廻し」などと呼んでいました。
 客の方も心得たもので、待つのを粋だとか言いましたが、結局一晩待っても遊女が来ない、などということもあったようです(その場合でも普通に料金は取られました)。
 また、この待っている間に同じ見世の他の遊女や、新造が客の相手をすることもありましたが、暇つぶしの相手になるだけでそれ以上ではなかったと言います。
 この廻しの習慣は、大正期も同様であったと言われています。
(吉原以外の遊廓では廻しをしなかったと言われていますが、遊郭によるところが大きいようです)

台の物

 揚屋で出される料理は基本的に仕出し屋から取り寄せました。
 仕出し屋のことを「台屋」、料理を「台の物」と呼びました。料理は豪華な見た目重視であったため、あまり美味しくなかったとされています(ちなみに、料金は客持ちなので、あまり気にせずに高価なものが頼まれたようです)。
 遊女たちはこれらの料理は客の前では食べられず、客が寝入ったあとにこっそりと食べました。
 遊女の毎日の食事は基本的に一杯のご飯に味噌汁などの汁ものと香の物に一菜のみで、足りない場合は郭内にあるおかず屋から自費で買っていました。

猪牙舟(ちょきぶね)

 吉原の北側(大門のある方)には、日本堤と呼ばれる堤防の下に山谷堀と呼ばれる堀が通っていました。
 これは大川に通じていたため、船で吉原に乗り付ける客もいました。この時、普通の船ではなく細長くて足の速い船を使ったのですが、この船を猪牙舟と呼びました。
 由来には諸説ありますが、猪の牙のような形だからとか、猪のように早いからだとか、ちょきちょき進むからだと言われています。
 ちなみに基本的に一人で乗る(+船頭)ものですが、二人で乗ることもできたようです。

心中立て

 遊女たちが客に対して(ポーズだけでも)本気であることを示すために行ったことを心中立てと言います。
「起請文」熊野権現の護符の裏に誓いを書いたもの。同名の落語で有名です。
「指切」文字通り、指を切って客に贈った(指とまではいかずとも、爪や髪の毛の一部などもあったようです)。
「刺青」客の名前+命、と腕などに彫ったと言われています。

後朝の別れ(きぬぎぬのわかれ)

 当時、妓楼に止まった客でも夜明け前に帰るのが普通でした(有名な鴉が鳴いたら帰る、というやつです)。
 このとき、遊女は二階から階段の下まで客を見送って別れを惜しみ、これを後朝の別れと言いました。
 また、引手茶屋を通している場合はそちらへ帰る場合もあり、「居続け」と呼ばれるように帰らずに妓楼に留まることもあったようです(そのまま料金も増え続けますが)。

足抜け

 郭から脱走することです。大体失敗してひどい折檻(拷問)を受けて死亡するか、しなかった場合は下級の店に送られます。このため、足抜けは心中とセットに近い状態となっています。
 また、足抜けはロマンチックなものと見られた節もあり、『曾根崎心中』で有名ないわゆる心中ものの浄瑠璃、歌舞伎などの題材とされました(曽根崎は大阪ですが)。
(江戸中期に心中が大流行しため、幕府が禁止令を出し、これらの心中物も禁止されました)

岡場所

 江戸では吉原以外の遊女屋、遊女はすべて非合法……、とされていますが、吉原の料金と格の高さは一般の庶民にはハードルが高すぎ、手続き、料金とも簡単なものが流行るようになります。
 内藤新宿、品川、千住、板橋などといった江戸周辺の宿場町や、江戸内でも深川、根津、音羽、谷中のような門前町が「岡場所」と呼ばれて幕府非公認の色街を形成します。
 これらの岡場所は非公認、非合法でときには一斉検挙なども行われましたが撲滅されることもなく、手軽な遊び場所として繁盛を極め、吉原の商売敵となりました。
 岡場所で捕らえられた遊女は、吉原送りになるのが決まりだったそうですが、これが一斉検挙によって大挙して吉原に送り込まれた結果、吉原の質を落とすとともに庶民にも岡場所と同じ女だと認識されるようになり、さらに吉原の勢いを落としたと言われています。
 明治、大正期でも似たような場所が似たように形成されていきました。

娼妓解放令

 明治5(1872)年、それまで明治政府は吉原等の遊廓をそれほど問題視していませんでしたが、マリア=ルース号事件によって「娼妓解放令」の布告を出し、表向きは遊女たちを解放しました。
 江戸幕府、明治政府とも人身売買は禁じており、妓楼側も期限を決めた奉公であると言い張っていたのですが、マリア=ルース号事件の国際裁判の中で娼妓が実質的な人身売買であると批判を浴びたためでした。
 以降、遊女屋は「貸座敷」として座敷を遊女に貸し出し、遊女たちは自分の意志で座敷を借りて営業している、春をひさぐのではなく座敷で出会った客とそういうことになったと言い出し、実際的には特に改善はされませんでした(これらは現在のソープランド、いわゆる特殊浴場でも使われるいい訳です)。
 明治33年には「娼妓取締規則」が出されて、自由に廃業できるようになった言われていますが、この時はやはり廃業できるのは借金を返し終わっていたり、返す当てがある場合に限られていたようです。

廃娼運動

 明治5(1872)年の娼妓解放令はほぼ意味はなく、その後に出た貸座敷渡世規則などによってむしろ公認されたような形になったため、これに対して各地で散発的に廃娼論(公娼の廃止)が起こりました。
 当時の埼玉県や群馬県などで廃娼が実際に行われたことがありましたが、多くが公娼から私娼へと鞍替えしただけで、むしろ悪化したと言わざるを得ません。
 明治19(1886)年に東京で矢島楫子を中心とした夫人矯風会が発足、廃娼運動のほか、禁酒、一夫一妻制、長崎での海外での売春婦(いわゆる「からゆきさん」)の取り締まりの強化などを訴えたほか、明治44年の吉原の大火後、再興反対運動などを行いました。
 日清戦争後、明治28(1895)年に救世軍の伝道者リチャード・ライトらが来日、その活動に共鳴した山室軍平などが熱心に娼妓解放運動を行いました。
 これらの活動のためか、明治33(1900)年には新たに娼妓取締規則が公布され、自由廃業が可能であるとされましたが、前借金を無効にすることはできないために、自由廃業は建前に近いものとなってしまいました。
 皮肉なことにこれらの廃娼運動は宗教における禁欲や中上流階級の貞操観と結びついて、遊女の行為だけでなく存在そのものが蔑視、罪悪視され、差別されていくことになります。

性病

 こういった場所と性病は切っても切れない関係です。
 吉原に限らず、遊女たちは不特定多数の男性と性行為を行うため、ほぼ何らかの性病に罹患していました。特に江戸期では、梅毒と淋病の蔓延は猖獗を極め、シーボルトやポンペの日本の記録にも残され、杉田玄白なども性病の患者を数多く診察しています。
 江戸期はともかくも、明治、大正期では娼妓たちは鑑札を受ける際に性病の検査をされて罹患していないことが確認のうえ、娼妓となります。
 しかし、すでに江戸期から続く市中の性病の蔓延のために、すぐに梅毒などを伝染させられたようです(一応、衛生器具もあったのですが、着用するしないは客側の意向だったようです)。
 江戸期にはこれらの病にかかって一人前などと言われるほどでした。
 明治、大正期と娼妓に対しての定期的な検査とともに、明治42(1909)年に国産のゴム製コンドームが発売、普及してきたため、江戸期に比べれば罹患の危険性は低下したようです(現代のようなラテックス製のコンドームは昭和9(1934)年に製品化されたと言われます)。
 また、効果は疑問ですが事前事後に消毒液を性器に散布するなどの処理をするようになりました(こちらは主に岡場所の話ですが)。
(江戸期がほぼ100%だったのよりマシ、という程度で、戦後、遊郭に繰り込んだアメリカ兵たちの間で性病が大流行して、吉原などの遊廓が米兵の立ち入り禁止(オフリミット)に指定されたのは有名です)

妊娠と堕胎

 避妊具のなかった時代、妊娠した遊女には中条流の堕胎医が呼ばれました。
 この堕胎は悪くすれば死に至るようなものであったため、稼げる遊女であった場合(妊娠による休業期間が補償できるような)、郭で出産するようなことがありました。生まれた子供の多くは里子に出されましたが、女の子の場合は禿にすることもあったようです。
 また、彼岸花やほおずきなどのアルカロイドを含むものや、伊勢白粉などの水銀を含むもので堕胎を試みることもあったと言われています。

投げ込み寺

 遊女や、妓楼の関係者が死ぬと寺の墓穴に投げ込まれました(それ以上の供養もなにもありません)。
 浄閑寺が有名ですが、他に西方寺も投げ込み寺でした。ともに浄土宗です。

吉原の火事

 江戸は火事が多かったですが、吉原もよく燃えています。全焼になるよう火事は江戸期通期で18回あったと言われています(小さな火事は数えきれないほど)。
 単なる失火ももちろんありますが、遊女たちの叛乱……とは行きませんが、よく放火し、よく全焼したようです。江戸期で放火と言えば重罪で死罪となることも少なくありませんでしたが、放火に走った遊女はだいたい流罪で済んでいたようです(とは言え、八丈島などの島流しですが)。
 全焼して営業不能なると休業……、というようなことはなく、別の場所での営業許可が下り、仮宅と呼ばれたその場所が即座に遊里になりました。場所はもと遊廓があった場所が多く、浅草、深川、本所がよく指定されました。
 明治初期以降、大きな火災は発生していなかったのですが、明治44(1911)年の吉原大火(浅草大火)と呼ばれる大規模な火災が発生します。
 この火事は即座に周辺のメディアによって報じられ、リアルタイムに焼け広がる様が伝えられました。
 4月9日11時30分に吉原内の妓楼より出火、同日の午後6時ごろには吉原は全焼と報じられ、周囲に拡大、延焼、午後10時ごろに消火に成功、約6500戸を焼く大火となりました(昼間の火事であったため、死者はわずかに8名と報じられています)。
 これによって江戸から残っていたものは大体焼けた、と考えて問題ないでしょう。

丸山遊廓

 元は平戸の丸山だったものが、寛永18(1641)年鎖国の成立によってオランダ商館とともに長崎に移設されて、町名も同じく移動してきます。
 翌年に遊女の管理制度を確立するために、長崎の遊女が集められて丸山遊廓が成立します。
 当時、日本で唯一外国人を相手にする遊廓で、その遊女は出島などに出入りが許可されていました。
 幕府は人身売買を禁じていたため、遊女たちは吉原と同じく、前借金の契約を行い、年季奉公をすることになっていました。
 丸山遊廓の遊女たちは大半が地元の住民であったと言われています。当時、長崎にはこれといった産業がなく、外国人を相手にすると莫大な見返りがあり、それは一種の特権でした。
 このためか、丸山遊廓は遊女に対して寛大であったと言われています。駆け落ちしたり、病気になったり、あるいは病気になって戻ってきた遊女などを再び雇い入れたりしたと言われています。

請人(うけにん)

 女衒と似たような遊女の仲介者ですが、女衒と異なり遊女屋に女性を売るだけでなく、身元引受人として遊女屋と遊女の調停をしたり、年季明け後の世話をしたりしたと言われています。
 また、現地の外国人に対して現地妻として遊女を世話もしていました(正確には遊女ではないのですが、遊女以外は出島や唐人屋敷に入ることできないため、名目上だけは遊女となって現地妻となっていました)。

からゆきさん

 主に九州地方の北部で使われていた言葉で、海外へ出稼ぎに行く人々の総称です。
 遊女が出島に赴き、外国人の相手になる場合は「紅毛行」、中国人の場合は「唐人行」と呼ばれて、からゆきさんの語源となったと言われています。
 元々、長崎に出稼ぎに出る人々が多かったところ、幕末の頃から海外に渡航するものが出始めました。中には女衒に騙されたり、誘拐されたりと人身売買の臭いが強かったようです。
 主に娼館に売られた女性が、さらに海外へ転売される……、という図式が多かったようですが、利益が多く出るために自ら望んで密航、からゆきさんになる、ということもあったようです。
 から(唐)ゆきとは言いますが、行き先は朝鮮、中国から東南アジア地域全般、場合によってはさらに遠くインド、シベリア、アフリカ、アメリカなどもあったようです。
 こちらも遊女と同じく女衒に買われて奉公に出されたと言われていますが、からゆきさんともなればほぼ戻ってくることは想定されていなかったと思われます(が、後に海外で財を成して戻ってきた男性の妻や、女性その人が元はからゆきさんだったというような話が出て来るので、戻って来ることが皆無ではなかったようです)。
 からゆきさんの最盛期は明治末期で、大正に入ってからの国内での遊女への対応の転換に伴い、これらのからゆきさんへの風当たりも強くなり(海外からも人身売買、人権問題の批判が強く上がり)、「国家の恥」とまで避難されるようになります。