帝都の事件、大正の事件


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 文化項目から事件系の項目を分離させ、大正期に起きた事件を紹介します。
 文化項目ではなく、犯罪や、それに関わるような項目をこちらに独立させていますが、一部、文化的な項目と判断されたものは大正の文化の方へ置いています。
 帝都で起きた事件に限らず、日本で起こった事件を取り扱い、シナリオの参考や、文化項目の補足項目となればよいかと思います。

帝都の事件、大正の事件項目一覧:

当時の警察

 明治に入り、警察組織が組織され、主に士族からなる邏卒(明治5年に巡査と改称)が治安維持にあたりました。
 警察は言うなれば治安維持軍的な、その構成員のほとんどが元軍人、軍関係者です。
 彼らは最初は長さ1m程度の棍棒を標準装備としており、言うなればそれこそ制服を着た捕り方の様なもので、拳銃やサーベルなどの装備はありませんでした。
 明治15年になり、西南戦争で活躍した抜刀隊を意識してか、あるいは警察内の士気を高めるために、帯刀を許可し、一般警察官はサーベルを標準装備とします(しかし、大正の大震災時に抜刀して治安維持にあたっても効果は薄かったらしいです)。
 大正に入ると乗馬警察官(文字通り、馬に乗った警察官です)などは短剣を装備するようになります。
 大正13年から特高(特殊高等警察)を中心に拳銃の装備が始まり、警視庁でもFN/ブローニングM1910とコルト・ポケット.32(M1903)などが400挺ほど採用され、地方警察も予算に合わせて購入したようです。
 大正期では、「刑事」と言えば拳銃、「警官」と言えばサーベルで間違いないようです。

 維新の西南戦争時に薩摩軍の白兵戦に悩まされた官軍が警視庁抜刀隊を組織したのは有名で、殺人許可のある抜刀隊は通常の警察の手に余る重大犯罪、凶悪犯罪に出動しました。
 なお、いつまで抜刀隊が存在したのかは不明です(大正初めの日比谷焼き討ち事件時に、抜刀隊がどうこう、という記述も見られ、大正までもあったことは確かなようです。正式な部署、部隊ではなく、必要に応じて編成された?)。
 抜刀隊と合わせて、鉄砲組と呼ばれる陸軍払い下げの小銃などを装備した(当時にしては)重武装組織も存在したようです(実働はあまりなかったようですが)。

 大正初期の頃までの警察官と言えば尊大な態度で市民に「おいおい」「こら」と声を掛けるのが当たり前でしたが、大正2年、安楽総監の就任時に各署の所長に対して「もしもし」と呼びかけるように改善せよとの通達が出ています。
 これ以降、警察の不祥事や市民との衝突による警察官の不人気が進み、その態度も丁寧なものになっていきます。

 大正期の巡査の採用基準は以下の通りでした。
  ・現役兵役を終了
  ・身長155センチ以上
  ・身体強健
 以上の条件を満たす男子のみとなります。
 この資格を満たす場合に、巡査の受験資格があり、志願書と履歴書を提出したうえで、歴史、地理、算術、国語の試験をパスした後、巡査教習所で3ヶ月程度の学科、実務を学び、さらに教習期間の終わりに試験があり、これを合格した場合に警察署に配属され、さらに一定期間の警察署勤務後、駐在所に派遣されました。
 また、採用当初は原則警察署に併設された宿舎で寝泊りし、制服は給付品ですが、サーベル等は私物でした(拳銃が支給されるのは震災後で、特高、刑事が中心であり、巡査にまでは支給されていませんでした)。

 巡査は、巡査部長、内勤、外勤、特務、刑事と区別され、主な業務は以下の通りです。
 ・巡査部長
  巡査業務に加え、警部、警部補の補助。
 ・内勤
  警察署内での事務。
 ・外勤
  交番勤務を中心とした実務。
 ・特務
  法廷取締などの特殊な技能が必要なもの。
 ・刑事
  犯罪捜査、検挙のみを担当する。

探偵

 フィクション、ノンフィクション問わず、探偵の存在は有名です。
 この探偵業というものは一切の資格、申請は近年まで不要で、平成19(2007)年にやっと「探偵業の業務の適正化に関する法律」で一定の規定、規制が定められました(それでも、都道府県委員会への開業届出のみであり、資格が必要になったわけではありません)。
 興信所とは「信用を興する」、探偵は「調査を行なう」という意味で、興信所も信用を興する為に調査を行なう為、探偵と興信所の明確な差異はありません。

 探偵業の歴史は古く、産業革命の中期にはすでにあったと言われています。
 1833年のフランス、フランソワ・ヴィドックが最初と言われており、諜報活動に従事していた元軍人であると言われています。
 アメリカの有名なピンカートン探偵社も1852年に開業しており、日本では明治25(1892)年に大阪で商業興信所が最初だと言われています(ただ、その1年前に帝國探明会(会は旧字体)という企業の広告があり、もっと古くから調査を行なう会社らしきものはあったようです)。
 同じ年に、商工社(現在の東京商工リサーチ)、29年には東京興信所が設立されのちに商業興信所と合併し、現在の東亜興信所となっています。また、33年に帝国興信所(現在の帝国データバンク)が開業しています。
 これらの多くは銀行や企業、経済人の後ろ盾によって設立されており、主に企業の信用調査を行なうのを目的としていたものでした。
 調査の方法も全くノウハウが無いところから始まっていたこともあり、信用調査の対象に直接乗り込んでいくとか、興信所だと丸分かりの状態で周辺の調査を行なうなど、笑い話の種になるような稚拙なものが多かったと言われています。
 また、これらの調査を企業側も、調査を受ける側も忌避する傾向があり、世間の見る目は冷たかったようです。

 この後、日露戦争によって世間が戦勝景気に沸くと、企業や採用の調査のブームがにわかに起こり、様々な探偵社の設立が相次ぎました。
 この明治後期の雨後のたけのこのような探偵社の乱立は、特に資格、規制がなかったことからも、性質の悪い探偵社を増加させます。
 調査報告自体が適当なものはまだマシな方で、調査結果を出さずに(実際は調査をしていない)のらりくらりと言い逃れる、調査結果をネタに強請りたかりの類まで存在したようです。
(元々、探偵草創期には自分で犯罪を起こして自分で解決するようなものまで居たと言われています)
 このような事態を受けて、明治43(1910)年に大阪府で「信用告知業取締」の県令が発せられ、探偵社、興信所を警察署長の管理下に置き、不正を禁じるとしましたが、この規制がどこまで効果があったかは疑問があります。ただ、これを機に右に倣えとほぼ全国で同じような県令が発効されました。
 この規制の為、と言うわけでもなく、信用も実績も無い探偵社が生き残る為に、どこからかの依頼を受けて調査するのではなく、自身で勝手に調査を行ない、会社や個人の名簿、いわゆる信用録、紳士録を発行して企業に買い取らせていたようなものも多く存在しました(そして、これらの営業形態は昭和の戦後まで続けられていたようです)。

 明治28年に私立探偵の草分けである岩井三郎が登場し、岩井三郎事務所を開設します。
 10年程度は信用も実績も無かったこともあり、華々しい活躍はありませんでしたが、明治40年ごろから新聞や雑誌にもその活躍が取り上げられるようになり、まるでフィクションの探偵のような活動が報告されるようになります。
 また、警察と連携して多くの事件を手がけたと言われており、警察が動く前や、動きにくい場合に調査を行い「伊達騒動」や「シーメンス事件」などにも関わったと言われています。
 これにより探偵志願者が増える、依頼人も増えるなどの効果もあったようです。
 この岩井三郎事務所には有名な(?)二人の女性探偵、昭和5(1930)年に日本で最初の女性探偵と言われる天野光子が、昭和16年に芹沢雅子が入所しています。
 ちなみに、1856年にピンカートン探偵社に所属したケイト・ウォーンが世界で初めての女性探偵と言われています。
 岩井三郎の名は3代に渡って受け継がれ、岩井三郎事務所は現在はミリオン資料サービスとなっています。

赤バイ

 交通事故の増加に対して、大正7年に警視庁は交通専務巡査を100人配置します。
 当時は白いバイクではなく、赤いバイクで、白バイは昭和11年からです。
 現在のような速度計測器が無かった為、スピード違反らしき車を発見した場合、追走し、そのバイクの速度を見て速度を量るというものでした。
 ちなみに当時の制限速度はなんと時速10マイル(16Km/h)!
 制限速度を守っている車に自転車が追突するなどという事故もあったようです。一応、時速15マイル程度までなら目こぼししてもらえたようです。

大本教取締

 大正7年に、大本教の開祖出口ナオは死去、以来娘婿の出口王仁三郎を中心に「大正維新」と称した「立て替え立て直し」「鎮魂帰神法」を中心とした運動を始め、大正9年に大正日日新聞を買収、大々的な宣伝に乗り出しました。
 この結果、当局は、「立て替え」時期の宣伝による人身惑乱や、「鎮魂帰神法」の医療妨害的側面から、大正10年に不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、王仁三郎ら幹部を検挙し、大本教本部の大捜索が行われました。
 この後、幹部が脱退するなどで大本教は分裂しますが、昭和10年に再び大弾圧を受け、大本教は壊滅します。

鬼熊報道

 大正末、15年8月に、千葉で起きた、通称、「鬼熊事件」です。
 二人の愛人に騙されて別れることになった「熊さん」こと岩淵熊次郎が、その愛人の一人「おけい」を撲殺、その後、「おけい」に熊次郎と別れることを勧めた長老宅に放火、それを止めようとした数人を鍬で殴り倒しました。
 さらに、別れ話に関わっていた巡査にも報復の為襲撃し、そこでサーベルを奪うと、別の愛人の別れ話で熊次郎を騙した相手の家を襲撃、サーベルで切り殺しました。この後、この男とぐるになっていた男の家へ向かう途中、追ってきた刑事に重傷を負わせ、山中へ逃走します。
 この追跡劇は42日にも及び、連日、その様子が新聞各紙に報道されました。
 凶暴な連続殺人、放火事件であるにも関わらず、地元では義侠心に富む男として人気があった熊次郎のその犯行はやむにやまれぬものとして、同情をもって受け止められます。
 その為か、記者たちも最初は「殺人鬼熊次郎」を略して「鬼熊」であったのが、後には「熊公」「熊」となり、そして「熊さん」となってしまいます。
 この人気は大変なもので、子供達のあいだで「熊ごっこ」なるものまで流行ったといわれています。
 また11月には鬼熊事件をドラマ化した映画がすでに上映されていました。
 これらの人気は新聞、映画ニュース、赤本などの報道メディアが作り上げたもので、さながら現代のごとく、メディアが作り上げた虚像を商品化、消費する、といった構造が見られ、大正期といえど、「情報の娯楽化」がされる好例であると思われます。

宮中某重大事件

 大正9(1920)年に、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が成年式を迎え、久邇宮邦彦王の第一王女良子女王と婚約を結びました。
 しかし、これに対して当時主席元老であった山県有朋が、良子女王の家系に色盲の遺伝がある可能性があるとして、婚約辞退を迫りました。
 この事件は皇室に関わるゴシップであった為、当時報道管制を敷かれており、「宮中某重大事件」と呼ばれるようになります。
 事件は皇室を巻き込み、世間を巻き込み、実際に色覚異常があるかどうかを確認する事態にまで発展します。
 事件の裏には、山県が薩摩の血が皇室に入るのを嫌っているとか、薩長の藩閥抗争や、あるいは久邇宮家の皇室への干渉を嫌った動きであるとか様々に言われましたが、世間で右翼の壮士達が「山県、中村(宮省)を暗殺を企んでいる」という流言までがされるようになります。
 結局は、病気の大正天皇に代わって実質的に皇室を動かしている貞明皇后、久邇宮家、そして皇太子裕仁親王当人の意思から、婚約辞退は破棄され、そのまま内定しました。
 この事件により山県は元老を辞することを表明しましたが留意され、翌年に失意のまま没したと言われています。
 また、この事件で当時首相であった原敬は山県側についており、暗殺事件の遠因の一つであるとも言われています。

満州某重大事件

 昭和3(1928)年、中国の軍閥の指導者であった張作霖が爆殺された事件のことであり、奉天事件とも呼ばれることがあります。
 終戦まで犯人が公表されることが無かったことと、当時、陸軍からの報道管制もあったことがあり、「満州某重大事件」と呼ばれるようになります。
 当時、首相であった田中義一(陸軍大将)は張作霖を直接見知っており、今後とも使って蒋介石に対抗させる、という方針を出していたのですが、現地の関東軍にとっては張作霖は満州の実権を握り、言うことを聞かなくなった邪魔な存在となっていました。
 そして、陸軍の独自の判断によって、張作霖を除く、という暴挙に出ます。そしてこの事件は、南部側(蒋介石側)がやったというように偽装はされましたが、中国国内でも日本側の仕業ではないか、という疑問が広がり、むしろ抗日運動を激化させるという結果を招きました(その上、中国人の指導者を欠くという状況で)。

ジゴマ

 大元はフランスの怪盗ものの小説であり、明治44(1911)年に映画化、同年のうちに日本でも公開されました。
 内容は変装の名人、ピストル強盗であるジゴマが強盗、殺人を繰り返すというもので、映画化に辺り、アクションシーンや、撮影を利用したトリック等の先駆的な映画であることもあり、日本で公開されるや否や大ブームとなりました。
 この後、全く関係ない女盗賊を主人公にした映画が女ジゴマと称して公開され、これも大ヒット、そしてこれに続けとばかり和製ジゴマ映画まで作られるようになります。
 このジゴマブームは映画のみに限った話ではなく、小説でもジゴマのような怪盗小説、あるいは怪盗VS探偵のようなものが多数作られます。この後の探偵小説ブームの走りと言えるかもしれません。

 このブームは、当時、ジゴマのやり方、横暴を通す、神出鬼没という意味や、あるいは直接的に強盗や、犯罪に関わるようなことを、「ジゴマ式」とか、「ジゴマる」と言うような表現をすることもあるほど一般に広まり、子供達の間で変装したり、強盗の真似事をする「ジゴマごっこ」が流行るほどでした。
 現代でもあることですが、このジゴマに影響されて実際に強盗を働いてみる、という若者(馬鹿者)が逮捕されるような事件も発生し、また、教育上よろしくないという教育側の判断や、新聞の論説もあってか、約1年間に渡って世間を騒がせたジゴマは、大正元(1912)年10月に、警視庁から上映禁止命令が出されます。
 警視庁に次いで、内務省警保局から全国に伝わり全国的に禁止されました。そして、これらの動きによって、警察署がばらばらにやっていた映画に対する検閲を、体制側が制度的に行なうようになりました。

 この上映禁止に合わせて、小説も制限すべき、という論調もありましたが特に命令等は出なかったようですが、映画が禁止されるや、ブームは下火となり、大正2(1913)年の頃にはすでに小説も無くなっていました。
 なお、原作の小説はかなり後、昭和12(1937)年に久生十蘭の手で翻訳されましたが、探偵小説として翻案されたものです。

日陰茶屋事件

『日陰茶屋』は、現代では葉山「日影茶屋」として、懐石、フレンチ、スイーツの老舗として有名ですが、大正期でも江戸期より続く伝統ある老舗旅館でした(戦後に旅館は廃止されています)。
 大正5(1916)年、11月9日未明、この宿を訪れた神近市子(かみちか・いちこ)が大杉栄を刺傷、世間を騒がせました。この痴情のもつれによる大杉栄の刺傷事件が『日陰茶屋事件』です。

 大杉栄は当時、有名な社会主義者であり、アナーキストとしての立場を押し出していた時期で、文筆活動を中心に行なっていました。
 この時期、堀保子(ほり・やすこ)と結婚していましたがほぼ別居の状態で、文学者辻潤の妻であった伊藤野枝と同棲関係となり、さらには元々の愛人神近市子ともずるずると関係を続けていたという状態でした。
 大杉は「経済的に自立し、別居して、性的自由を保証する」自由恋愛なるものを謳っていましたが、定職に着かず、文筆活動と社会主義者としての活動資金だけで生活をしていた大杉は、妻保子と、神近からの経済的な援助を得て生活が成り立っている、という有様でした(それにも関わらず、野枝と同居する、という状態で…)。
 そして、雑誌発行に伴う保証金としてまとまった金を得た大杉は、事件の起こる逗子『日陰茶屋』へ文筆活動の名目で野枝を連れてやってきます。
 当初、大杉は神近に「一人で行く」と告げていたところ、この事実を知った神近は短刀を用意して日陰茶屋と乗り込み、大杉の頚部を刺傷、重傷を負わせますが死には至りませんでした。
 神近はこの後、入水自殺を図りますが、死に切れずに逗子の交番へ自首しました。
 この事件をきっかけに元々孤立しがちだった大杉は完全に社会主義同志の間でも孤立し、全国行脚の旅に出ることになります。
 神近市子は東京日日新聞の記者であり、いわゆる職業婦人として知られた才媛であり、『青鞜社』では伊藤と顔を合わせたこともあった仲でした。

 神近は2年の服役後、文筆活動を再開し、戦後にはいわゆる左派政治家となり、大杉、伊藤は震災時の『甘粕事件(大杉事件)』で殺害されてしまいます。

小笛事件

 小笛事件(こぶえじけん)、あるいは白川四人殺しと呼ばれる、、法医学鑑定が裁判で争われた有名な事件です。
 大正15(1926)年、京都市内に在住の平松小笛が、その養女千歳と、小笛の友人の子供喜美代と田鶴子を巻き込んだ無理心中を図りました。
 事件後、当時小笛と付き合っていた、広川条太郎が逮捕されました。現場から小笛、広川の連名の遺書や、現場の散乱の具合などから、無理心中に偽装しての殺人と目されていましたが、広川は当初から無罪を訴えました。
 状況証拠は広川に不利でしたが、小笛が金に困っていたことや、千歳の心臓が弱いことを悲観していたこと、さらには広川と連名の遺書が筆跡鑑定により小笛単独で書かれたことなどが発覚しました。しかし、小笛の解剖の結果が広川が犯人であることを示唆しているとして、警察は広川による殺害、自殺の偽装を主張し起訴されてしまいました(広川は一貫して公判開始まで無罪を主張しています)。
 検察側の解剖結果による主張を覆す為、弁護側が再鑑定を要求した結果、当時の権威である、東京帝国大学教授三田定則博士、大阪医科大学教授中田篤郎博士、九州帝国大学教授高山正雄博士の再鑑定が行なわれました(最初の解剖は、京都帝国大学小南又一郎教授によって行なわれています)。
 この結果、中田、高山の鑑定は他殺としましたが、唯一三田だけが自殺と断定しました。当時の権威ある三田の鑑定結果と、裁判官の心証に訴えることで広川は昭和2年の裁判で無罪を勝ち取りますが、検察側が翌日控訴、さらに検察の申請によって、長崎医科大学の浅田一博士と東北帝国大学の石川哲郎博士の再鑑定が行なわれることになります。
(この結果、六大学につき一人ずつ、その道の権威が法医学鑑定を行なうことになります!)
 その結果、検察の思惑を裏切り、浅田、石川とも自殺と鑑定、結果的に広川は無罪となります。

 より詳細は、実録小説である山本夭太郎『小笛事件』を参照するのがよいでしょう。
 また、上野正彦『死体は語る』にも小笛事件の記載があります。

猫いらず

 明治38(1905)年に発売が開始された、いわゆる殺鼠剤の一つです。
 その普及に伴い、これ以外のものもまとめて殺鼠剤=猫いらずという認識になります。
 黄燐や亜砒酸を主成分としている為、ネズミ以外にも効き、当然、人間にも効くうえに、入手も簡単である為、自殺や犯罪に使用されました。

 大正11(1922)年に13歳の少女が奉公先の朝食の味噌汁にこれを混入し、殺害を謀ったところ燐が燃え、発覚して未然に防がれたという事件が発生しています。
 また、大正12年にはこの猫いらずの発売禁止の議題が衆議院にも上がっています。

下谷サドマゾ殺人

 大正6(1917)年、東京市下谷区の大工職人の内妻がひどい拷問の末、死亡しました。
 死体は警察の解剖の結果、全身が傷だらけであり、背中や腕に焼け火箸、あるいは刃物によって文字が書かれており、また手足の指が複数切断されていました。
 当初、この事件は嫉妬深い夫が妻の不始末に折檻を加え、殺してしまった、と報道されていましたが、夫の大工は逮捕当初から「妻がやれといったのでやった」「行為の最中に痛いと言ったことがない」等と供述しており、調べを進めるうちに、これがサディズム、マゾヒズムの性倒錯の末であることが発覚しました。
 大工の夫は精神鑑定にも掛けられ、無罪の鑑定が出されましたが、検察側はこれを無視して懲役10年以上を求刑しました。しかし、大工の夫は判決の前に獄中で脳溢血で急死しました。
 この事件は、三田定則のあと、法医学教室を担当することとなる古畑種基が内妻の死体解剖に立ち会っています。

説教強盗

 大正15(1926)年から昭和4(1929)年にかけて帝都外縁部に出没した怪盗(?)です。
 その名前の通り、忍び込んだ家の家人に2,3時間の長時間におよび防犯の心得等を説教することで有名になりました。
(当然、自身で説教強盗と名乗った訳ではなく、新聞での報道での命名です)
 おおまかな手口としては、寝静まった家の電話線と電線を切り、忍び込んで家人を起こしたうえで金品を脅し取り、そして説教を懇々と行い、朝方の人ごみに紛れて逃走すると言うものでした。
 また、忍び込むのも新興住宅地域で、警察組織等の未整備、住民の関係も希薄といったところを狙いを定めており、なかなか逮捕に至らず、模倣犯まで生み出しました。
 この模倣犯は非常に簡単に捕まりましたが、本物はなかなか捕まらず、東京朝日新聞が一千円の懸賞を出すに至ります。
 そして昭和4年、特捜班が設置され、過去の事件の記録から意外にあっさりと説教強盗は逮捕されました(懸賞金は警察関係者に慰労金として渡されたそうです)。
 記録にあるだけで強盗58件、窃盗29件、強盗傷害2件、婦女暴行1件の罪で、無期懲役となっています。

扶桑劇社の女優詐欺

 大正期、活動写真が隆盛を見た中で、現代もあるような「女優にしてあげるよ」という甘言を弄して、歳若い女性を弄ぶ事件が発生しています。
 大正7(1918)年、下谷区上根岸に事務所を構えた扶桑劇社は、『地方新聞』に堂々たる広告を打ち女優を募集しました。
 応募してきた女性に対して「表情は性を解する者でなくては出来ない」等と称し、暴行を加え、当然、女優にするわけでもなく、銘酒屋や遊郭に売り飛ばしたり、保証金と称して金品を巻き上げたりといった行為を繰り返しました。
 これらの地方から出てきた女性の多くが、家出同然であったり、あるいは特に帝都に伝手があった訳ではなかったことが彼女らを泣き寝入りさせ、事件の発覚を遅らせた原因でもあったようです。
 大正14年(恐ろしいことに、震災を乗り切ったようです)に事件が発覚、首謀者が逮捕され、7000人余を弄んだと豪語しました。

皇居二重櫓白骨死体事件

 二重櫓は江戸城の伏見櫓のことで、元は伏見城にあったものが移設されたものです。
 大正14(1925)年、震災によって被害を受けた二重櫓を修復しようと工事をしたところ、その土台部分から21体(16体との記述も)もの白骨死体が発見されました。
 死体はそれぞれ立った姿勢で、肩や頭に古銭が乗っていたと言われています。
 これらの情報は全て関係者からの伝聞からの新聞での報道であり、正確な情報は基本的に伝わっていません。発見後も、正式な調査等もされずに(果たして、白骨死体は埋め戻されたのか、他所へ埋葬されたのかも不明です)事件は闇に葬られました。
 この発見は当時皇居内の出来事でもあり、あまり大きく報道されなかったようですが、民俗学会では天皇家の人柱だ、そうではない、という論争を呼んだようです。
 学会の重鎮である柳田やその学派が人柱ではないと主張し、南方熊楠や、柳田と対立する(?)民俗学者からその主張を非難するような論考、言説が発表し、中世でも人柱が行なわれていた証拠と主張しました。
 しかし、これらの白骨については江戸城建設時の事故による死者である可能性が高いと見られています。建設当時、相当なハードスケジュールであったとともに、これらの工事に関わった人足達の身分が軽いこともあった為(この重労働から逃亡を図れば即斬殺)、簡易な埋葬として合葬された、と考えるのが自然です。
(もちろん、江戸城建設時のものなので天皇家の人柱、というのもありえない話です)

大正期の銃器、刀剣の規制

 明治9(1876)年のいわゆる廃刀令により、大礼服着用時、警察官、軍人以外の帯刀が禁止されました。
 帯刀が禁止されたのみで、所持は特に規制されなかったようです。禁止対象は主に腰に挿す刀の類で、腰に挿すことを禁止するような条文であったこともあり、袋に入れて持ち歩くといったことがあったようです。
 廃刀令においては、懐に呑むような短刀、匕首の類は禁止されていないか、目こぼしの対象であったようで、大正12年に改めて警視庁から短刀、匕首の類の携帯を禁止する通告が出ています。

 廃刀令は一応銃火器の類も規制の対象であり、刀と同じくおおっぴらに持ち歩くことを規制しました。
 銃火器の規制は、明治43(1910)年の銃砲火薬類取締法まで廃刀令準拠で、一般人でも普通に所持可能で(要するに、持ち歩かなければ問題なし、ということです)、新聞などにも堂々と銃火器の類の広告が載るほどでした。
 しかも、通常の火薬の拳銃の類だけでなく、空気銃や杖銃(いわゆる仕込み銃)、さらには猟銃の類からダイナマイトまで買えると広告にはうたっています。
 明治初期から銃火器は国産品が存在しましたが、多くは軍部へ入り、その払い下げという形で一般には出回ったようですが、国産品に比べ輸入品の方が入手が楽で、安価であったこともあり、輸入業を営む商店や、銃火器の専門店もありました。

 銃砲火薬類取締法の施行後は、銃火器の所持は登録、許可制となり、基本的には軍人、警察官と言った正統な理由が無ければ所持できなくなりました(当時、軍人や警察官が所持している拳銃の類は私物であり、個人の所有物でした)。
 大雑把な所持資格として、満20歳以上、所持証明書を持っている、の2点となります(所持証明書は正規の取り扱いの訓練を受けていることが条件です)。
 しかし、予備役や、兵役を終えた後の在郷軍人会に所属している場合や、治安が悪い地域、外国へ行くなど言えば簡単に許可が降りました。
 当然、ある程度の身分証明も必要ですが、私立探偵が護身の為に銃を所持していたり、満州などに行く新聞記者などが銃器を所持してもおかしくなかったようです。
 また、施行と同時に取り上げられた訳でもないので、それまでに所持していた銃器の類はそのままであったようです。
 この銃砲火薬類取締法は刀剣類は規制範囲に入っておらず、相変わらず廃刀令が基準だったようですが、銃砲火薬類取締法によって見る目は厳しくなったようです。この為か、仕込み杖が流行し、昭和3(1928)年には仕込み杖も許可制となります。

華族の駆け落ち、情死、危ない運転手

 大正6(1921)年3月に、芳川子爵家の鎌とお抱えの運転手倉持が駆け落ち、情死を試みました。
 二人は鉄道自殺を選び千葉で蒸気機関車の前に飛び込んだのですが、倉持の方は躓いて線路の向こうへ跳び出して軽傷、鎌は顔面に重傷を負い、死には至りませんでした。
 死に損なった倉持は、この騒ぎに集まってきた人々に驚くとともに、鎌はいずれ死ぬものと思い込んでその場を逃げ出した後、短刀で喉を突いて自殺しました。
 ところが、鎌は死に至らず、翌月の4月に千葉の病院を退院、未だに噂は下火にもならず、一旦、鎌を下渋谷、宝泉寺内の貸家へと隠されます(当時、渋谷は田舎なのです)。
 その後、鎌の心中を模倣して、現場となった鉄道に飛び込み自殺を図る女性が現れ、噂は一向に衰えることがありません。
 芳川家から離籍し、出家生活をするように勧められたのですが、結局は特に入信などもせず、中野町の芳川家の別邸へと隠れ家を移すことになります。
 このとき、運転手となったのが出沢で、大正7年10月に、二人はまた駆け落ちをします。4日後、四谷で発見され一旦は引き離されますが、その後、鎌は芳川家を勘当、庶民として出沢と一緒になります(正式な婚姻関係ではなく、内縁でしたが)。

 大正9(1920)年に、旧小城藩の子爵鍋島直虎の令嬢とし子が、お抱えの運転手である多田と駆け落ちをします。当時、とし子は学習院女学部の3年生で19歳でした。
 この駆け落ちは即座に気が付いた子爵が彼らの乗った列車を突き止め、その停車駅である横浜で車内を捜索、連れ戻すという非常に迅速な動きを見せました。
 しかし、新聞にもこの事件は漏れたようで「男は美男にし女蕩し」と報じられ、多田が悪役として事件は収束します。
 この後、とし子は毛利家の分家筋の男爵と結婚し、恙ない人生を送ったようです。

 人力車の時代において車夫との情死、というものはあまりみられませんでした。
 車が密閉空間であることや、車夫とは異なり、洋装で車を運転する姿に魅力を感じるのか、華族の令嬢やらご婦人がお付きの運転手とねんごろになることが多かった(?)ようです。

天国に結ぶ恋、情死にまつわる3つの事件

 大正5(1916)年、岩手県二戸において良人に虐待された妻が実家に戻り、縊死を遂げた為に近隣の寺へ埋葬されました。
 ところがその後、この女の幼馴染であった男が埋葬された死体を掘り出し、その死体と自分を結びつけた後に持参の銃で自殺をするという奇怪な情死を遂げました。

 昭和7(1932)年5月、神奈川県大磯で慶大生と若い女性が結婚を反対されたことを儚んで心中を遂げます。
 この事件は「坂田山心中」と名付けられ、翌月にははや「天国に結ぶ恋」と題されて映画化されました。同名の主題歌とともに大ヒットします。
 暗い世情とも相まってか、映画がヒットすることで自殺が急増し、「天国に結ぶ恋」を映画館で見ながら服毒自殺を図る者が現れたり、この年だけで「坂田山心中」と同じ場所で二十組もの心中が発生しました。
(一部の県ではこの映画の影響を恐れて上映禁止になったほどです)

「天国に結ぶ恋」では、「清い二人は」などとロマンチックな心中ものとして描かれていますが、「坂田山心中」は情死の後、女性の死体を掘り出しこれを持ち去った事件が発生しています。
 女性の死体は消失後、2日目に発見されて荼毘に付されましたが犯人は女性を埋葬し、そして火葬した65歳にもなる老人でした。
 老人は埋葬人として女性を埋葬した時にこの死美人に魅入られ、その夜に再び掘り起こして死体を持ち去り、新聞に「おぼろ月夜にものすごい死体愛撫」と伝えられるように死体を愛でた後、翌日には消失した死体の捜索に参加、発見後は火葬を行なっていました。
 もちろん、「天国に結ぶ恋」ではこれらのグロの部分は全く削除されています。

 そして、この事件の一ヶ月前に、「死体と情死」と題された事件が起こっています。
 横浜の宿屋において、2日の間姿を見せぬ投宿客に不審を抱いた主人がその部屋を覗くと、泥酔した男が死体を抱いて眠っているのを発見しました。
 この二人は情死を目的にネコイラズを飲んだまでは良かったのですが、女は死亡、男は死なずにそのまま酒浸りで女の死体と共に眠っていたのでした。
 こちらの事件は横浜の新聞に小さく報道されたのみで、特に世間を騒がせたことも無かったようです。