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精神医学、精神病院、精神病に対する治療など

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 大正期における精神医療や、探索者が入院すべき病院(!)、あるいはそこで行われている治療行為などです。
 治療行為の詳細に関しては、「悲惨であった」などの一文が多いため、実際の治療に効果があったかどうかは疑問です。

■大正時代の精神医療 項目一覧
■明治期の精神医療
■大正期の精神医療
■帝都の精神病院
■相馬事件
■精神病者監護法
■精神病院法
■芦原将軍
■あるいはさらに古い精神医療

■明治期の精神医療
 明治期、日本では「富国強兵」「文明開化」のスローガンの下、西欧化が推し進められました。
 このとき、西欧の精神医学も様々な文化とともに輸入されました。
 精神医学に限らず、明治期における近代医学、医療は西欧におけるそれとは異なり、当初より軍陣医学によって主導されていました。
 事実、明治期における主導的立場の医師のほとんどは軍医であるか、軍医として招かれた西欧人医師から指導を受けた者がほとんどでした。
 しかし、日本で最初と言われている京都府癲狂院は公立であったのは、後の文部大臣であった森有礼(もり・ありのり、1847〜89)がアメリカの精神病院改革者ドロシア・L・ディックス(DorothaLyndeDix、1802〜89)と交流があったためであるといわれています。
 明治8年(1875)に初めての公立の精神病院、京都府癲狂院が開設されましたが経営の破綻などから明治15年に早くも閉鎖されました。京都府癲狂院に次いで明治12年(1879)に開設された東京府癲狂院は、巣鴨病院を経て、松沢病院として現在に至っています。
 公立の精神病院(明治期では癲狂院)がわずかにこの二院に留まるのに対して、私立の病院は明治11年(1878)に加藤瘋癲院をはじめ、翌年に根岸病院(開設当初は癲狂病院)、明治17年に岩倉癲狂院と明治30年頃までに次々と建設されます。
 明治17年(1884)から28年にかけて相馬事件が起こり、事件でのマスコミの騒ぎは海外、欧米各国にも報道され、折りしも不平等条約改正に躍起になっていた政府を動かすこととなり、明治33年(1900)に「精神病者監護法」が発布されました。
 また、明治35年(1902)には、精神病者に温かい目を注ぐという趣旨で「精神病者慈善救治会」が設立され、大正期には積極的に活動しましたが昭和に入るとともにその活動は低調となります。
 明治42年(1909)の政府の調査では、精神病患者数2万5千に対し病床はわずか2千5百に過ぎず私宅監置も3千人(これはあくまで政府の調査であるために、実際の精神病患者は10数万と言われています)であるという実態が明らかになりました。
 このため明治44年、「官公立精神病院設置に関する建議案」が可決されましたが、日露戦争(1904)、日韓併合(1910)、第一次世界大戦(1914)と世情の混乱にまぎれ精神病院の設置はまったく進みませんでした。
 明治初期に設置された東京府癲狂院では、鎖、手錠、足錠、保護衣などを用いて患者を拘束し、自殺者も多く、また、男女の区別のない病室に、素行に問題のある看護人、食事の世話以外、入浴と掃除は週一回という陰惨な状況でした。
 その後、巣鴨病院に改称され、明治22年(1889)に院長として就任した榊俶(さかき・はじめ)は、不拘束、開放を掲げ、患者を自由に室外散策をさせましたが、危険行為や合併症治療時には「脅迫法」を用いました。また前進鎮痛剤と催眠薬も用いられていました。

■大正期の精神医療
 大正期に入っても精神病院の設置は遅々とし進まず、対外戦争などの世情の不安などから精神病院の絶対的な不足という問題はますます大きくなりました。
 大正5年(1916)に内務省内に保健衛生調査会が設置され、翌年に精神障害者の一斉調査が行われました。
 その結果、精神病者総数は約6万5千、そのうち入院中のものはわずかに5千程度に過ぎないこと、そして精神病院などの施設が大都市に偏在し、収容施設を持たない県が28県も存在することがあきらかになりました。
 また、大正7年には呉秀三、樫田により「精神病者私宅監置の実況」が出版されました。これは明治43年(1910)から大正5年までの間、1府14県に教室員などを派遣して私宅監置の実情を調査した報告書です。
 これによって医師の治療も受けないまま、動物小屋のような檻に裸同然で隔離されている悲惨な私宅監置の事例が、写真などで数多く紹介されました。
 大正8年(1919)に保健衛生調査会や、日本神経医学会などの働きかけもあり、「精神病院法」が成立します。
 しかしこれは公立の精神病院の不足を私立のもので補おうというお粗末なものでした。
 大正期には様々な精神病院が開設されますが、末期の三つが公立である以外はほとんどが私立のものです。
   大正末期から海外などで様々な身体治療法が発見され、数年遅れで日本にも導入されていました。持続浴(潅水法)、マラリア療法、持続睡眠療法、駆梅療法などが用いられ、大正15年から昭和5年には進行麻痺に対するマラリア発熱治療の追試結果が相次いで発表されました。
 また、大正期から作業療法などを行う精神病院も出てきます。
 精神医学として精神分析が導入されたのも大正期のことですが、精神病理学の一つとして、深層心理学としての特徴が強くされていました。そのため、問診法、あるいは直接解釈法ともいうべき方法で、患者の病理を説明しようとするものであったと言われています。
 日本独自の精神療法である森田正馬の「森田療法」も大正10年(1921)に発表されましたが、こちらも一部を除いてまったく問題にされましせんでした。
 しかし、大正8年から大正15年までの7年間の間に124の治療例が報告され、森田療法を行う施設が増加していきました。
 また、精神病に対する薬物治療などは向精神剤などが登場するのは1950年代のことで、明治期では漢方薬や、卵、牛乳などの食物が処方箋として投与されており、大正期でも健胃剤などが中心で、精神病自体にに対する薬物はありませんでが、鎮静剤、抗痙攣剤、持続睡眠剤なども用いられました。

■帝都の精神病院
 帝都には唯一とも言える官公立の精神病院である、巣鴨病院が存在します。
 巣鴨病院は以前は東京府癲狂院として、最初は明治12年(1879)に神田にありましたが、明治14年に本郷区に移転、さらにその後、明治19年に巣鴨へ移転します。
 この後、明治32年に癲狂院の名を嫌った榊らによって東京府巣鴨病院に改められます。
 さらにこの後、大正8年(1919)に東京の外れ、荏原郡松澤村北上澤へ移転し東京府立松澤病院となります(巣鴨病院からの患者の移転が同年11月7日に完了するために、この日を創立記念日とされました)。
 また、私立では根岸病院が下谷区根岸にあり、明治39年(1906)に森田療法で有名な森田正馬が顧問に就任しています。それまで、作業治療などの当時としては先進的な治療が行われていましたが、これによって院内の作業療法は一段と整備されるようになりました。
 また、明治28年(1895)に石川島徒場(いわゆる監獄です)が巣鴨に移転し、巣鴨監獄となり明治37年(1904)に精神病監が付設されました。
 精神病監は文字通り、精神病の犯罪者の鑑定、治療に使われました。この様な精神病監の存在しない監獄では必要に応じて精神科医が呼ばます。
 なお、江戸期の小伝馬町座敷牢は明治8年(1875)に廃止され、市ヶ谷の新獄舎へ移転し、大正末期、大正15年(1926)に八王子に精神異常者医療刑務所が開設されます。

■相馬事件
 廃藩置県により福島県の一部となった旧中村藩の家督相続人、相馬誠胤(そうま・ともたね、1852〜1892)は、25歳の頃より幻覚、妄想などを訴えるようになり、明治17年(1884)に加藤瘋癲院に入院しました
 当時、福島には精神病院などはなく、誠胤もそれ以前座敷牢に私宅監置されていました。そのときからすでに、自らを忠臣と名乗る錦織剛清(にしごり・たけきよ)は、誠胤を精神病にしたのは、お家乗っ取りを企む家令の志賀道直の陰謀である考えており、加藤瘋癲院に移された後も、病院側に執拗な面会、退院要求を行い、応じないと脅迫状などを出したために、院長は恐怖を抱き誠胤を巣鴨病院に移転させてしまいました。
 これにより、ますます不信を募らせた錦織は、ある夜入院中の誠胤を病院からさらって姿をくらますという挙に出ます。
 この事件は当時のマスコミにとって、精神病院の不祥事を喧伝する絶好のスキャンダルとなり、錦織も「癲狂院はなにをやっているのか、大切な家督相続人をあろうことか精神病に仕立てて病院に閉じ込めるとは何事か。これでは都合の悪い人間は誰であっても癲狂院に監禁されるではないか」と世論に訴え、新聞なども「世紀の大暗黒界・癲狂院」などという派手な見出しを掲げ、大いに騒ぎ立てました。
 またこれらは芝居などの格好のテーマとなり、「相馬騒動見立鏡」と題され、市川団十郎らによって演じられたりしました。
 この後、誠胤は一旦退院したものの、明治25年(1892)に尿崩症(あるいは原因不明の吐血とも)で死亡しましたが、錦織がこれを毒殺として、家令の志賀だけではなく、巣鴨病院に入院させた前院長の中井をはじめ、院長兼東大精神科教授の榊など合計26人も告訴しました。
 裁判では原告側の錦織に、当時の内務省衛星局長であった後藤新平などが同調したため、マスコミもまた「相馬疑獄」などと騒ぎ立て、埋葬された誠胤の遺体を発掘して検査するという事態にまで発展していきました。
 当時、錦織の著者『闇の世の中』が広く読まれ、錦織に味方する者も多くみられたのも事実です。
 しかし、結局は原告の敗訴、その上、明治27年(1894)の最終判決では錦織が逆に誣告罪で懲役4年、罰金40円、そのほかは無罪となています。

■精神病者監護法
 明治33年(1900)に施行された精神病者監護法は全23条からなり、要点をまとめると以下の通りです。

  1. 精神病者の監護義務者を定め、その義務を負わせる。
  2. 監護義務者以外の精神病者の監護を禁ずる。
  3. 精神病者の監置には行政庁の許可を必要とする。
  4. 監護義務者がいないか、義務を遂行できない場合、市区町村が義務を負う。
  5. 私宅監置室、精神病院、精神病室の使用は行政庁の許可を必要とする。

 精神病者監護法は精神病者を私宅、病院などに監置する場合に監護義務者は医師の診断書を添えて、警察署を経て地方長官(知事)に願い出、その許可を受けることなどを定めたものです(第一条に「精神病者ハ其ノ後見人配偶者又ハ四親等内ノ親族ニ於イテ之ヲ監護スルノ義務ヲ負フ」、第九条に「公私立精神病院及公私立病院ノ精神病室ハ行政丁ニ許可ヲ受クルニ非サレハ之ヲ使用スルコトヲ得ス」と明記されています)。
 しかし、医療に関しては規定が無く、単に私宅監置を許し、その許可に関する内容だったために、施行後、私宅監置が増えるというありさまでした(もっとも、それ以前の精神病者は入監などの隔離に頼るところが大きかったために、家族とともにある私宅監置の方がまだまし、という意見もありますが)。
 また、精神病院への入院の手続きをすべて警察の管轄下に置かれたため、私立病院ですら実際上は警察、あるいはその上位の組織である内務省の監督下に編入されました。
 実際問題としてこの法律自体が必要に迫られて作られたのではなく、単に当時不平等条約改正のための国内法整備の一環として、その他の雑多案件とともに処理されたものでした。

■精神病院法
 大正6年(1917)における精神病院の総病床数はわずか5000床程度であり、政府の発表である六万人の精神病者に対しても少ないものでした。
 なお、この残った大量の患者は、極少数の富裕な者は私宅か一般病院で治療を受け、それ以外は私宅にて治療を受けずにいるか、あるいは神社仏閣などで民間療法を受けていました。
 大正8年(1919)に、結核予防案、トラホーム予防案などとともに審議され、制定されました。
 この精神病院法においては、政府委員の説明と答弁では、精神病者監置法は監置主義であり、私宅監置は悲惨であるとしながらも、未監置の患者による犯罪が年間150件、なかに放火や殺人もあり、「直訴狂」、「上奏狂」など、公安と危険防止のために精神病院の設立の必要が大であるとしました。
 しかし、実際に公立の精神病院が建てられることはなく、大正14年(1924)に法制定後、初めて鹿児島に精神病院が設立されますが、英国皇太子を迎えるにあたり、精神病問題が恐れられて県立病院が初めて出来たと言われました。
 代わりに、というわけではありませんが、この精神病院法は代用精神病院制度という私立の精神病院であっても一定の基準を満たしている場合、国庫から補助金を給付し、公立と同じ施設とみなす制度が規定されました。
 あまりにお粗末と言えばそれまでですが、一応、これによって精神病院における医療基準が始めて定められたと言えます。
 翌年より、全国に代用精神病院が次々と現れることになり、これが公立の精神病院の不足をよくあらわしています。

■芦原将軍
 明治、大正期の名物的な狂人で、本名は葦原金次郎(あしはら・きんじろう)です。
 嘉永5(1852)年に生まれ、金沢の櫛職人でしたが、若いころから躁的性格であったと言われ、次第に奇行が目立つようになり、1882年に前田侯の馬車に乱暴狼藉を働き、東京府癲狂院に入院させられました。
 以降、東京府癲狂院、巣鴨病院、松沢病院と入院を続け、回復することは無く、昭和12(1937)年、88歳で松沢病院で死去しました。
 躁的誇大妄想であり、自らを葦原将軍と名乗り、さらに後には葦原帝と称して、参観者に勅語を売りつけ、手製の大礼服を着て一緒に記念撮影に入り料金を要求したりしていました。
 あきらかに天皇そのものを模しており、「狂人の沙汰」ながら当時の天皇制タブーや、階級社会を風刺できたこととからか、 ジャーナリズム的人気がありました。
 また、このように報道されていた為、民衆にも人気があったと言われています。

■あるいはさらに古い精神医療
 中世から近代まで、精神治療の場となったのは主に寺院などでした。
 寺院などでの加持祈祷や水垢離などが治療行為であり、これらは近代まで続けらます。
 鎌倉時代以降は高僧のみではなく下級の僧の中にも医学知識を持つものが現れ、庶民の治療に当たっていました。しかし、精神治療の中心は加持祈祷で、その他には薬と灸が用いられていました。
 この加持祈祷中心の治療は江戸中期まで続きますが、日明貿易が盛んな時代には漢書の医学書が流れ込み、漢方薬による治療なども加わります。
 中世では精神病などは憑き物であるとされましたが、江戸期からいわゆる「狂気の医学化」が始まります(実際的な問題として、江戸中期以降の都市部では医師が過剰な状態にあり、新たな医療分野を開拓せざるを得なかったという背景もありますが)。
 同時に蘭学を背景として西欧精神医学の断片が輸入されたこともあります。
 それまでは人間の精神は心臓などの内臓にあるものだとされていましたが、「解体新書」以来、脳と神経がそれを司るものであるとされています。
 江戸期には乱心者が放火などの犯罪を犯した場合は、責任能力を考慮し減刑すべきことなどが「御定書百箇条」に明記されており、乱心者を座敷牢などに収容する場合の手続きなども定められていました。