帝都の文化、風俗、その他の帝都

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 大正期の文化、風俗、生活、そしてその他の帝都の話題を紹介します。
 まあ、生活にかかわる雑多な項目あり、帝都における出来事ありのなんでもあり、どうでもいいような項目も含めたその他です。
 また、あえて普通選挙法と治安維持法、原敬の暗殺には触れていません。特に説明の必要はないかな、と感じたからです(まあ、護憲運動には触れていますが)。
 犯罪に関わる事件や、警察関連等の項目は、こちらの大正の事件を参照してください。

当時の服装

 明治期より盛んに欧化が叫ばれ、服装などにもそれを推し進めようと、政府は官吏の制服として洋服を用いました。
 しかし、実際には洋服を着るのは役所や会社、工場などに出勤する場合がほとんどであり、仕事着として扱われていました。
 仕事に行くときは洋服だが、家では和服、などというのが実態で、洋装はそうそう定着せず、大正10年、それら流行の最先端の街であった銀座での調査でも、男性の50%が、女性ではわずか1%が洋服を着用するに止まりました。
 女性のほとんどは和服を着ていましたが、それでも社会に進出して働く職業婦人と呼ばれる女性達が徐々に増え、洋服を着はじめます。洋服を着ない人も、きものの上から事務服を着て活動しやすくしました。
 和服にエプロンなどというのはカフェなどで見られた服装で、実際は和服に襷掛けでエプロン、という不便なものであったため、割烹着が登場したのもこの時期です。
 また、女学生などの袴にブーツなどという和洋折衷の服装がそれなりに定着した時期であり、また明治期の様な珍妙な服装も減った時期にあります(当時の人から見れば袴にブーツでも十分に珍妙に見えたようですが・・・)。
 大正後半ともなると、学校の制服などにセーラー服の洋服が採用されたり、銀座の街にはモボ、モガが現れました。

「今日は帝劇、明日は三越」

 大正時代の流行語にもなった、三越とそして帝劇が提携して行ったイベントのプログラムの宣伝コピーです。
 また、有閑婦人の代名詞でもあり、帝劇は大正一のハイカラ劇場、三越は最高級デパートと歌われ、帝劇、三越へ行くことは時代の最先端を行くことを意味していました。

 三越は大正3(1914)年に日本橋に本店、ルネサンス式新館を新たに建築し、有名なライオン像や、日本初のエスカレーターなどを備えていました。
 三越は早くから呉服店と言う名前を返上し、呉服店が特定の顧客のみとしか商売をしなかったのに対し、「百貨店」という新しいスタイルで、大衆を相手に衣料品、雑貨、生活用品を販売し、まさに現在のデパートが行うような、新しいライフスタイルを提供する情報発信基地へと変化していきます。
 百貨店は、単に物を買う場所としてだけでなく、「行楽スポット」であることを宣伝し、豊富に品を揃え、新しいライフスタイルや娯楽施設などを提供するとともに、全国に広く伝えるために新聞や雑誌などに広告を展開しました。

浅草六区

 浅草六区の興行街には劇場、映画館、寄席などが20軒近くも軒を並べており、兵隊や、丁稚、学生、書生などで賑わっていました。
 明治36年に国内初の活動写真常設館として、電気館が開館、以後大正のオペラなどへと続いていきます。
 明治20年からという老舗劇場「常盤座」の右隣に明治43年開業の後に浅草オペラで有名な「金龍館」が、大正2年に左隣に洋物封切りの活動写真館(映画館)「東京倶楽部」がオープンします。
 そして、この廊下で繋がった三館を10銭で楽しむことができる「三館共通」システムは大正3年に始まりました。
 また、オペラ館、帝国館、電気館、千代田館、大勝館など活動写真館が多く、通常の封切館では20銭であったところ、六区では軒並み7銭で、六区の興行街は連日のように賑わっていました。
 これらの活動写真館は、まず一本目が実写、次に滑稽物、そして最後が大物と呼ばれる劇映画の順に上映されるのが基本で、二本目と三本目の間に休憩演奏がありました。
 この休憩演奏は、オペラの序曲、管弦楽曲から世界各国の流行歌まで幅広く演奏され、活動写真館に詰め掛けた青年たちに大きな影響を与えました。
 当時、活動写真は無音であり、活動写真弁士(略して活弁と呼ばれます)が独特の活弁調の台詞、音調で解説などを行うものでした。
 また、活動写真と言う名は、大正6年に活動映画と改められています。

 「浅草十二階」の名で知られる凌雲閣は明治23年に完成で、八角形の塔の形をした建物内部には、日本で最初の電動式エレベーターも設置されています。
 10階までは煉瓦造りで、11、12階は木造で、エレベーターは8階まで通っています。その8階までは、各階に輸入品を扱う店舗が50件近く入っており、ちょっとした百貨店の様相を呈していました。
 最上階の12階には望遠鏡なども設置されており、凌雲閣がオープンすると帝都を一望しようという人々が大勢集まりました。
 観覧料は大人8銭、子供4銭で、階上からは遠く品川方面までも見晴らせ、またその威容は上野の山や神田のニコライ堂からも望むことができたといいます。
 凌雲閣は大正12年の震災により、8階部分から倒壊してしまいました。

 また、浅草公園付近は有名な私娼窟で、犯罪者の隠れ家にもなっていたことで有名です。
 これらの発展を当局が厳しく取り締まっていましたが、あまり大きな効果を上げることはできず、結局関東大震災のどさくさ紛れるまで撲滅できなかったようです。

 その他、浅草の詳細はこちら

カフェなど

 現代においてカフェと言うとコーヒーや紅茶、軽食を提供する場を思い浮かべますが、大正の当時は洋食にアルコールも提供していました。
 コーヒーや紅茶などはすでに明治初期のころから知られていましたが、ブラジル政府のコーヒーの宣伝などもあり、明治後期より普及し始めます。

ミルクホール

 明治初期に欧化政策の一環として国民の栄養改善として牛乳を飲むことを推奨し、明治天皇が日に二回飲んでいるとも宣伝されたこともあり、国民の間に牛乳を飲むことが流行し始めました。
 ミルクホールは明治中期から出現し始めた、主に牛乳や紅茶、パンを中心とした軽食や洋菓子を提供する店です。
 安価で、新聞雑誌を無料で読めるように提供したこともあり、本郷などの学生街に多かったと言われています。また、現代と同じく汽車待ちの客を狙って駅の近くにも多く見られたようです。

カフェ

 日本で最初のカフェは明治41(1908)年に大阪でオープンした「カフェ・キサラギ」であるといわれていますが、帝都では京橋区に明治44(1911)年に「カフェ・プランタン」が一番最初です。
 これは帰朝した洋画家の松山省三がヨーロッパのカフェを懐かしんで作ったもので、会員には画家、作家の著名人が多数を占め、文化人のサロンとなりました。
 プランタンのオープンを皮切りに、銀座を中心にコーヒーやアルコール、軽い洋食を出すカフェが相次いで登場し、和服に大きな白いエプロンをかけた若い女給がサービスすることから人気を呼びました。
 カフェの女給の多くはなんと無給(!)で、客からもらうチップなどが主な収入だったと言われています。
 震災前は美人の女給を揃えて給仕をさせる程度でしたが、震災後になると、関西方面から客の隣に座って酌をしたり、さらにそれ以上のサービスをさせる店が流行し、キャバレー化が進みます。この結果、昭和8(1933)年は特殊喫茶(風俗営業)として警察の管轄化に置かれることになります。
 これらの風俗的なカフェと区別する為に、純喫茶と言う言葉も生まれました(ただ、これも諸説あり、喫茶以外の例えば音楽などを聞かせた喫茶店と区別する為に、純喫茶といわれたとも)。

ビヤホール

 ビアホールが登場したのは明治30年代で、それまでのビールは輸入品が中心であまり美味しくなかったのですが、明治20年代に国産で安価で美味しいものが出て、大戦景気やビアホールの登場によりビールは他の洋酒を圧倒し、清酒に迫る勢いでした。
 現在のサッポロビールの元である日本麦酒が明治32(1899)年に、銀座に恵比寿 BEER HALL(ビアホールの名称を使ったのは日本最初)を開業し、当時では珍しかったカウンター方式や、ガラスのジョッキを使用し、大盛況であったと言われています(ちなみに、500mlで10銭という価格でした)。

 製造会社の直営店以外の情報が少なく、大都市以外にビアホールがどれぐらいあったのかは不明です。
 大正期においてビール自体は珍しいものではなくなってきていますが、ビアホールではいわゆる生ビールを飲ませることが売りの一つであることを考えると、基本的には製造工場の近くにのみビアホールが存在していたと思われます。

バー

 日本のバーは横浜開港と同時に始まったと言われており、横浜居留地の横浜ホテル中に出来たものが最初だと言われています。
(さらにこれらと同時に、外国から様々な洋酒の輸入が開始されています)
 洋風のバーは大正期ではカフェがバーを兼ねていた状況であり、またいわゆる銘酒屋、一杯売りがバーのような機能を果たしていたようです。
 明治13(1880)年にすでに浅草で電気ブランで有名な神谷バーが開業しています(当時はバーではなく、かみはや銘酒屋と言い、明治45(1912)年に神谷バーと改称しています)。

大正の食生活

 戦争景気はそのまま物産市場の拡大につながると同時に、都市部に住む人口を増加させ、そしてその所得も増加しました。
 結果、それまで麦食であったのが米食へと変わっていきます。とは言え、米はまだまだ贅沢品である為、農家が銀飯を食べることはめったになく、その食生活は明治期とあまりかわりがなかったようです。
 しかし、都市部の、特にサラリーマン達の間では、コロッケ、カツレツ、シチュー、ライスカレーなどといった洋食が家庭でも提供されるようになりました。
「今日もコロッケ、明日もコロッケ」と歌われた「コロッケの唄」(大正6年)がそれを示しています。
 ライスカレー、カツレツ、コロッケの三つは「大正の三大洋食」と言われ、在東京の歩兵連隊の嗜好調査を行ったところ、フライ、カツレツ、コロッケでした(フライが入っちゃいますが、洋食が一般化している例です)。
 また、カツ丼も大正期の大学生が大学近くのカフェに勧めてやらせたと言われています。
 カレーは、明治10(1877)年に米津風月堂が初めて出したと言われています。当時としては高級品であり、一般庶民の間で食べられるものではありませんでした。
 その後、明治36(1903)年に今村弥兵衛がカレー粉を製造し、手軽にカレーが作られるようになり、一般の食堂でも扱うメニューになり始めます。そして、関東大震災後にカレー粉が一般的になり、家庭料理に加わり始めます(なお、固形のカレールーは戦後、レトルトカレーは昭和43(1968)年の大塚食品「ボンカレー」です)。

パン食

 パン自体は鉄砲と同じく南蛮より渡来していましたが、まったく一般的ではありませんでした。
 幕末に外国より製法もともに輸入され、天保13(1842)年に江川太郎左衛門が作成したと言われていますが、やはり一般にはまったくと言ってよいほど普及しませんでした。
 また、パンを作る技術も非常に稚拙で、現在のパンのように柔らかいものではなく、しかもとても食べられたようなものではないと言われ、またそこへ付けるバターなども「もっとも不味い食べ物のひとつ」と言われるものでした。
 これらのパンは軍隊においてパン食が実施される他は、一般には口にされないものでした。
 パンは、戦争の度に改良され、第一次世界大戦で中国のドイツ租借地青島を攻撃した際に、捕虜となったドイツ人達が日本のパンの不味さに閉口し、自分達でパンを焼かせてほしいと申し出たことで、ドイツパンを焼かせたところこれが日本人の嗜好に合い、日本のパン業者がドイツパンの製法を学び、各地に普及しました。
 これだけに止まらず、第一次大戦後、日本に留まってパン屋を開いたり、新たにパン職人になるものもいました。ジャーマンベーカリーや、神戸のユーハイムなどです。
 そして大正8(1919)年、浅草に平民パン食堂が開店、「パンにバター、紅茶、野菜スープ」がセットで15銭で提供され、プチブル達の人気を博しました。
 また、銀座の木村屋が日本酒由来の酵母を加えて現在に近い柔らかいパンとし、明治7(1874)年に饅頭にヒントを得てアンパンを発明したと言われています。以降、明治33(1900)年にジャムパンが、明治37年に中村屋のクリームパンが登場します。

電話

 大正期の電話は現在のような自動交換式ではなく、交換手を通して交換する方式です。自動交換式が登場するのは大正15年(昭和元年)です。
 電話は現在のような受話器と送話機が一体になったもの、受話器だけが独立しており、送話機は本体についているものもあります。
 手動交換の電話のかけ方は以下の通りです。
  1. ハンドルを回し、交換台を呼び出す。
  2. 交換手に相手(電話をかける先)を告げる。
  3. 交換手が相手を呼び出す。
  4. 相手方の電話が鳴る。
  5. 相手方が電話に出る。
  6. 交換手が電話をかけた相手を案内する。
  7. 交換手が回線を接続する。
  8. 相手方と直接会話する。

 また、自働交換のものはダイヤルがついており、当時のポスターには次のように書かれていました。
 一、先ず相手の番号をよく調べてから
 一、受話器を静かに外して耳にあて、かすかな通信音が聞こえてから
 一、送話口の下の回転盤を指止まで廻して放す
 一、ジージーの音は「お話中」、ツーツーの音は「呼出中」

 大正9年に、東京・大阪・京都・神戸・名古屋・横浜の6大都市において、市内通話が度数料金制(市内通話1度2銭)となりました。 それまでは、市内電話は均一料金で「使い放題」「かけ放題」でした。
 その為か、この改正以降、公衆電話(当時は自働電話と言い、大正14年に公衆電話と改称しました)がよく利用されるようになります。
 また、火災報知などはそれまでは特に決まりもなく、知らせを受けた交換手の処置に委ねられていました。
 出火の情報が流れると、「火事はどこか?」という問合せが多数あり、電話交換の妨げになると明治32年以降「出火問合せの電話お断り」ということになっていたほどなのです。 大正6年に火災報知制度が実施され、「火事」と告げれば直ちに交換手が消防署へつなぐようになりました。
 大正15年に電話交換が自動化された東京では、「火災通報は112番」となり、昭和2年に「119番」となりました。

成金と新中間層

「成金」も大正時代の流行語の一つです。
 戦争成金、船成金、その他、株、鉱山、鉄、土木・・・上げればきりがないほどで、第一次世界大戦による戦争特需は成金を多く輩出しました。
 中でも成金族の御三家は、鉱山の久原房之助、船舶の山下汽船、貿易の鈴木商店で、官尊民卑の大正時代でも彼らの勢いは役人の比ではなく、数々の逸話が残っています。
 これらの成金族も大戦の景気がはじけるとともに凋落し、歩に戻るものが多くでてきます。

 大戦の景気の影響は都市部のサラリーマンにも及びました。
 これらのサラリーマンは、腰弁(腰に弁当をぶら下げる)、 洋服細民、月給取りと呼ばれる「新中間層」の代表となります。
 これと同時に、地味な色の背広が仕事着として流行り、第1次世界大戦の好景気に乗って増えた人口により、現代のようなラッシュアワーが生まれました。
 生活水準の向上したサラリーマン達は、ホワイトカラーと呼ばれる新中間層となり、プチブルを気取り、ファッション、文化住宅、洋食文化などといった言葉も流行ります。

大失業時代

 大正期の前半は戦争の特需に浮かれ、バブルさながらの景気でしたが、戦争が終わり軍需景気が終わると、日本は一気に不況へ転落、成金も歩に戻ります。
 一時は政府が国庫を放出し、だましだまし景気が保たれていましたが、大正9年の「戦後恐慌」、11年の「銀行恐慌」、12年の「震災恐慌」、 昭和2年の「金融恐慌」と続き、果ては昭和5年の「大恐慌」と底無しの泥沼状態です(現在に似てる気もしますがね(苦笑))。
 これらの恐慌は、労働者に失業という形で襲い掛かります。
 極端な話、社員の半分、ほぼ全員を首切りにするなどの記事も当時の新聞紙上には躍っています。
 大正8年1月の休戦協定より労働者の解雇が目立ち始め、同年9月には5万5千人と報じられ、続いて国際軍縮により国内での兵器需要が激減、大正11年には失業者総数は80万人と言われています。
 これらで職を失ったのはなにも工場労働者だけではありません。「大学はでたけれど」が流行語になるのは昭和のはじめですが、東京府の労働紹介所(現在の職安?)には、大学や士官学校卒の高学歴の者も並ぶ有様でした。
 この大失業時代に、労働組合などが政府に失業者救済や雇用創出などの失業対策を迫るとともに、様々なデモ、大会を開き、窮状を訴えました。

東京大正博覧会

 上野にて、大正天皇の即位奉祝と産業振興を目的に東京大正博覧会が大正3年に開催されました。
 日本初の「動く階段」エスカレーター(乗るには10銭が必要でした)と、不忍池に設置されたロープウエー、快進社の国産小型乗用車「DAT-1号」(後のダットサン)などが展示され話題を呼びました。また、美人島探険館なる、水中美人、幽霊美人、蛇体美人などと言う檻の中に入った美人を見て回るものもありました(詳しい資料がありませんので、詳細は不明ですが、なんとなく江戸川乱歩のかほりが(笑))。
 大正3年3月20日~7月31日までの約4ヶ月の開催期間の間に、日延べ5万人、合計746万人もの入場がありました。
 しかし、会場内には紙屑が散乱し、落書きの類も絶えず、3月21日の『時事新報』などは、「館外道路の不体裁夥しきものにて、塵芥掃除の行届かず、屋後便所の不潔、落書の醜怪、是が開会の第一日とは如何しても受け取られず」と報じています。

護憲運動

 日露戦争後の、植民地経営、軍備拡張路線の為の増税や、外資導入などにより財政が窮迫、国民への生活へ大打撃を与えました。
 これにより、増税に反対し、普通選挙の実施などを求める運動が盛んになりました。
 大正元年の第二次西園寺内閣の行財政の引き締め政策と、陸軍の師団増設が激しく対立、当時の陸相上原勇作が単独で辞職し、後任が決まらずに西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。
 その後を陸軍の実権を握る桂太郎が組閣しますが、この藩閥専制に対して第一次護憲運動が起こります。
 政友会の尾崎行雄や国民党の犬養毅を担ぎ上げ憲政擁護会を結成、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに第一回大会を開催し、運動は全国に波及しました。
 これらの動きに対して桂は詔勅による内閣不信任案の撤回を謀りましたが、この桂の詔勅を盾に取ったやり方に民衆は猛烈に反発、暴動が起こり御用新聞社および政府よりの新聞社、与党代議士宅、交番、警察署などを襲撃、焼き討ちにしました。
 騒動は帝都に留まらず、大阪、神戸、広島、京都にも拡大し、各地で暴動が起こっています。これらの暴動は最終的には軍隊が出動し、鎮圧されました。
 結果、桂の内閣は総辞職に追い込まれました。

アインシュタイン来日

 大正11年11月17日にアインシュタインが来日、19日に慶応の中央講堂で『一般性及特殊性相対原理』を公演しました。
 この他、仙台、京都、大阪、福岡などで公演を行い、前年にノーベル物理賞を授賞したばかりのアインシュタインは各地で熱狂的な歓迎を受けました。
 アインシュタインは12月29日に門司から榛名丸で帰国しました。

カチューシャの歌

 カチューシャとは、大正3年に帝国劇場で上演された『復活』(原作トルストイ)のヒロインです。
 これを松井須磨子が演じ、序幕と四幕の幕切れに「カチューシャ可愛や別れのつらさ」と歌われる劇中歌「カチューシャの歌」が大流行しました。
 大正3年に『復活』は映画化され、また翌4年には「カチューシャの歌」がレコード化、片面レコード一枚1円50銭、蓄音機すら珍しい時代にも関わらず、大正4年だけで二万枚(トータルで二十五万枚)も売れました。
 なんとこの『復活』の上演回数は大正8年に松井須磨子が自殺するまでに、444回にも及んでいます。

新しい食べ物

お菓子

 大正3年に森永のミルクキャラメルが一般でも食べられるようになりました。
 前年から発売していたのですが、ばら売りで80粒40銭、しかしそれでは携帯に不便ということで、缶入りで10粒10銭と高価であったのですが、紙サック入りのものを開発し、20粒入りで10銭となりました。
 当時、ミルクキャラメルは煙草の代用品とも宣伝されており、ターゲットは子供だけではなかったようです。
 また、大正7年にはミルクチョコレートが発売されています(現在に近い、板チョコです)。

 大正3年に佐久間ドロップが発売。当時から例の缶入りでした。

 大正11年にグリコが発売されます。発売当初より「一粒三百メートル」のコピーで大好評だったようです。
 なお、発売当初はおまけがついていませんでしたが、大正期にはすでにおまけつきで有名になっていたので、すぐに付くようになったと思われます。

 日本のお祭りの風物詩的なものとなった綿菓子ですが、明治期にアメリカより輸入されたもので当時は電気菓子と呼ばれていました。安価であり、庶民に親しまれたと言われています。

調味料

 大正14年にキューピーマヨネーズが発売になりましたが、当時は128g入りで50銭の高級調味料であり、まったく無名であり初期出荷量はわずか、デパートの仕入れ担当者ですらポマードと間違える有様でした。
 大正5年に愛知トマトソース製造株式会社(現代のカゴメ)がケチャップを製造、販売を始めました。650mlの16円70銭で一般販売ではなく業務用でした。
 明治42年には合資会社鈴木製薬所(味の素の前身)から、味の素が発売されています。大正8年で缶入り94gで1円77銭となかなか高価なものでしたが、値下げを断行したことにより一般に浸透し、台湾、朝鮮、中国にまで工場、支店を出すまでに至っています。
 ちなみに文明開化とともにウスターソースも輸入されていましたが、この濃い味の調味料を醤油同然に使用していた為に口に合わないと言われてしまい、あまり一般には広がらなかったようです。その後、日本人向けに改良したものを食料品卸商三澤屋商店(現代のブルドッグソースの前身)が明治38年にソースの販売を開始しました。

飲料

 大正8年にラクトー株式会社(大正12年にカルピス製造株式会社に。株式会社カルピスの前身)からカルピスが発売されます。カルピスは発売当初より宣伝に力を入れ、大正11年に「初恋の味」と言うコピーを持って、カルピスが酸乳飲料の代名詞となるまで普及に成功しました。

 大正初期よりアメリカからコカコーラが輸入されていましたが、こちらはあまり宣伝に力を入れておらず、外国に詳しいはずの著名人ですらもコカコーラを飲み物と知りませんでした。コカコーラが強くなるのは戦後のことです。

 明治中期より登場した、サイダーとラムネ、カキ氷とアイスクリームですが、これらも大正期にはよく消費されるようになりましたが、サイダーとカキ氷は庶民の、ラムネとアイスクリームは新中間層以上のものとなっています。
(ラムネはレモネードが訛ったもの、サイダーはシードルが訛ったものだと言われており、サイダーは最初はリンゴ味だったのですが、そのうちにラムネと一緒の味付けとなり、ビー玉で封されたものをラムネ、それ以外をサイダーと呼ぶようになったようです)

その他の食べ物

 都市伝説のようなものかもしれませんが、大正10年に、早稲田高等学院の学生によりカツ丼が開発されたとされています(時期的に、大正10年にカツ丼がひろまったらしいです)。

金色夜叉

 金色夜叉は、明治30年から5年半にわたって読売新聞に連載された尾崎紅葉の代表作で、単行本化されるや、たちまち大ベストセラーとなりました。
 内容としては、第一高等中学校(旧制一高の前身)の生徒・間貫一と鴫沢宮は婚約していましたが、宮の両親は、それを諦めさせて銀行家の息子・富山唯継に嫁がせます。貫一は、宮が金に目がくらんで心変わりしたと思い込み、守銭奴になる・・・といった、現在ならば午前1時半から2時ごろにやっている類です(失礼)。
 明治末期に多く舞台化され、歌は大正5年に作られました。

銀ブラ

 銀ブラには諸説あり、明治末期から文化人が、あるいは大正中期から学生などが、「銀座をぶらぶらしている」「銀座でぶらぶらする」ことを指して、銀ブラと呼ぶようになります。
(これに対して、カフェ・パウリスタが、自店で出しているブラジルコーヒーを引き合いに出して、銀ブラとは「銀座でブラジルコーヒーを飲むことだ」とも主張しています)

 人々は仕事や学業を終えると交通機関や徒歩で銀座に出て、夜店を冷やかすなり、買い物飲食にそれぞれの夜を過ごしていました。
 またそうでなくとも、都市の先端を行く都会の空気に触れたい中間層が集まってきました。
 また、銀座の西側を歩くのが銀座通と言われ、露天の出る東側を歩くのは田舎者と言われています。

帝都の埋葬事情

 まず、明治7(1874)年に、「火葬禁止令」が廃止されています。しかし、実際には火葬は一般的ではなく、相変らず土葬が中心だったようです。
 さらにその後、明治17年に「墓地及埋葬取締規則」が出て、埋葬に関する法律が整理されました。
 大正に入っても相変らず土葬が一般的で、大正末期より都市部に火葬場が建設され、火葬も一般的になってきたようです。
 また、明治7年に造成された、青山、谷中、雑司ヶ谷、染井などの公営墓地が一杯だ、と大正4年に報じられます。
 その為、大正12年に多磨墓地が作られ、ここに火葬場も備え付け、面積を取る土葬から火葬への以降が始まります。
 ちなみに、東京市はこれらの墓地の永久使用料として、1坪あたり1等6円、2等3円、3等1円50銭、4等60銭として貸与しました。
 言うまでもないことですが、埋葬方法は宗教によって異なりますので、なにも土葬ばかりだった、というわけではありません。

東京節

 東京節という名称よりも、『パイノパイノパイ』で親しまれた大正期に大流行したコミックソングです。
 大正8(1919)年に、添田唖蝉坊の長男、添田さつき(本名知道、当時18歳)が作詞し、曲については『ジョージア・マーチ』を拝借したものです(そのお陰で、ジョージア・マーチの練習をしていた楽隊が、『そんな卑俗なものを流すな』と苦情を受けたとか・・・)。
 レコードに吹き込まれるや、爆発的な売れ行きを見せました。
 いろいろとアレンジか、あるいは追加、削除、入れ替えがあったようで、どれが決定版かは不明ですが、「東京の中枢は~」で始まるのが1番では間違いなく、「東京で繁華な浅草は~」で始まるものが含まれるようです。
「東京の中枢は丸の内」「東京で繁華な浅草は」は東京の名所案内ですが、それ以外は世相や政治を風刺した内容となっており、かなりブラックな内容となっていました。
 現代でも替え歌が歌われることもあり、一度聞いたらなかなか忘れがたいメロディと歌詞となっています。本来の歌詞は以下のようなものですが、その時々で替え歌が歌われたようです。

1番
東京の中枢は丸の内 日比谷公園 両議院
粋な構えの帝劇に 厳し館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門 海上ビルディング 東京駅
ポッポと出る汽車 どこへ行く
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

2番
東京で繁華な浅草は 雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売るお婆さん 活動 十二階 花屋敷
すし おこし 牛 天ぷら なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに 乞食に カッパライ
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

※『大正野球娘』のアニメ版では、乞食が喧嘩になっていました。

3番
稼いでも稼いでも喰えないに 物価はだんだん高くなる
物価は高いのに子はできる できた子供が栄養不良
いやにしなびて青白く あごがつんでて目がくぼみ
だんだん細くやせてゆく
日本米は高いから パイノパイノパイ
南京米や朝鮮米で ヒョロリヒョロリヒョロリ

4番
東京で自慢はなんですね 三百万人うようよと
米も作らずに暮らすこと タジれた市長を仰ぐこと
それにみんなが感心に 市長のいうことをよく聞いて
豆粕食うこと 痩せること
シチョウサンタラケチンボで パイノパイノパイ
洋服も ツメエリで フルイ フルイ フルイ

5番
東京の名物満員電車 いつまで待っても乗れやしねえ
乗るにゃ喧嘩腰いのちがけ ヤットコサとスイタのが来やがっても
ダメダメと手を振って 又々止めずに行きやがる
なんだ故障車か ボロ電車め
シチョウサンタラケチンボで パイノパイノパイ
洋服も ツメエリで フルイ フルイ フルイ

6番
東京にも裏には裏がある 鳥も通わぬ島というが
おてんとさまも影見せぬ 暗くて臭くて穴のよな
犬の小屋かと思ったら どういたしまして人間が
住んでおります 生きてます
衛生論も 体面論も パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

大正期の玩具

 ブリキ(錫を鍍金した鋼板)の玩具は明治期より存在し、その時代時代を反映しました。
 明治期には鉄道や馬車が流行り、大正期には飛行船や自動車と言ったもの、戦時には兵器の類といったものが作られました。
 ブリキで細かいデテールまで作られた高級品から、塗装した箱に絵を描いただけの安価なものまで幅広く存在いしています。
 明治期、大正初期は玩具は舶来品が多く、大都市圏でないと手に入りにくいものでしたが、主な輸入先であったドイツが戦争に敗北したことにより、商品が滞り、国内での生産が伸びることになります。

 昭和期までのように駄菓子屋で、簡易な木製、紙製の玩具が販売されていました。
 ブロマイドの類も写真の普及と共に扱われるようになり、大正中期から後期には駄菓子屋で流行のスターのものが買えたようです(スターというよりかは、子供が喜びそうな役者?)。
 小さな弓矢や、パチンコも扱われており、子供が扱うには少々危険なものがありました。中にはこれらを禁止する学校もあったようです。
(キーパーの判断で、駄菓子屋で間に合わせの武器が手に入るのも面白いかもしれません)
 駄菓子屋は文字通り、簡易なお菓子、金太郎飴、金平糖、鉄砲玉、金華糖、げんこつ棒、芋羊羹、餡子玉、麩菓子、紅梅焼き、黒パン、かりんとう、おこし、カルメ焼き等を扱っている他、一銭玩具とも呼ばれる玩具も扱っていました。
 駄菓子屋は子供の社交場とも言える場であり、同時に賭場でもあった為、ベーゴマやメンコを本気で勝負するときは殺気立った場面もあり、学校の先生方の手入れもあったようです(笑)

 ヨーヨーは昭和初期に海外から伝えられたものですが、江戸期に中国から同じようなものが伝わっていたこともあったようです。
 剣玉は同じく中国から大正末期から昭和初期に伝わっており、日月ボールの名で流行しました。

 今日でも見られる着せ替え人形等の遊びは、江戸期からもある人形を使った遊びなのですが、この人形自体が結構な高級品である為、庶民のものではありませんでしたが、明治期に入ると印刷した紙を切り取って、同じく紙の絵の人型へ着せ替えるというスタイルの遊びが出てきます。
 大正期には舶来の人形が流行し、横にすると目を閉じるものや、全身が布製でぶらぶらするので「ブラブラ人形」と呼ばれるもの、そしてキューピーちゃんも大正期に流行(?)しています(キューピーちゃん自体は明治期にアメリカで作られたものですが、昭和初期には日本で生産、輸入商品が主流となっています)。
 また、セルロイドの人形もこの頃に作られ始め、いわゆるマスコミ玩具と呼ばれる、新聞などに掲載された漫画のキャラクターなどの玩具が人気があったようです。
 また、ゼンマイで動くものもあり、昭和期には複雑に動くものが考案されました。
 生活用品のミニチュアのままごとセットの類も明治期より玩具として人気があり、やはり時代時代を反映したものが作られました。
 これらの玩具は原料が陶器、木からブリキ、アルミ等へ移り変わっていくのも、時代が反映されています。

 日露戦争の頃から、男の子の間では戦争ごっこ、兵隊ごっこが流行し、これに使う木製の銃を模した玩具も流行りました。
 また、紙火薬でパンパンと音を出す拳銃も大正期には存在し、一時禁止されるようなこともあったようです。

 肥後の守と呼ばれる、折りたたみナイフが大流行しました。
 背景には鉛筆の登場による、自身でそれを削る必要がある為でしたが、それ以外にもやはり刃物を持ち歩く、あるいはそれを使って自身の望むものが作られる、ということが男心を擽ったようです。
 この肥後の守は、戦後の昭和期になるまで、男の子の魂のようなものでした。

 明治末期から昭和初期の掛けて、折からの出版ブームも手伝って少年向けの小型講談本が多く出版されました。
 中でも有名なのが立川文庫で、本文は総ルビ、挿絵なしといったものでしたが、水戸黄門や、真田十勇士等の忍術ものを多く出版しました。
(この真田十勇士は、最初は真田三勇士で、猿飛佐助、三好晴海入道、由利鎌之助の3人だったところを、人気が出たので他の7人を増やした、という今の少年漫画的なものでした。また、徳川家康を悪役にしたことも、人気の理由の一つだったようです)
 これらの小型講談本は、大正末期から登場した少年雑誌に座を明け渡し、その役目を終えました。

紙芝居

 戦後まで続く、街頭での紙芝居の起源は不明です。
 最初期の頃か、あるいはすでに江戸期に紙で出来た人形で芝居を行なうものであった為、『紙芝居』と呼ばれたとも言われています。
 有名になったのは、昭和5年に『黄金バット』の空前のヒットから、ということはよく知られています。

 いわゆる大道芸の一種であり、本来的には飴等を売るのが目的です。
 自転車に紙芝居を載せ、街頭で拍子木を打って人を集め、飴を売り、人数が集まれた開始を告げるというスタイルが一般的で、主に子供達が紙芝居に親しみました。
 これらの紙芝居は、入場料代わりに飴等を買うと見られるというもので、その回の山場で終了し、続きは後日、というスタイルが一般的でした。
 紙芝居は子供が小銭を持っている、というのが一つの前提なので、農村部などの田舎ではあまり見られず、都市部でよく見られたと言われています。

 これらの紙芝居は初期の頃は、漫画に対抗したような路線であり、エロ、グロといった要素を含んだものが少なくなく、エンターテイメントとしての紙芝居と言えるものでしたが、昭和の戦時となると戦意高揚、国威発揚といったものとなり、戦後は教育的要素を含むものへと変化していき、次第に廃れていきました。

 この紙芝居を、独特の調子を持って語る紙芝居屋が有名ですが、これらは、昭和初期の頃、トーキーの登場によって職を追われた活弁士が鞍替えした人々が混じっており、あの独特の調子が紙芝居に受け継がれたのでした。
 また、紙芝居の裏面にはその場面が何か、ということがさらっと書かれているだけで、詳しい台詞等は無く、紙芝居屋が勝手に組み立てる為、語る人間によって内容に差異があることは珍しくありませんでした。そして、活弁士などのプロが語った紙芝居は、子供はもちろん、大人にも人気を博したのでした。

 また、この大正期、昭和初期は多くの雑誌、特に漫画を掲載する雑誌が刊行され、その中で、漫画から紙芝居へ、紙芝居から漫画へと発展したものも多かったようです。
 著作権の問題意識が薄かったこともありますが、アメコミのようにストーリーと絵を描く人は別、ということも多く、出版社がなんとなく利権を持っていた、という状態であった為、同じシリーズを別の作者が書く、というようなことも多かったようです。

 これらの紙芝居の流通ルートも不明な点が多いのですが、いわゆるテキヤのルートに乗って流通したと言われています。
 紙芝居は基本は手書き、その写しであり、厚紙にニスを塗って保護しただけ、というものが多かった為、使用による損耗が激しいとともに、簡単に損壊してしまうものであった為、現存しているものが極端に少ないようです。
 紙芝居、漫画についても起源が様々に言われていますが、一般的には絵解きや、覗きカラクリ、ポンチ絵が起源であり、それを連続的にしたものがそうであると言われています。

 紙芝居で有名なのは、昭和5年の『黄金バット』です。
 黄金の骸骨に赤マント、というインパクトのある格好で、同じような奇怪な敵と戦う、と言うものですが、これは『オペラ座の怪人』を参考にしていると言われ、また、名前に関してはタバコの『ゴールデンバット』が元だと言われています。
 黄金バットは、その前作として『黒バット』という白骸骨に黒マントという怪人の活躍を描いた紙芝居が好評であった為、その黒バットを倒すために現れたのが、黄金バットです。
(この黒バットについても様々ないわれがあり、オペラ座の怪人や、ジゴマがモデルだと言われています)
 この黄金バットは戦後に漫画、実写映画、アニメまで作成されています。

ラジオ放送

 大正14(1925)年、3月22日午前9時30分、東京芝浦にある東京放送局(NHKの前身)仮放送局から日本初のラジオ放送がなされました。
 この試験放送の電波の出力が弱く(220Wとのこと)、東京市内でなければよく聞き取れないものでした(本放送時は1KW)。
 以後、試験放送、仮放送とし、7月から本放送が行なわれました。
 受信契約数は最初期でわずか3500世帯ほどでしたが、大正14年中には大阪、名古屋でも放送が始まり、全国で25万世帯、昭和4(1929)年に65万世帯と言われています。
(この時代から、家庭にラジオがあるので受信料を払ってね、という料金徴収スタイルがあったのかは不明です)

 最初のラジオは、イヤホンで聞くものでしたが、いわゆるラッパ型ラジオ(蓄音機のようなラッパが外に出たもの)といわれるスピーカーの付いたものが出現し、これの普及に伴い、一家団欒の場でラジオを聴く、というスタイルが家庭に現れます。
 また、昭和6(1931)年の満州事変が起こった時、日本で初めての臨時放送が流れ、これを機会に国防の観点からもラジオを推奨する、ということもあったようです。

 詳しい時期は不明ですが、ラジオ放送の開始とともに新聞や雑誌にラジオの放送番組予定が載る様になっていたようです。
 当時の番組は、大体以下のようになっています。

 ・天気予報
 ・株式市況
 ・今日の献立
 ・正午の時報
 ・ニュース
 ・音楽(クラシックからジャズまで、当時あった音楽のほぼ全てと、謡曲、長唄等の古来のものまで)
 ・音楽の解説(上記の解説付きの番組)
 ・落語
 ・ラジオ劇(今で言う(絶滅しかかっていますが)ラジオドラマ)
 ・英語講座等の教育番組(現代のNHKに近い、趣味の教養番組もあったようです)

 ほぼ今のNHKと変わりないような内容が、8:00~21:30頃まで放送されていたようです。
 なお、ラジオ体操は昭和2(1927)年に開始されていますが、現代の「ラジオ体操第1」は、戦後の昭和26(1951)年からです。

職業婦人

 現代で言えばOL(Office Lady、死語になりつつありますが…)、昭和中期まではBG(Busines Girl)、大正期は職業婦人と呼ばれる、社会に出て、職業に就いている女性を指す言葉です。
 わざわざこんな言葉があること自体が女性蔑視の現われでもあるのですが、女性が会社で働くことが珍しかった当時は、一種の流行語のようなものになり、新聞や、女性誌に限らず雑誌でもよく取り上げられるました。

 大正後期より女性の社会進出が進み、従来の農業や家内ではなく、外に出て主に事務系の職種で働く女性が増えました(大戦景気の後退や、各種の騒動、女性参政権の運動等が、女性を押し出したとも考えられます)。
 彼女らは様々な職種に就いており、当時の新聞では医師、看護婦、薬剤師、教師、新聞記者、写真師、電話交換手、タイピスト、女工、事務員、外交員、バスガール(女性車掌)、デパート店員、女給などが上げられており、大正後期になると映画女優、アナウンサーといったものも見られるようになります。
 この中でもバスガールや、電話交換手は花形職業とも言われました。
 こういった中で、様々な問題が発生し、 大正10(1921)年に職業紹介法、大正11年に健康保険法等の現代でも見られるような法律が整えられることになります。
 同時に東京婦人労働組合や、職業婦人団体連盟などの女性の労働組合的な組織も出てきます。

 ただ、女性の社会進出が進んだとは言え、当時の女性の6割以上は農業に従事しており、大正9年と昭和5年の調査を比較しても変動はありませんでした。

新しい女

 明治44(1911)年『青鞜』の創刊後、平塚らいてうが明治45年に読売新聞で「新しい女」と題する記事の連載を始めました。
 有名すぎる『青鞜』の女性解放運動については記載を省略しますが、この記事も同様に男性社会の反発を招き、平塚自身や、『青鞜』周辺、あるいは単に進歩的な女性までも含めて「新しい女」と呼ばれるようになります。
(この後、平塚はさらに「私は新しい女である」という記事を中央公論に載せ、本人は気にしていないアピールを通り越し、挑発まで行なっています)

五色の酒事件、吉原登楼事件

 五色の酒とは、「メイゾン・ド・鴻の巣」というバーで出されていたカクテルのことで、おそらく「プースカフェ」であると思われます。
 大正元(1912)年、青鞜の資金繰りの問題を知った尾竹紅吉が、このバーに広告を取りに行ったのですが、新しいもの好き、変わったもの好きの尾竹がこの五色の酒の美しさに魅せられてバーに入り浸り、このことを知り合いの記者等に語ったところ、それを面白おかしく新聞等で書き立てられます。
 当時としては、バーに女が入り浸るなどはどんでもない、という風潮でした。

 さらにこれに続いて、尾竹は「吉原登楼事件」を起こします。
 青鞜の平塚らいてう、中野初子らとともに、当初は取材や、女性の立場云々という名目で吉原へ行ったところを、その華やかさ、煌びやかさに見せられた尾竹がまたも通いつめるという事態を起こし、前述の五色の酒事件と同じく、世間の批判を浴び、これだから青鞜は、新しい女は、という目で見られるようになります。
 結果、青鞜への風当たりがきつくなり、メンバーのプライベートが暴かれたり、青鞜のメンバーであることを理由に辞職させらたり、あるいは平塚家への投石が行なわれる等、ひどい状況を招きました。
 しかしそれでも平塚が尾竹を可愛がった為、青鞜内部の不和も招くこととなります。

若い燕

「五色の酒事件」「吉原登楼事件」の後、尾竹紅吉は青鞜内部で攻められ、自殺未遂を起こしましたが、傷は浅く一命を取り留めました。
 しかし、結核を煩い茅ヶ崎へ療養へ向かうこととなります。
 平塚らいてうは、尾竹が療養へ向かった後、若い画家奥村博と交際をはじめ、彼を「弟」「若いつばめ」と呼び可愛がりました。
 この交際は青鞜の内部の不信に繋がり、尾竹はこのことを知ると、奥村へ脅迫まがいの手紙を送ります。
 これに驚いた奥村が平塚の元を去ることを決意します(周辺の友人の勧めもあったようですが)。別れ際に平塚に送った手紙の中に「若いつばめは池の平和の為に飛び去っていく」と言う言葉が使われており、これが流行語となり、女性が年下の男性を可愛がるときに使われる言葉として定着してしまいました。

移民事情

 日本は意外なことに戦前は人口過剰であると言われており、労働力を輸出する立場にありました。
 明治18(1885)年、日本とハワイの間に移民条約が結ばれ、第1回の官約ハワイ移民が行なわれ、以後、大正13(1924)年にいわゆる排日移民法が成立するまでに実に20万人以上もの日本人がハワイへ渡っています。
(当時、ハワイは独立した国家であり、日本とハワイで条約が結ばれていましたが、明治32(1898)年にハワイがアメリカに併合されます)
 これ以外にも、アメリカ本土、ブラジル、ペルー等の南米諸国の他、当時はアメリカ統治下であったフィリピンや、日本の統治下であった満州、南洋諸島への移民が行なわれました(日本統治下の場合は、移民と呼ばれない場合があります)。
 これらの移民はいわゆる契約移民という政府や斡旋業者を通した期間契約の労働(まあ、要するに出稼ぎ)から、自由移民と言われる自費での移民に分かれています(まあ、自由移民とは言いつつ、後ろに様々な公的機関、企業が付いて来ることもあり、厳密な意味での自由移民は少ないようですが)。
 これらの契約移民では政府や、斡旋企業が「移民すると数年のうちに金持ちになれる!」というようなコピーで大きな宣伝を打ち、大々的に移民を募り、大正3(1914)年の時点で在外邦人33万人と新聞に報道されています(外務省調査、満州等の日本統治下は省いた数字です。ちなみに、大正4年の時点で日本の人口が約5000万です)。
 もちろん、これはただの宣伝であり、契約時と異なる職種や待遇はもちろんのこと、何も無い開墾地へ放り出されたり、奴隷に近い状態もあった言われています(奴隷貿易ほどではないにしろ、ひどいものがあったことは確かです)。

 当時、アメリカ本土には広範囲に渡り、日本人の移民が居り、大正9(1920)年には10万人と言われる日本人がカリフォルニアで農業開拓に従事していました。
 ロサンゼルスには日本人街「リトル東京」が作られ、アメリカンドリームを夢見た日本人の渡米の足掛けとなっていました。
 しかし、排日移民法、あるいはそれ以前から人口を増しつつあった日系人に対する警戒に対しての法的な締め付けは、アメリカに対する態度の硬化、開戦に至る原因となっています。

 この移民に関連したものの中に、「写真結婚」と呼ばれるものがあります。
 お見合いと言えばそれまでですが、結婚する当事者は一切顔を合わせず、写真だけを頼りにして婚姻を合意し、そして移民先へと渡りました。写真だけを頼りにした彼女らを「写真花嫁」とも呼びます。
 これについては、明治41(1908)年に結ばれた日米紳士協約により、自主的に移民を制限したのですが戸籍上の家族となれば渡航が問題ないとされていたことにも関係します。
(まあ、もちろん、現代でもある農村に嫁の来てが無い、という事情もあったようですが)
 この「写真結婚」も排日的な攻撃にさらされ、大正9(1920)年に禁止されてしまいます。

 有名な谷譲次(長谷川海太郎、牧逸馬)の「めりけんじゃっぷ」は大正14(1925)年から雑誌『新青年』に連載されましたが、谷は大正7(1918)年に渡米し、大学に学びながら働き、大正13年に帰国しています。

タバコ

 煙草は、スペイン語か、ポルトガル語の“TABACO”が語源であると言われており、『煙草』と漢字を当てるのが一般的です。

 日本での煙草の起源は様々に言われていますが、戦国時代の南蛮貿易によってもたらされたと言われています。
 江戸期に入ると、幕府による専売、規制も入りましたが、現金収入を目的とした煙草を栽培する農家が増加、庶民の間にも喫煙の習慣が定着しました。
 明治に入ると、煙草の栽培、製造は政府の専売となります。

 江戸期には刻み煙草で煙管による喫煙が主流でしたが、明治期に西洋から葉巻、パイプなどとともに、紙巻煙草が輸入されました。
 この紙巻煙草は、手軽さもさることながら、西洋文化のいわゆるハイカラの象徴として持てはやされ、もともと喫煙の習慣があった日本人の主流となります。
 紙巻煙草には、口付きと呼ばれる吸い口の付いたもの(現代のようなフィルターではなく、紙を円筒状にしたもの)と、両切りと呼ばれる吸い口の無いものがあります。
 口付きは、敷島や、朝日、両切りはチェリー、ゴールデンバットなどが有名でした(一時、ピースという銘柄もあったのですが、現在のピースとは異なり、一次大戦終結の記念用だったそうです)。

 当時、喫煙自体が普通の習慣であり、有名人にも愛煙家が多かったのですが、煙草の吸い方がいわゆるふかし(口に含むだけの喫煙)であり、肺にまで吸い込むようになったのは戦後にフィルター付きの煙草が現われてからになります。

「未成年者喫煙禁止法」が定められたのは、明治33(1900)年で、大正期には未成年者の喫煙は、親、監督者、販売者に対する罰則を規定していました。
 これに対して、「未成年者飲酒禁止法」が定められたのは大正11(1922)年であり、大正中期までは誰でも大手を振って酒を飲めた、という状態でした。

 これらの煙草に火を点けるのには主にマッチが用いられましたが、マッチの最初期は輸入品の高級品で、その後、国産化が進み手軽なものとなりました。
 ライターについては、国産の平賀源内の刻み煙草の点火装置があったと言われていますが、好事家向けのものであり、大正中期にアメリカのオイルライターを模したものが発売されるようになりました。
 なお、ガスライターは戦後になってから登場します。

コンミッション

 大正初期の流行語です。本来(?)は、手数料、歩合という意味で、現代で言うインセンティブです。
 公共事業等の斡旋の見返りにコンミッションを求めるなど、大正初期に賄賂に近い意味で使われています(取引の手数料、という意味でコンミッションと言う言葉を使ったようです)。
 大正3年の山本内閣が総辞職に追い込まれた、巡洋艦「金剛」の発注に絡む贈賄、一連の疑獄事件、いわゆるシーメンス事件でこの単語が登場し、流行語となりました。
 子供の間でも物を送って便宜を図ってもらうような、コンミッションごっこなるものが流行ったと言われています。

大正期の自動車

 明治40(1907)年、警視庁(東京府)の、「自動車取締規則」で、「車両番号」が定義され、ナンバープレートの原型が出来ます。
 この時の運転免許は木製の許可証で(昔ながら木札の類)、「運転手免許」と「車掌免許」の2種類が存在し、一応、試験を受ける必要がありました(ただ、いわゆる乗り合い、タクシーの類のみだけで、自家用車に関しては特に免許は必要なく、営業許可証の意味合いが強かったようです)。
 この「車両番号」を表示するナンバープレートは、文字の大きさや書き方等の定義があってもプレート自体の定義が無いので、大きさはまちまちで、現在のようなものとはかけ離れており、表示しない車両も多かったようです。
 ちなみに、番号は当時の自動車の保有台数が僅少であった為、通し番号でした。
(明治40年は不明ながら、大正2年に国内の保有台数が521台)

 この後、大正8(1919)年に「自動車取締令」が出て、運転手免許を甲種(全車両OK)、乙種(特定車両。実質的に当時多かったT型フォードの為の免許で、現代で言えばAT限定)に分かれました。
 これらの免許は公道上で試験を行い、車体検査証も必要であった為、自動車を保有していないと免許を取ることができませんでした。有効期間は5年で、交付者が県の長官である為、他県へ引っ越したら無効(!)になるものです。
 免許証は木札から三つ折の紙製に変わりました。

 昭和8年に「自動車取締令」は全面的に改訂され、乙種は普通免許となり、排気量750cc以下の小型車両(4輪、2輪とも)は小型免許として試験不要、申請のみとなります。
(これにより、国産の小型自動車の生産がさらに伸びることに)

 国内の自動車関連の主なイベントは以下の通りです。

 明治37(1904)年、日本初の国産蒸気自動車「山羽式蒸気自動車」が製作される。
 明治40(1907)年、日本初の国産車「タクリー(国産吉田式自動車)」が製作される。
 大正元(1912)年、東京市内でタクシー会社が6台のT型フォードで営業開始。
 大正8(1919)年、東京乗合自動車(青バス)が100台で営業開始。
 大正13(1924)年、東京市バスがフォード800台で営業開始、当初は市電の代替手段として。
 大正14(1925)年、横浜に日本フォードが設立
 大正15(1926)年、ダット社(現日産)が設立
 昭和2(1927)年、大阪に日本GMが設立
 昭和9(1934)年、ダット社、日産自動車に改称
 昭和12(1937)年、豊田自動車が設立

 大正期は、国内で外車を作る、日本製の外国車という状態でした(ホンダは戦後、昭和22(1947)年の設立です)。
 なお、人力車は明治2年頃に発明され、その後、昭和の始めぐらいまでは見られました(江戸期に人力車はありません)。

写真機

 大正8(1919)年2月の神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)に当時の写真機熱についての報道がされています。
「近頃、当市で大流行を来しているカメラ趣味。一寸郊外へ出ると写真機を肩に懸けて行くと云う風はザラに見受けられるのである。(中略)24円もあれば写真機から現像薬品まですっかり揃う」
 24円と言えば、一般的な労働階級の一ヶ月の収入とほぼ同額で、このカメラ趣味の中心は主に商社や、銀行、汽船会社などの景気の良い方面の者でした。
 当時のカメラはそれ自体の取り扱いから現像まで、専門的な技術が要求されることもあり、一般的ではなかったこともありますが、やはりカメラは高嶺の花であり、街の写真屋に撮影してもらうのが一般的であったようです。

 レトロなカメラと言えば、大型の蛇腹を持った組み立て式でガラス乾板によるものが思い浮かびますが、19世紀末にはすでにフィルムが発明されており、近代にもあるロールフィルムがイーストマン・コダック社から発売されています。
 当然ですが、このロールフィルムを使用するカメラも同様に発売されており、現代のそれに比べればかなり大型ですがそれまでの乾板を使用するものに比べれば小型化され、持ち歩くのも簡単になりました。
 よくある蛇腹方式のカメラは、過去の大型のものは持ち運び時には折り畳んでおき、使用時に組み立てるというものでしたが、その後、この蛇腹でレンズの距離を調節してピントを調整するという用途で用いられました。

 大正期には様々なカメラが輸入されています。
 大正元(1912)年にアメリカのイーストマン・コダック社から「ベストポケットコダック」が発売されています。その名の通り、ベストのポケットにも入るというサイズのカメラでロールフィルムを使用したものです。
 当時、ガラス乾板の暗箱のカメラがまだ主流であった時代に発売されたこののベストポケットは大量生産で安価でもあり(それまでのカメラに比べれば!)、ベストセラーとなりました。
 このベストポケットも蛇腹方式のものであり、以降、「ピコレット」(大正4(1915)年発売、ドイツ、コンテネッサネッテル社)、「パーレット」(大正15(1926)年、小西本店)と言った同様の形式のカメラが発売されるようになります。
 ちなみに有名なライカA型は大正14(1925)年の発売となります。このライカは蛇腹が無く、レンズを螺旋溝によって前後させて焦点を合わせました。

 国産では明治36(1903)年、小西本店(後のコニカ)が一般向けに初めて「チェリー手提暗箱」という名前カメラを発売しました。これはいわゆる暗箱カメラで、名刺サイズの乾板を用い、固定焦点、固定絞りの非常に簡易なもので、2円30銭で販売されました。
 ついで明治41(1908)年には蛇腹を持った組み立て型のカメラ「さくらノーブル」を発売します。以降、小西本店は様々なカメラや印画紙、フィルムの販売を展開します。

 当時の写真は白黒でしたが、これに対して色をつけるということは当初から考えられていました。
 現像後に彩色する等の原始的な方式もありましたが、光の3原色でネガを分解し、それぞれの色を出力先(映写機や、写真印刷)で再現するという方式が一般的だったようです(つまり、大正期にはカラー写真は存在していました)。
 カラー写真は、昭和10(1935)年にアメリカのイーストマン・コダック社が映画用に開発し、翌年にはカメラ用のものも発売されましたが、これは現代のようなネガポジ画像ではなく、フィルム自体がカラーで撮影できるようになっていたものです。
 現代のようなネガポジ画像によるカラー写真は昭和11(1936)年のドイツのアグフア社が最初だと言われています。

電灯とガス灯

 明治期から大正期にかけて電力供給会社、ガス供給会社が続々と設立され、インフラと整えつつ安定供給を目指しました。
 帝都内は複雑な利権の絡みもあり、様々なインフラ企業がしのぎを削る状態となっています。この為、電力、ガスを利用したものが混在する時代にもなっています。

電灯、電力事情

 日本で最初の電灯、アーク灯が点灯されたのは明治11(1878)年のことで、電信中央局の開業の記念祝賀会の中での事です。一般向けとしては明治15(1882)年に銀座の大倉組前で点灯されました(これは大いに話題となり、錦絵にまでなりました。見世物と啓発が目的の点灯で、バッテリーを使った点灯です)。
 この時のアーク灯は確かに明るかった(明治11年のものは蝋燭4000本分、15年のものは2000本分とも言われています)のですが、非常に効率が悪いもので(1時間の点灯に50円という巨費が掛かったと言われています)電灯自体の寿命も短く、点灯時間は100時間程度だったと言われています。
 アーク灯はその寿命や、家庭用にしては明るすぎることも手伝って、家庭向けの電灯にはなりまえませんでしたが、街灯として帝都内に設置されたようです(どこがどう、という詳細は不明ですが、ガス灯と混在していたことは確かで、電力インフラの整備とともにその設置範囲も広がったことも確かです)。
 この後、1880年ごろに白熱電球が発明、改良が進み、明治33(1900)年には国産の電球が発売されましたが1個1円と非常に高価なうえ炭素線の寿命が短い上に切れやすいものでした。
 明治43(1910)年に国産で安価で丈夫なタングステン電球が発売されるようになり、電灯の普及が進むようになります。
 ちなみに、蛍光電灯は昭和16(1941)年に発売され、白熱電球に代わって普及しました。

 電力供給を目的にした日本最初の電力会社、東京電燈が明治19年に設立され、帝都近郊に火力発電所を設置しました。以降、全国に相次いで電力会社が設立され、電力の安定供給を目指すことになります(東京電燈が採用したのがドイツの50Hzのもの、大阪電燈が採用したのが60Hzのものであった為、これが現代までの関東、関西の周波数の違いとなっています)。
 電力はその会社名の通り、主に電灯に使われるために供給していました(まあ、この時代はまだ家電は全く普及していないと共に、工業機械でも同様に普及していませんでした)。
 明治19年にまず皇居に電力の供給が開始され、電灯が点されました。次いで営業用の電力供給が始まり、凌雲閣や各新聞社が電力を使用しはじめます。
 大正期に入ると電力インフラも整い、一般の店舗でも電飾を利用したり、電灯を点すのが一般的になりました。
 大正5年の電力会社の発表によれば100世帯辺りの電灯需要戸数は39戸、電灯の需要は順調に伸びて大正14年には80戸になっています。この値は全国平均値であることを勘案すると、都市部、特にインフラの整った帝都や大阪、名古屋といった都市部ではもっと高かったであろうと考えられます。

ガス灯、ガス事情

 ガス灯、と言われるとランタンのような炎が直接燃えている灯りを思い浮かべますが(いわゆる、裸火ガス灯)、これは明治の初期の頃に使用されたもので、明治の半ば30年代になるとガスマントルを使用した灯りにとって変わられます。
 これらはガスライトの本場、西欧から輸入されたものでしたが、そのうちに国産に取って代わりました。

 横浜にガス灯が灯ったのが明治5(1872)年、この2年後の明治7年に帝都の銀座にガス灯が灯ります。
 歴史の教科書にもあるガス灯が最初に設置されたのは横浜ですが、その後、ガス自体の普及が進まなかったこともあり、ガス灯の設置も進みませんでした。
 明治30年代になってやっとガスの普及が進み、街路灯としてのガス灯が帝都にも設置されはじめます。
 しかし、同時に電気も普及し始めていた為、これに取って変えようという話も上がっていたのですが、ガス会社が料金を下げる、ということを提案するとともに、ガスマントル(それまでのガス灯よりも5倍明るい)の普及により街路灯はガスのままとなりました。
 これらのガス灯は当然、手動での点火、消火となります。その為にガス灯の点火、消火を担当する人々を『点消方』と呼ばれる人々が夕方に点火、朝に消化を行なっていました。
 ガス灯のガラスの補修や清掃、ガスマントルの交換なども点消方の仕事です。

 ガスにナトリウム等の触媒を混ぜることで炎の色を様々に変えることができます。
 これを使って現代のネオンのように様々な色の炎で形を作り、広告を行なうということが行なわれ、「花ガス」と呼ばれました。
 ガス灯の普及とともに使われ始め、廃れるとともに姿を消しています。

 この後、電気側にタングステン電球が登場し、寿命も明るさも延びたことから、ガス灯は電灯に変わっていきます。
 大正の初め頃より電灯への取替えが進み、大正4年をピークにして灯火用のガスは減少を始めます。ただ、変わって生活燃料としてのガスが普及が進み、現代にも通じる灯りは電気、燃料はガス、という生活スタイルになっていきます。
 ちなみに、当時のガスを使った機器として、以下のようなものがあります。
  ・ガスレンジ
  ・ガスコンロ
  ・ガス食パン焼き器(トースター)
  ・湯沸かし器(洗面用)
  ・アイロン
  ・冷蔵庫(!)
  ・火鉢
  ・風呂
  ・ストーブ
  ・かまど
  ・エンジン(発電機等)

メートル法

 明治26(1893)年の度量衡法において、日本は原則尺貫法の使用が規定されていました。
 しかし、明治9(1886)年に日本はメートル法を使用する条約に加盟していたこともあり、尺、貫のメートル、キログラムへの換算方法が定められており、両方を公認する形をとりました。
 さらに、アメリカ、イギリスではヤード、ポンドが使用されていることから明治42年の改正度量衡法においてはこれも公認、三つの単位が混在するという状態になりました。
 大正10(1921)年4月11日にメートル法を基本とする度量衡法改正が公布、3年後の大正13年7月1日に施行と布告されましたが、施行の猶予期間が順次延期されていき、戦後に度量衡法が廃止されるまで、尺貫法の利用は認められることになります。

港屋絵草紙店

 竹久夢二の描く美人画は、目線が来てない目、身をよじったり、何かにもたれかかったり、いかにもか弱げ、儚げな印象を与える夢二の美人画は夢二式美人と言われ、その仕草や、装いを真似る女性も出るほどでした。
 夢二はこういった雑誌のコマ絵の仕事のみでなく、広告やポスターの他、様々なデザインも手掛けていました。
 この夢二がデザインした小物を専門的に販売する店として、『港屋絵草紙店』が大正3(1914)年に日本橋区に開店しました(当時、その周辺は呉服店の並ぶ職人街でした)。現代で言えば、ファンシーショップとも言えるものです。
 夢二の元妻であるたまきが店を切り盛りし、夢二のデザインした小物(便箋、封筒、手ぬぐい、千代紙等)や、版画を販売しました。
 大正4年には『淑女画報』にも掲載され、夢二式の流行の発信地であり、東京の名物の一つとして連日若い女性が押し寄せたと言います。
 また、この店に夢二の友人達や、(弟子は取っていませんでしたが)弟子のような人物、若い画学生も訪れ、時には展覧会場になるなど、夢二の一種のサロンのような役割を果たしていました。
 この港屋は、夢二の恋愛事情も絡み、大正5年、わずか2年で閉店してしまいます。

にゃんにゃん猫展覧会

 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、明治38(1905)年から翌年にかけて雑誌「ホトトギス」に連載され、その人気の影響という訳ではありませんが、日本でも明治末期よりペストの流行予防の為に一家に一匹猫を飼うことが推奨されたこともあり、様々な猫が輸入されたりして、街中に猫が普通に見られるようになりました。

 世界で最初の公式のキャットショーは1871年のロンドン、ハイドパークで行なわれたものだと言われています。
 日本で記録に残る最初のキャットショーのようなものは、大正2(1913)年4月5日、上野の精養軒で開催されました。これは新聞にも事前にその開催が予告されるとともに、開催後は記事としても掲載されました。
 審査委員長が、上野動物園技師の黒川義太郎で、他審査員は須永、梅本、久保野の家畜(動物)病院長が勤めたとあります。発起人は、落語家の柳家小さん、歌舞伎の六代目尾上菊五郎、「小猫」の村井弦斎、「吾輩は猫である」の夏目漱石などです。ただ、漱石はこの展覧会自体は胃潰瘍で臥せっていた為に欠席したようです。
 参加したの二十匹の猫で、一般から公募したのではなく、あくまで発起人やその関係者から猫を集めたようです。
 一等は下谷の鈴木彦太郎の三毛の牡「ミイ」で、鰹節の五円券が送られたと新聞にあります。

有田ドラッグ商会

 有田ドラッグ商会は、大正期に有名だった主に性病(性感染症)を中心とした、完治の見込みの薄い病気に効くとした薬を主に取り扱っていた商会です。
 この時期は性病が大きく流行ったとともに、発疹チフス、ペスト、コレラと伝染病の流行が相次ぎ国内でも衛生博覧会が開かれるなどで衛生への関心が高まった時期でもあります。
 有田音松は自身の販売する花柳界病や、結核など疾病状況を示す模型を小売店で展示し、この発想は成功しました。江戸川乱歩がこの光景に魅了され、『白昼夢』などで猟奇的に描いたのは有名です。

 有田音松は良く言えば立志伝の人、そうでなければ山師の類です。
 神戸の遊郭の妓夫太郎(いわゆる客引き)から、性病の治療薬を売り、巨利を手にしました。
 当時、有田の商売が独特だったのは今ではよくあるマスメディアを通じて宣伝を打ち、売りつけることでした。これも現代によくあることですが、有田の販売している薬を飲んだら病気が治った!という類のもので、大々的に患者の「体験談」として広告を出しました。
 話題を作って目を引くためか、あるいは単に目立ちたがりだったのか、これらの広告だけでなく、当時の政治や世間の事件に物申す、という「意見広告」も載せるようになりました(そして、そのうちにデタラメ満載の「自叙伝」まで載せています)。
 一時は、小学生の憧れの有名人としても上がるほどの人気を博しましたが、これが長く続くはずもなく、大正14(1925)年に「有田音松征伐」と題して『實業之世界』という有名な業界雑誌がその過去や商売のインチキを暴露、有田は見る影も無く落ちぶれてしまいます。
 有田音松は戦中の昭和19(1944)年まで生きたらしいのですが、この後はまったく音沙汰はなかったようです。ただ、息子と思われる有田二郎なる人物が大阪の政界を騒がせたと言われています。

精養軒

 様々な文学作品にも登場する「精養軒」ですが、築地の「精養軒ホテル」が明治5(1872)年に開業、その後上野公園の開設に伴い、明治8年に「上野精養軒」が不忍池の畔に開店しました。
 当時、フランス料理は言うに及ばず、そもそも肉食自体が珍しいこともあり広く(特に上流階級に)利用されることになります。
 築地、上野精養軒は元々社交場としての意味合いも強く、各界の著名人が利用したようです。
 大正9(1920)年に結婚式場となる神殿を増設し、「明治神宮で挙式、精養軒で披露宴」を、というのが一つの乙女(のお父さん)の憧れであり、ステータスとなりました。
 なお、関東大震災により築地精養軒は焼失、上野精養軒が本店となることになります。

メイゾン鴻ノ巣

 明治43(1888)年に日本橋小網町に開業したカフェ、バー、あるいはレストランです(こちらをカフェと数えた場合、帝都最初のカフェは『メイゾン鴻ノ巣』になります…)。
 何度か移転をしており、大正4年頃には日本橋木原店、大正9年頃には京橋南伝馬町へと場所を移しています(ただ、京橋では『フランス料理「鴻乃巣」』)。
「パンの会」の毎月の会合の会場となったこともあり、いわゆる文士たちのサロン的なものとなり、文化人が集う場所だったと言われています。
「パンの会」は、「スバル」系の詩人、「白樺」「新思潮」などの同人作家、『方寸』の画家や俳優などの幅が広い文人たちが、日本のパリのカフェのような交流の場が必要だと始めたもので、月に数度、隅田川をセーヌ川に見立てて、その畔で平たく言うと宴会を行っていました(「パンの会」などという謎の名称(ギリシャ神話の『パン』に由来すると思われる)が付いており、様々な文化人が集まることから、社会主義的思想の会かと勘違いされて刑事の見張りが行われる等もあったようです。この会は大正2年ごろまで続いています)。
 大正6年に芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会もここで行われました。
 ちなみに「青鞜」の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたのは明治44年のことです。

隅田川の蒸気船

 大正期の帝都において「蒸気に乗る」と言えば、墨田川の渡しの蒸気船に乗ることでした。
 就航当初は機関が付いた親船に客船が曳かれるというもので、船内では物売りが絵ハガキ、絵本などを売ったと言われています。
 同じく大正期に発展したバス交通網と同じように、経営する汽船会社によって船を色分けて「青蒸気」「白蒸気」と呼ばれていました。
 吾妻橋を起点に、上りは白髭橋、鐘ヶ淵、千十大橋、下りは厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の辺りまで運行していました。最盛期にはかなり多くの停船所があり、また隅田川の支川にまでも運行していたようです。
 1区間を1銭であった為、『1銭蒸気』の名前で呼ばれましたが、徐々に値上げが行われ、大正期では5銭均一であったと言われています(この辺り、汽船会社によってまちまちで、大正中期には電車に対抗する為、各社が2銭で統一という記述も見られます)。
 当時、房総線の始発が両国駅であり、省線が秋葉原まで来たのは昭和7(1932)年である為、大正期はかなり繁盛したと言われています。
『ポンポン蒸気』と呼ばれることもありますが、それは大正末期から昭和初期と思われます(資料が錯綜し過ぎて、どれが正解か分からない状態ですが、大正末期から昭和初期の辺りで燃料が石炭から重油に変わり、『ポンポン蒸気』と呼ばれる独特のエンジン音を出す「焼玉エンジン」が液体燃料であることから、その時期に変わったと考えられます)。

兵役、徴兵令

 明治4(1871)年に山県有朋らが建議、翌5年に『全国徴兵の詔』が発せられ、続く6年に『徴兵令』において、「大日本臣民ニシテ満十七歳ヨリ満四十歳迄ノ男子ハ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」と定められ、基本的にすべての男子に兵役の義務が課せられました。
 明治6(1873)年に制定された『徴兵令』には一家の長男や、一定の金額(代人料270円)を支払った場合等の免除項目がありましたが、明治22(1889)年の改訂で削除されました(そして、徴兵拒否等に対する罰則も盛り込まれています)。
 同じく明治22年に公布された大日本帝国憲法にも、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」(第二十条)と謳われ、建前上は国民すべてに義務であるとされました。

 毎年4月から7月末までに行われる徴兵検査によって学力、体力の身体検査を受け、兵役に適合するかを甲乙丙丁戊の5段階に評価されました。
 甲種は「身長5尺以上ニシテ身体壮健ナル者」(大正15年)、体重、胸囲、視力、聴力、言語、関節運動などの検査項目があり、主に体格順で合格となりました。
 農村、漁村部等の田舎において、これらの兵役検査で甲種合格することは大変な名誉とされました。基本的に本籍地で検査を受ける為に、この検査の為に田舎に帰る場合などもあったようです。ただ、実際は甲種合格は名誉だが、人手を取られるのは困る、というのが実情だったようです。
 検査合格後の配属については、それまでの経歴、技能が考慮される他、一部の兵科(近衛兵等)では家庭状況、思想も考慮されたと言われています。本人の希望も聞かれることもあり、騎馬、技術兵科の人気が高かったようです(まあ、希望通りの配属になるには、本人の技術の他、各兵科の細かい注文があったようで、そうそうはなかったようです)。
 大正期、戦争が無い平時の場合には、合格者全員が入営したわけではなく、予算に応じて必要人数だけが抽選されたようです。この為、徴兵検査に合格=入営という訳ではありません。

 徴兵の他に一年志願制度というものがあり、中学卒業者(か、それと同等の学卒者)であり、現役中の費用を自費で賄える場合に、服役期間を1年として、最終試験に合格すれば少尉(不合格の場合は伍長)となる制度があり、陸軍で幹部養成の一環として入営時から特別扱いであったと言われています。

 兵役は陸軍が現役3年(大正12年から2年)、予備役4年4カ月(大正12年から5年4カ月)、後備役10年、海軍が現役3年、予備役4年、後備役5年で、その後は陸軍、海軍とも40歳までは国民兵役に就くことになっています。また、入営しなかった場合は、12年4カ月の補充兵役となっていました(合格後、入営しなかった場合が第二補充兵役、不合格であった場合は第一補充兵役と分類されています)。

 これらの徴兵制に対して、当時の全ての国民が易々と服したわけではありませんでした。大正デモクラシーの思想に触れた徴兵対象の若者が逃げ出すことも多くみられ、また高等教育機関の学生となることで「徴兵猶予」、そして外国に在留することでこの徴兵を逃れていました。

 諸説ありますが、一般的に南極大陸は1820年頃に発見されたと言われていおり、1840年代にイギリスのジェームズ・ロスが南極の探検を行っています。その後、1911年にノルウェーのロアール・アムンゼンが南極点へ到達しています(ちなみに、HPLによる『狂気の山脈にて』のミスカトニック大学の南極探検隊は1930年です) 。

満員電車

 明治15(1882)年に、東京馬車鉄道が開通しました。明治46(1903)年にこれらを電化して東京電車鉄道となり、新規開業した東京市街鉄道、東京電気鉄道が合わせて路面電車を付設しまます。その後、明治44(1911)年にこれらの3社が買収、統合されて、市有として東京市電局が発足して、「市電」となりました。
 大正3年の『東京案内』に、「荷物を持っていなければ、金五銭を投じさえすれば、何処までも何処までも運んで呉れる。テクテク歩くならば一時間もかかるところを、二十分や十五分で運んで呉れる。東京居住者は勿論、東京遊覧客は、この安価にして便利な交通の利器を利用せねばならぬ。」とうたわれており、市民、観光客の東京市内の移動の利便性がかなり向上したようです。
 明治の頃からすでに市民の生活に根を下ろしており、値上げをしようとする度に反対運動が起こるほどでした。
 大正4年ごろには、現在でも見られるような通勤ラッシュがすでに発生しており、添田さつきによる『東京節』で「東京の名物満員電車、いつまで待っても乗れやしねえ、乗るにゃ喧嘩腰命がけ」と歌われています。  寺田寅彦なども「電車の混雑について」と題した随筆を発表して(『思想』大正11年9月)、その混雑ぶりを科学的に(?)観察しています。

明治の南極探検

 日本初の南極探検は明治43(1910)~45年に探検家の白瀬矗(しらせ・のぶ)によって行われました。当時、探検ブームのようなものが世界を覆っており、イギリスのロバート・スコット、ノルウェーのロアール・アムンゼンの南極探検に対抗するものでした。
 探検に使われた開南丸は204トンの木造の帆船に補助エンジン(航行に使用できるものではない、出力の弱いもの)を取り付けたもので、なんと漁船を改造したものです(アムンゼンのフラム号は402トンと開南丸の約2倍で、彼を迎えに来たときに南極ですれちがい、驚いたとかなんとか)。
 探検隊の隊長である白瀬は民間の探検家とされていますが、当時は陸軍中尉であった為、「白瀬中尉」と呼ばれるようになります。
 この為、後援会に学者や文官の他に、陸軍の関係者がおり、この探検には国から補助金が出ていました。
 開南丸は明治43(1910)年11月に芝浦を出港し、翌2月にニュージーランドに寄港後、南極の夏の終わりが近いことから5月にシドニーに寄港しました。明治44年の11月に再びシドニーを出港、翌年1月に南極ロス海クジラ湾に到着。そこから探検隊は極点を目指しましたが、途中で引き返してきています(領土の占有の宣言をしたりしながら)。
 明治45年の6月に開南丸は日本の芝浦に帰ってきましたが、翌大正2年の10月に三重県沖で座礁、沈没しました。
 白瀬の方は南極探検の資金が後援会によって使い込まれていることが発覚し、その後は借金返済の為に家財を売却、講演会によって得た収入で借金を返す日々でした。
 その後は戦後の昭和31(1956)年の第1次南極地域観測隊まで、南極探検は行われなかったようです。現代の南極観測船しらせは、白瀬の名ではなく、白瀬にちなんで名づけられた白瀬海岸から来ています。
 なお、南極の平和利用、領土権の凍結等の協定、いわゆる南極条約は昭和35(1960)年であり、それまでは南極に探検隊を派遣した国々が勝手に領有権を主張しているような有様でした。

白系ロシア人、革命の亡命者

 大正6(1917)年に始まったロシア革命は革命軍、赤軍の勝利でソビエトを成立させましたが、それによって故国を追われた白軍、元ロシア帝国の人々は日本との同盟を頼りに亡命した者が多くいました。いわゆる白系ロシア人と呼ばれる人々で、野球選手のスタルヒンや、今でも製菓で有名なモロゾフなどが居ます。
 この中には貴族階級であったものも含まれていました。共産党指導部は皇帝一家を処刑したとしていますが、シベリアに満州国のような傀儡国家を作るために皇帝の血筋であるアナスタシアを日本に匿っていた、という噂がまことしやかに囁かれたと言われています(が、ロシア革命後、ロマノフ王朝の末を名乗る人間が多く現れていることもあり、ただの都市伝説の類ですが)。

 古来より日本には氷を食べる文化があったようですが、保存、輸送の手間などから超高級品で、上流の貴族、皇族や、有力な戦国大名などぐらいしか口にできませんでした。
 製氷、保存、輸送の技術は幕末までもほとんど発達せず、古来の氷室で保存、輸送するものは相変わらず超高級品であった為、横浜開港後、B&B(バージェス&バーディック)商会がボストンの天然氷を輸入、販売していました(当時、まだスエズ運河は開通しておらず、なんと南アメリカをぐるっと回って来るもので、こちらも高級品ですが)。
 ところが明治2(1869)年にスエズ運河の開通したことで輸送コストが下がるとともに、中川嘉兵衛がこの氷ビジネスに目を付けて、国内の各地から氷を運ばせ、最終的に函館の五稜郭から横浜へ明治5年に搬送に成功、これにより庶民に手が出るほどに値段が下がりました。
 明治16年には東京製氷会社が輸入された製氷機での製氷工場の稼働を開始、人造氷と天然氷のと熾烈な価格競争が始まり、さらに値段が下がります(ちなみに、函館の氷は『龍紋氷』などと呼ばれてブランド化しており、人造氷の2倍の値段がした、と言われています)。
 また、コレラが流行したことにより天然氷ではなく人造氷を推奨する動きもあり、人造氷が一般化します。
 明治20年代にもなると、秩父山の氷の輸送、人造氷の増加によってさらに値段が下がり、氷一貫目の卸値がもりそば一枚と現代まであまり変わらなくなったと言います(明治20年、かけもりそばが1枚1銭)。
 明治25年頃にかき氷を食べようと思ったら1銭、シロップを掛けて2銭ぐらいであった為、多少高くはありましたが十分に庶民の手に届く値段にまで下がっていました。つまり、明治後期には「夏場は氷」はごく普通だったようです。

帝都の上水

 江戸期には、神田上水と玉川上水が水を供給していました。
 明治に入ってもこれは変わりませんでしたが、明治3(1870)年に玉川上水に通船許可が出て水質が悪化します。
 明治21年に『東京水道改良計画』が始まり、同25年から中島鋭治の設計による淀橋浄水場(新宿)の建設が開始されました。
 淀橋浄水場は明治31年に竣工、給水を開始します。明治32年には市内の多くに及び、四谷、赤坂、麻布、芝、麹町、牛込、小石川、本郷、神田、日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川まで給水されました。これにともない、明治34年に旧上水は廃止されます。
 震災後、新宿の発展ともに浄水場が邪魔になった為、昭和8(1933)年に移転が要請されるものの、戦後の昭和35年に東村山浄水場の完成までそのままでした。

帝都の下水

 下水道は江戸期から存在し、埋下水という名で、地下に敷設されていました。
 明治5(1872)年の銀座大火後、再建された煉瓦街は、側溝に蓋、ではなく下水は暗渠が作られていました。ただ、裏通りは側溝だったようです。
(にも関わらず、煉瓦街にはなんと便所も台所なかった(!)らしかった為、後から台所と共同便所が増設されたと言われています)
 明治15年のコレラの流行にともなって、神田に下水を敷設されましたが利用する側への周知が足りなかったか、そもそも必要性を感じなかったか接続される家が少なかった言われています。
 明治33年(1900)の「下水道法」が「汚物除去法」とともに公布され、不衛生な状態の改善を行おうとしました(し尿処理は「汚物除去法」で規定されました)。
 明治41年から「東京市下水道設計」を開始、大正2(1913)年に第二区、浅草区千束町、下谷区龍泉寺町で工事開始、三河島汚水処分工場も大正3年に着工しました。実際の下水処理が始まったのは大正11年です。
 都心部の丸の内、日本橋、芝、神田は大正10年からとなります。
 震災で一時中断を余儀なくされましたが、東京市周辺で下水道敷設計画は始まり、昭和11(1936)年のいわゆる大東京化によって東京市に計画が引き継がれましたが、結局、終戦後どころか、昭和35(1960)年の東京オリンピックまで敷設が進むことはありませんでした。
 当時、水洗便所はあまり普及していませんでしたが、水槽便所(今でいう浄化槽便所)は存在しました。

幻の東京オリンピック

 戦前、日本は昭和6(1931)年からオリンピックの誘致運動を開始、同7年に開催地に立候補、昭和11年に正式に第十二回の会場に東京が決定され、昭和15年に開催を予定していました。
 昭和12年には第十二回東京オリンピック大会組織委員会が組織されて本格的に準備が開始され、このときに記念グッズなどもすでに販売をしていました。
 しかし、昭和12年、日中戦争勃発によって開催を辞退、幻のオリンピックとなりました。