政治・経済・軍人

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『大正の人々 政治・経済・軍人』目次:
 大正時代の、あるいは『東京』に関わった政治、経済、軍事の人物達を紹介します。
 明治期、昭和初期の人物も紹介されていますが、大正期を中心とした人物紹介だと思ってください。
 森鴎外に代表されるような複数の分野にまたがる人物については、筆者の趣味で分類しています。ご了承ください。
 なお、ほとんどが国内の人物であるため、あるいは海外の、あるいは神話に関連する人物などはルールブックを参照してください。

明治天皇

 嘉永5(1852)年~明治45(1912)年。
 孝明天皇の第二皇子で、京都で生まれています。諱を睦仁、幼称は祐宮と言いました。
 万延元年に立太子され、慶応2年に孝明天皇の崩御によって、翌年に践祚しました。同年に「五か条の誓文」を発布、 また明治に改元し、一世一元制としました。
 明治2年に再度の東京に行幸し、これが事実上の東京遷都となっています(しかし、実際には遷都の宣言は現在までも 出ていません)。
 王政復古後、軍人勅諭、大日本帝国憲法発布、皇室典範の制定、教育勅語の発布など、絶対主義的天皇制国家の完成へと向かいました。
 また、対外的には日清、日露戦争や、韓国併合などにより大陸侵略の基礎を固めています。
 歌人としても知られており、9万3032首の詠作を残しています。

大正天皇

 明治12(1879)年~大正15(1926)年。
 明治天皇の第三皇子で、称号は明宮(はるのみや)、諱は嘉仁です。
 父天皇の外祖父の中山忠能邸で養育され、土方久元、佐々木高行らの教育を受けました。
 明治22年に立太子後、同33年に九条節子(貞明皇后)と結婚し、同40年に皇室初の皇太子外遊として韓国を訪問しています。
 同45年に明治天皇崩御により皇位を継承し、大正と改元しました。
 皇位を継承時は若々しく、開明的な君主のイメージがあり国内の御幸も多くありましたが、大正中期から病気がちとなり、正10年に皇太子裕仁(昭和天皇)を摂政に任じています。

昭和天皇

 明治34(1901)年~昭和64(1989)年。
 大正天皇の第一皇子で、幼称は迪宮で、大正5年に立太子されています。
 大正10年にヨーロッパに外遊し、同年に摂政となっています。同15年の大正天皇崩御後、皇位を継承し、昭和に改元しました。
 昭和3年の張作霖爆殺に際しては田中内閣を総辞職に踏み切らせ、同11年の2・26事件では陸軍少壮将校の鎮圧を命じました。
 昭和13年頃に近衛文麻呂首相の進言に従い、蒋介石政権との講話を拒否し、戦争の継続を支持、同16年には英米両国に戦線の詔書、同20年にポツダム宣言受諾の詔書をラジオ放送しました。
 戦後、新憲法により「国民統合の象徴」とされ、政治から離れましたが、全国行幸を行っています。
 また、生物学に造詣が深く、『那須の植物』、『相模湾産後鰓類図譜』等を著しています。

吉野作造

 よしの・さくぞう、明治11(1878)年~昭和8(1933)年。
 宮城生まれ、帝大を卒業後、袁世凱の息子の家庭教師として清国へ招かれ、帰国後明治42年に帝大助教授に採用され、 さらにその翌年に渡欧、帰国後に教授となりました。
 主に「中央公論」に大正デモクラシーの理論的基礎をなす緒論分を発表した、大正デモクラシーの先駆者であり、「民本主義」という考え方で政治の民主化を図ろうとしました。

桂太郎

 かつら・たろう、弘化4(1847)年~大正2(1913)年。
 明治期の陸軍軍人、政治家で、公爵です。戊辰戦争に従軍し、維新後はドイツに留学しました。
 ドイツ駐在武官、参謀本部管西局長を経て、明治19年に陸軍次官となり、軍改革を推進しました。
 同29年に台湾総督、また様々な内閣の陸相となり、同31年には大将となっています。同34年に日露戦争を遂行し、同41年には第二次内閣を組織して社会主義運動を弾圧、韓国の併合を行いました。
 大正元年に第三次内閣を組織しましたが、憲政擁護運動により、翌年に総辞職しました。

大隈重信

 おおくま・しげのぶ、天保9(1838)~大正11(1922)年。
 佐賀藩士で、蘭学、英学を学び、幕末には尊攘派として活躍しました。
 維新後は、侯爵となり、徴士参与職、外国事務局判事、民部大輔などを努め、明治3年には参議、同6年に大蔵卿となります。
 以後、様々な内閣の外相、内相などを歴任し、明治31年に初めての政党内閣を組織しますが、これはわずか4ヶ月で解散します。
 その後、大正3-5年に第二次組閣し、対独宣戦布告、対華二十一か条要求などを行いました。

原敬

 はら・たかし、安政3(1856)年~大正10(1921)年。
 盛岡の出身で、苦学して明治12年に郵便報知新聞社の記者となりましたが、官界入りし、天津領事、パリ公使官書記官を務めます。
 同30年に官界を退き、大阪毎日新聞社の社長となり、関西財界に勢力を持つようになります。
 さらに同33年に立憲政友会の創立に参加し幹事長となり、同35年に衆議院議員となり、以後、その死まで当選を続けます。
 様々な内閣の逓信相、内相を経て、大正2年に政友会の第三代総裁となり、米騒動で倒れた寺内内閣に替わって組閣、平民宰相として日本初の本格的政党内閣を実現しました。
 しかし、普選運動、社会運動を弾圧し、シベリア出兵を継続するなどで経済恐慌を招きました。また、その政権末期には政党政治の腐敗ぶりを示す事件が頻発し、大正10年に皇太子に洋行を勧めたことに憤った右翼の青年に、東京駅頭で刺殺されました。

秋山定輔

 あきやま・ていすけ、慶応4(1868)年~昭和25(1950)年。
 備中倉敷に生まれ、東京大学卒業後、会計検査院に入ります。
 その後、明治26(1893)年に『二六新報』を創刊し、労働者懇親会、娼妓解放等の運動を展開しました(『二六新報』は、明治34(1901)年、日本最初のメーデー集会ともいうべき労働者大懇親会を主催したことでも有名です)。
 同35年には衆議院議員となりますが、翌々年、日露戦争時に露探(ロシアのスパイ)問題で辞任、その後は日露講和条約反対の日比谷焼打事件に関係したり、労働運動の支援を行うなどし、また桜田倶楽部を主宰し中国革命を資金面で援助しました。
 大正期には桂太郎の立憲同士会結成を工作するなど、以後組閣工作等の黒子(黒幕?)として活躍します。また、日中戦争では和平工作を行うも失敗しました。

甘粕正彦

 あまかす・まさひこ、明治24(1891)年~昭和20(1945)年。
 仙台の両親とも士族の生まれで、父は警部でした。明治38(1905)年に名古屋幼年学校に入学、大杉栄の6年後輩にあたります。
 三重県津中学、陸軍士官学校を経て、大正元(1912)年に少尉として陸軍に任官します。その後、大正4年に陸軍戸山学校に入学、ここで事故(落馬とも、鉄棒からの落下とも)で膝関節炎症となった為、退任しようとしたところ、彼の才能を惜しんだ所属の連隊長に憲兵になれと言われました。
 悩んだ末、転科を決意した甘粕は新たに憲兵としての道を歩むことになります。大正6年に彼は朝鮮京畿道揚州憲兵分隊長となりました。
 この時期、ロシア革命の影響や、日韓併合からの独立運動と朝鮮の各地での独立運動が盛んになっており、銃火をもって鎮圧を図ることも珍しくなかったのですが、甘粕の担当の揚州は大きな事件もなく平穏であったと言われています。これは彼が着任時から現地人と接触に努め、独立運動に関わる人びとを説得していた結果だと言われています。この功績により甘粕は朝鮮憲兵司令官石光眞臣中将の副官に抜擢されました。
 大正9(1920)年に東京に戻り、憲兵練習所を経て翌年に大尉に昇進、千葉県市川憲兵分隊長となります。当時頻発していた労働争議などの調停を行い、大正11年に東京市の渋谷分隊長に任ぜられました。続いて大正12年には麹町憲兵隊長も兼任を目地られ、憲兵司令部、憲兵隊本部と同居して、皇居前の辺りに駐屯していました。
 この時期はシベリア出兵の悪評、批判が軍部内からもあり、いわゆる「アカ」の思想に染まるものも少なくなかった為に、日頃から憲兵隊は新兵の思想調査など多忙を極めてた時期でもあります。
 そして、関東大震災が発生します。果たして甘粕本人の独断だったのか、憲兵隊幹部の命令であったのかは定かではありませんでしたが、無政府主義者大杉栄夫妻らが殺害される、甘粕事件が引き起こされます。
 甘粕事件の詳細については省略します。
 この事件により甘粕は懲役10年の判決をい言わされましたが、大正15年10月に仮出所し、世間を騒がせましたがこれ以降、甘粕の名が新聞等に載ることはほとんどなくなります。
 昭和2年に陸軍の機密費で渡仏、4年に帰国した後、同年中に渡満、奉天に居を構えることになります。以降、関東軍の裏の協力者として表に出ず、満州国建国の為の様々な工作、謀略、溥儀の護衛の任をになったと言われています。
 満州国民政部警務司長、協和会中央本部総務部長などを歴任し、昭和14(1939)年には満州映画協会理事長となり、国策映画を作り続けました。
 終戦時、新京の満映理事長室に服毒自殺をしました。
 辞世の句は、「大博打、みぐるみぬいですってんてん」。

大杉栄

 おおすぎ・さかえ、明治18(1885)年~大正12(1923)年。
 大正期で最も有名なアナーキストです。
 東京外国語学校に在学中から平民社に出入りし、直接行動論者として頭角を現します。明治41年の赤旗事件で入獄したため、大逆事件の検挙を免れました。
 大正元年に荒畑寒村と「近代思想」を発刊し、進化論、労働運動、無政府主義に関する論文を執筆しました。
 ロシア革命後、大正9年に上海に赴きコミンテルンと接触して、自らが主宰する労働運動は一時アナ=ボル提携を打ち出しましたが、やがてボルシェビズム批判に転じました。
 同12年パリのメーデーで演説を行い、国外追放処分となっています。帰国後、震災の混乱の中で甘粕正彦らに伊藤野枝、橘宗一と共に虐殺されました。

金子文子

 かねこ・ふみこ、明治36(1903)年~大正15(1926)年。
 横浜に生まれ、不遇な幼少時代を送ります。上京して新聞の売り子、女中、行商などをしながら夜学に学びます。
 貧困と差別の中で、社会主義者や無政府主義者、朝鮮人学生らと交流し、その中で日本帝国を憎悪する朝鮮人朴烈に大正11年に出会い、不逞社を結成し、機関誌の発行などを行いました。
 震災後に不逞社の取締が行われ、検挙されます。第二の大逆事件とも呼ばれる「朴烈事件」で死刑の判決が下りますが、恩赦により無期懲役となります。しかし、大正15年に収監先の栃木女子刑務所で看守の隙を見て自ら命を絶ちました。

渋沢栄一

 しぶさわ・えいいち、天保11(1840)年~昭和6(1931)年。
 明治、大正期の東京を代表する実業家であり、子爵です。
 慶応3年に徳川昭武について渡欧、パリ万博などに赴き、西欧の近代的産業設備や経済制度を学び、明治元年に帰国しました。
 帰国後は、静岡に合本組織(株式会社の先駆)商法会所を設立、さらに明治2年に大蔵省に出仕、租税正となり、明治5年大蔵大丞となった翌年に辞職、第一国立銀行を設立しました。また、その他に王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯、日本鉄道などの多数の会社を設立、経営しました。
 また、東京改造計画にも参画し、その主導であったとも言われています。
 父は武蔵国榛沢の郷士で、父から『論語』を学び終生の指針としました。そのためか、怪異や神秘に対しては「怪力乱神を語らず」の姿勢を通しました。

織田完之

 おだ・のぶひろ/かんし、天保13(1842)年~大正11(1923)年。
 三河国の豪農に生まれ、勤王派に加わり、桂小五郎や高杉晋作らと交友しましたが、維新後は明治政府の農商務省の官吏となり農業、干拓事業を担当し、とりわけ印旛沼の治水工事には力を入れていました。
 明治25年に引退し、碑文協会を設立、以来、二宮尊徳、佐藤信淵の思想の体系的紹介に尽力しました。
 また、日本最初の農業史書である『大日本農史』(明治24年)を著しました。

大河内正敏

 おおこうち・まさとし、明治11(1878)~昭和28(1952)年
 理研の所長、子爵、東京帝大教授と様々な方面で活躍した科学者であり、経営者です。
 明治36(1903)年に東京帝国大学造兵学科を卒業し、欧州に留学後、明治44(1911)年には東京帝国大学の造兵学科の初代教授に就任し、同学の近代化に努めました。
 帝大では寺田寅彦以上の天才と謳われ、共同で物理学の実験も手掛けました。
 理化学研究所、理研は大正6年に民間の研究所として設立されました(民間、とは言いますが、大正天皇からの恩賜金、政府、および業界からの補助金が出ていましたが)。大正10(1921)年、理研は経営難に加えて物理学部と化学部の内部対立によって破綻の危機にありました。
 正敏が理研の所長に登用され、研究室ごとに運営(予算、人事)の裁量を与える研究室制度を導入します。これによって理研は「科学者の楽園」と言われるほどに成功します。
 正敏が所長の時代に理研は大いに発展し、理研産業団体、後の理研コンツェルンを生み出します。最盛期の昭和14(1939)年には63社、121工場を持ちました。この理研コンツェルンの中心だったのが正敏自身が設立した理化学興業株式会社でした。理研コンツェルンは利益の一部を還元するという方法で研究所を再建、成長させ、百五十人余の博士を輩出しました。
 戦後、理研コンツェルンは解体されて、正敏も公職追放の憂き目に遭います。

 優れた研究者であり、経営者であった正敏ですが、一方で狩猟を好み、美食家で、絵画や陶芸をたしなみ、そちらの方面でも著作まで発表しています。
 身長180Cm、美丈夫の誉れ高く、人柄も名家の出に相応しく寛大であったと言われています。

早川徳次

 はやかわ・のりつぐ、明治14(1881)年~昭和17(1942)年。
 山梨に生まれ、早大を卒業後、満鉄、鉄道員勤務の後に、高野山登山鉄道支配人となり、同鉄道を再建しました。
 大正9年に東京地下鉄道を創立して常務に就任し、昭和2年に上野-浅草間に日本初の地下鉄を開通、さらに同9年に新橋-浅草間を全通させ、日本の地下鉄の先駆者となりました。

明石元二郎

 あかし・もとじろう、元治元(1864)年~大正8(1919)年。
 福岡藩士の子で、陸軍幼年学校から、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業しています。
 さらにドイツ留学後、近衛師団参謀として台湾に出征しました。
 駐ロシア公使館付き武官のときにロシア革命が勃発、革命派と接触して諜報活動、扇動を行いました。俗に言う「明石工作」なるものです。
 この工作は奉天会戦、日本海海戦に並んで日本を日露戦争の勝利に導いたと言われるほどのもので、明治当時の山県有朋元首相をして、「明石は恐ろしい男だ」と言わしめました(但し、当時の日本軍は諜報活動などに重点を置いておらず、軍人などは「君の業績は数個師団に相当する」と戦後に先輩から言われた程度の認識だったようです。まあ、それでも人一人の活動が数個師団に匹敵する、というのもすごい評価ですが)。
   明治43年に韓国駐さつ(答にリ)憲兵隊司令官となり韓国の憲兵政治に尽力し、さらに大正4年に第六師団長、7年に台湾総督に赴任、在任中の大正8年に台湾から日本への渡航中に没しています。
 公私において清廉潔白な人物であったと言われており、様々なエピソードを残しています(半ば神話化されてる感も否めませんが、それほどに周到たる人物であった、と言われています)。

カール・ハウスホーファー

 1869年~1946年。
 ミュンヘンに生まれ、1889年に陸軍の将官として印度、東アジア、シベリアを旅行し、明治42年から約2年の間日本に滞在しました。
 日本において「緑龍」なる結社に入会したと言われています。
 地政学(ゲオポリティーク)を戦争の科学に高め、初期ナチズムの神秘的な教養を形成する陰の参謀となりました。
 1921年に軍退役後は、ミュンヘン大学教授、ドイツ・アカデミー会長及び、ヒトラーの外交顧問を務めましたが、敗戦後に割腹自殺を遂げています。

後藤新平

 ごとう・しんぺい、安政4(1857)年~昭和4(1929)年。
 明治大正期の政治家で、伯爵です。
 明治36年に貴族院議員、同39年に満鉄の初代総裁に就任しています。また、第二次・三次桂内閣の逓信相、寺内内閣の内相、外相を歴任し、この間、鉄道院総裁を兼任しています。
 対外積極策を唱え、中国の経済分割、そして東亜経済同盟を構想し、シベリア出兵を強行しました。
 大正9年に東京市長、同12年に第二次山本内閣内相となり、帝都復興院総裁を兼ねて関東大震災後の帝都復興に尽力しました。

佐藤信淵

 さとう・のぶひろ、明和6(1796)年~嘉永3(1850)年。
 江戸後期の経済学者であり、鉱山技術家、農家、そして兵法家であったと自称しました。
 ユートピアを目指し、将門公ゆかりの印旛沼をはじめ内洋全てを干拓し生産性の向上を求めた人物です。
 各地を遊歴し美作、薩摩、阿波などで藩主に経世の策を献じたと言われています。
 著述に専念し、『経済要録』、『農政本論』、『復古法慨言』などを著しましたが、中でも『宇内混同秘策』は、平田篤胤の国学、神道の影響を受けて独特の日本中心主義の世界哲学を構築し、全世界を征服するための青写真を描いた一大奇書で、この中に「東京」という名称が初めて用いられたされています。

張作霖

 ちょう・さくりん、ちゃん・つおりん(Zhang Zuolin)、同治12(1875)年~民国17(1928)年。
 奉天軍閥政治家。まさに乱世の梟雄とも言える人物です。
 遼寧省海城県に生まれ、16歳で家を飛び出し、隣県の吉林省へ渡り馬賊に身を投じます。当時の吉林省と言えば田舎も田舎、治安も悪く非合法組織が多く存在し、その中で張作霖は頭角を現し、馬賊の頭目となります。
 東三省(現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省)で明治37(1904)年の日露戦争の際には最初はロシア側についてスパイ活動を行っていましたが、日本軍に捕縛されます。しかし、助命され(この時、後に首相にもなる田中義一(当時少佐)と関係ができます)、以降は日本軍のスパイとして逆にロシア側へスパイ活動を行います。
 戦後、清朝に帰順、その名声からさらに馬賊を集めて勢力を拡大しました。さらにその後。袁世凱の知遇を得て、辛亥革命、袁世凱の失脚を経て、「東三省巡閲史」となり、事実上の「満州」の支配者となります。
 「満州」掌握後は、中央へ進出を図り、安直戦争(1920年)、奉直戦争(1922年)と軍閥戦争を引き起こし、ついに第二次奉直戦争(1924年)により北京を占拠しました。
 しかし、直後に国民革命軍が「反軍閥」の「北伐」と称して華北への侵攻を開始、これに対し張作霖は「反共討赤」を掲げた為、欧米の友好的な扱いを受け、それに追随する動きを見せました。
 国民革命軍を一旦退けると、蒋介石の南京国民政府に対抗して北京に安国軍政府を樹立、自ら「中華民国陸海軍大元帥」を称して、自らが中華民国の主権者であると宣言しました。
 1927年に北伐が再開され、国民革命軍に敗れると、ひそかに北京を脱出しました。しかし、満州国建国の計画していた関東軍にとって彼は邪魔者でしかなく、奉天近くの皇姑屯で列車ごと爆殺されました。

小野寺信

 おのでら・まこと、明治30(1897)~昭和62(1987)年
 開戦時は中佐、ウェーデン駐在武官でストックホルムに赴任していました。最終的には昭和18(1943)年に少将にまで昇進しています。
 諜報の神様とまで呼ばれて、欧州の情報を日本へ送りました(ほとんどが無視されるか、都合の良い解釈をされたようです)。
 小野寺は多額の機密費をもって周辺国、ソ連の侵攻を受けた国の同業、情報士官たちと親しく交際し、生活の面倒まで見ました。これによって、独ソ戦の情報を広く得て、「日米開戦絶対不可なり」と本国へ送信していました。
 これに対して、在独大使の大島浩はドイツにとって不利な情報は伝えられず、「ドイツ有利、ソ連攻略は間違いなし」と、伝えられた情報をそのまま本国へ連絡しました。
 この矛盾する情報は大して精査もされず、小野寺の貴重な情報は無視されて、対米開戦に踏み切ったと言われています。
 小野寺はドイツ降伏後、ヤルタ会談での内容(ソ連が日ソ中立条約の破棄、対日参戦)も掴み、これをやはり本国に伝えましたが、相変わらず無視されてソ連の和平仲介を未だに期待する状態でした。
 終戦後、昭和21年に帰国、巣鴨プリズンに拘留されたり、公職追放を受けました。
 その後はスウェーデン語の翻訳業や、スウェーデンの文化の紹介などを行いました。

川島芳子

 かわしま・よしこ、光緒33(1907)~昭和23(1948)年
「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」などと呼ばれた、大陸で諜報活動を行ったとされています。
 本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら・けんし)で清朝の皇族として生まれて、日本人の川島浪速の養女となり、川島芳子という日本名が付けられました。
 17歳のときに自殺未遂を起こし、以降、断髪して「女を捨てた」と宣言して「男装の麗人」と呼ばれるようになります。清朝の皇室出身という看板からこの出来事は報道されて、ちょっとした断髪ブームのようなものを起こしたとも言われています。
 清朝再興を目指してたと考えられており、昭和5(1930)年に上海に渡り、上海駐在武官の田中隆吉と知り合い、田中の諜報活動を手助けするようになったと言われています。
 昭和6(1931)年の満州事変後、天津で清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の皇后、婉容の脱出を手助けしたと言われています。その後は関東軍にも関わって諜報活動を行い、上海事変にも関係していたと言われています(どこまで本当か分かりませんが)。
 昭和9(1934)年には安国軍(熱河自警団)の総司令となり軍服を着た姿が報道されて、「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになりました(実際はただの看板で、前線にすら出ていなかったと言われています)。昭和7(1932)年に芳子をモデルとした村松梢風の『男装の麗人』が『婦人公論』で連載されたこともあって、その人気は高まりしました(ラジオ番組に出演した余興で歌った歌が好評で、レコードも出したほどです)。
 昭和10(1935)年頃から関東軍の行いを批判するようになったため、報道で取り上げられることが激減し、急速に忘れ去られて行きました。
 この後、日本軍が天津を占領すると『東興楼』という料亭を経営、以降は日本軍にも協力せず、報道で触れられることもなく終戦を迎えます。
 昭和20(1945)年の敗戦後は各地で潜伏生活を送っていましたが、10月に北平で中国国民党軍に逮捕、漢奸として追訴されて昭和23年に銃殺刑となりました。

李香蘭

 り・こうらん(り・しゃんらん/Li Xianglan)、大正9(1920)~平成26(2014)年
 本名は山口淑子(やまぐち・よしこ)で、戦前、戦後とも歌手、女優、戦後は政治家としても活躍しました。
 山口淑子は満州の奉天で生まました。
 父親の方針で淑子は北京語の教育も受けて、現地の中国人と変わらぬ言語能力を身に付けました。
 昭和8(1933)年、13歳の女学生の時分に歌手としてデビュー、このとき中国人として『李香蘭』を名乗ります(家族ぐるみで親交のあった中国人李際春の義理の娘となったため、『李香蘭』の名をもらったと言います)。歌手としては『夜来香』『何日君再来』などが有名です。
 昭和13(1938)年に満州映画協会から女優としてもデビューします。その看板女優として活躍し、『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』など大ヒットしたと言います。
 淑子は満州国と日本軍が掲げた『五族協和』の象徴する存在として、プロパガンダに利用されます。女優として出演した映画の多くは「日本人を慕う中国人」として描かれ、反日感情を抑えるとともに、満州国の存在を広める役割と意図がありました。
 淑子はもう一人の芳子、川島芳子と天津で親交があったと言われています。川島芳子を「お兄ちゃん」と呼び、淑子は「ヨコちゃん」と呼んで可愛がられました。しかし、川島芳子が政治的に危うい立場になるとともに親交も薄れ、会うことも少なくなったと言います。
 戦後、李香蘭として漢奸罪に問われますが、両親とも日本人であることが証明され、無罪となり帰国することができました。
 帰国後は山口淑子として芸能界へ復帰、ハリウッドにも進出したり、テレビへの出演、参議院議員を務めるなど、芸能界だけでなく政界でも活動しました。