大正の人々

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 大正時代の、あるいは『東京』に関わった人物、そして帝都物語の人物達を紹介します。
 あるいは、明治期や昭和初期の人物も紹介されていますが、大正期を中心とした人物紹介だと思ってください。
 なお、ほとんどが国内の人物であるため、あるいは海外の、あるいは神話に関連する人物などはルールブックを参照してください。

明治天皇

 嘉永5(1852)年~明治45(1912)年。
 孝明天皇の第二皇子で、京都で生まれています。諱を睦仁、幼称は祐宮と言いました。
 万延元年に立太子され、慶応2年に孝明天皇の崩御によって、翌年に践祚しました。同年に「五か条の誓文」を発布、 また明治に改元し、一世一元制としました。
 明治2年に再度の東京に行幸し、これが事実上の東京遷都となっています(しかし、実際には遷都の宣言は現在までも 出ていません)。
 王政復古後、軍人勅諭、大日本帝国憲法発布、皇室典範の制定、教育勅語の発布など、絶対主義的天皇制国家の完成へと向かいました。
 また、対外的には日清、日露戦争や、韓国併合などにより大陸侵略の基礎を固めています。
 歌人としても知られており、9万3032首の詠作を残しています。

大正天皇

 明治12(1879)年~大正15(1926)年。
 明治天皇の第三皇子で、称号は明宮(はるのみや)、諱は嘉仁です。
 父天皇の外祖父の中山忠能邸で養育され、土方久元、佐々木高行らの教育を受けました。
 明治22年に立太子後、同33年に九条節子(貞明皇后)と結婚し、同40年に皇室初の皇太子外遊として韓国を訪問しています。
 同45年に明治天皇崩御により皇位を継承し、大正と改元しました。
 また、病弱であったため大正10年に皇太子裕仁(昭和天皇)を摂政に任じています。

昭和天皇

 明治34(1901)年~昭和64(1989)年。
 大正天皇の第一皇子で、幼称は迪宮で、大正5年に立太子されています。
 大正10年にヨーロッパに外遊し、同年に摂政となっています。同15年の大正天皇崩御後、皇位を継承し、昭和に改元しました。
 昭和3年の張作霖爆殺に際しては田中内閣を総辞職に踏み切らせ、同11年の2・26事件では陸軍少壮将校の鎮圧を命じました。
 昭和13年頃に近衛文麻呂首相の進言に従い、蒋介石政権との講話を拒否し、戦争の継続を支持、同16年には英米両国に戦線の詔書、同20年にポツダム宣言受諾の詔書をラジオ放送しました。
 戦後、新憲法により「国民統合の象徴」とされ、政治から離れましたが、全国行幸を行っています。
 また、生物学に造詣が深く、『那須の植物』、『相模湾産後鰓類図譜』等を著しています。

吉野作造(よしの・さくぞう)

 明治11(1878)年~昭和8(1933)年。
 宮城生まれ、帝大を卒業後、袁世凱の息子の家庭教師として清国へ招かれ、帰国後明治42年に帝大助教授に採用され、 さらにその翌年に渡欧、帰国後に教授となりました。
 主に「中央公論」に大正デモクラシーの理論的基礎をなす緒論分を発表した、大正デモクラシーの先駆者であり、「民本主義」という考え方で政治の民主化を図ろうとしました。

桂太郎(かつら・たろう)

 弘化4(1847)年~大正2(1913)年。
 明治期の陸軍軍人、政治家で、公爵です。戊辰戦争に従軍し、維新後はドイツに留学しました。
 ドイツ駐在武官、参謀本部管西局長を経て、明治19年に陸軍次官となり、軍改革を推進しました。
 同29年に台湾総督、また様々な内閣の陸相となり、同31年には大将となっています。同34年に日露戦争を遂行し、同41年には第二次内閣を組織して社会主義運動を弾圧、韓国の併合を行いました。
 大正元年に第三次内閣を組織しましたが、憲政擁護運動により、翌年に総辞職しました。

大隈重信(おおくま・しげのぶ)

 天保9(1838)~大正11(1922)年。
 佐賀藩士で、蘭学、英学を学び、幕末には尊攘派として活躍しました。
 維新後は、侯爵となり、徴士参与職、外国事務局判事、民部大輔などを努め、明治3年には参議、同6年に大蔵卿となります。
 以後、様々な内閣の外相、内相などを歴任し、明治31年に初めての政党内閣を組織しますが、これはわずか4ヶ月で解散します。
 その後、大正3-5年に第二次組閣し、対独宣戦布告、対華二十一か条要求などを行いました。

原敬(はら・たかし)

 安政3(1856)年~大正10(1921)年。
 盛岡の出身で、苦学して明治12年に郵便報知新聞社の記者となりましたが、官界入りし、天津領事、パリ公使官書記官を務めます。
 同30年に官界を退き、大阪毎日新聞社の社長となり、関西財界に勢力を持つようになります。
 さらに同33年に立憲政友会の創立に参加し幹事長となり、同35年に衆議院議員となり、以後、その死まで当選を続けます。
 様々な内閣の逓信相、内相を経て、大正2年に政友会の第三代総裁となり、米騒動で倒れた寺内内閣に替わって組閣、平民宰相として日本初の本格的政党内閣を実現しました。
 しかし、普選運動、社会運動を弾圧し、シベリア出兵を継続するなどで経済恐慌を招きました。また、その政権末期には政党政治の腐敗ぶりを示す事件が頻発し、大正10年に皇太子に洋行を勧めたことに憤った右翼の青年に、東京駅頭で刺殺されました。

秋山定輔(あきやま・ていすけ)

 慶応4(1868)年~昭和25(1950)年。
 備中倉敷に生まれ、東京大学卒業後、会計検査院に入ります。
 その後、明治26(1893)年に『二六新報』を創刊し、労働者懇親会、娼妓解放等の運動を展開しました(『二六新報』は、明治34(1901)年、日本最初のメーデー集会ともいうべき労働者大懇親会を主催したことでも有名です)。
 同35年には衆議院議員となりますが、翌々年、日露戦争時に露探(ロシアのスパイ)問題で辞任、その後は日露講和条約反対の日比谷焼打事件に関係したり、労働運動の支援を行うなどし、また桜田倶楽部を主宰し中国革命を資金面で援助しました。
 大正期には桂太郎の立憲同士会結成を工作するなど、以後組閣工作等の黒子(黒幕?)として活躍します。また、日中戦争では和平工作を行うも失敗しました。

甘粕正彦(あまかす・まさひこ)

 明治24(1891)年~昭和20(1945)年。
 仙台の両親とも士族の生まれで、父は警部でした。明治38(1905)年に名古屋幼年学校に入学、大杉栄の6年後輩にあたります。
 三重県津中学、陸軍士官学校を経て、大正元(1912)年に少尉として陸軍に任官します。その後、大正4年に陸軍戸山学校に入学、ここで事故(落馬とも、鉄棒からの落下とも)で膝関節炎症となった為、退任しようとしたところ、彼の才能を惜しんだ所属の連隊長に憲兵になれと言われました。
 悩んだ末、転科を決意した甘粕は新たに憲兵としての道を歩むことになります。大正6年に彼は朝鮮京畿道揚州憲兵分隊長となりました。
 この時期、ロシア革命の影響や、日韓併合からの独立運動と朝鮮の各地での独立運動が盛んになっており、銃火をもって鎮圧を図ることも珍しくなかったのですが、甘粕の担当の揚州は大きな事件もなく平穏であったと言われています。これは彼が着任時から現地人と接触に努め、独立運動に関わる人びとを説得していた結果だと言われています。この功績により甘粕は朝鮮憲兵司令官石光眞臣中将の副官に抜擢されました。
 大正9(1920)年に東京に戻り、憲兵練習所を経て翌年に大尉に昇進、千葉県市川憲兵分隊長となります。当時頻発していた労働争議などの調停を行い、大正11年に東京市の渋谷分隊長に任ぜられました。続いて大正12年には麹町憲兵隊長も兼任を目地られ、憲兵司令部、憲兵隊本部と同居して、皇居前の辺りに駐屯していました。
 この時期はシベリア出兵の悪評、批判が軍部内からもあり、いわゆる「アカ」の思想に染まるものも少なくなかった為に、日頃から憲兵隊は新兵の思想調査など多忙を極めてた時期でもあります。
 そして、関東大震災が発生します。果たして甘粕本人の独断だったのか、憲兵隊幹部の命令であったのかは定かではありませんでしたが、無政府主義者大杉栄夫妻らが殺害される、甘粕事件が引き起こされます。
 甘粕事件の詳細については省略します。
 この事件により甘粕は懲役10年の判決をい言わされましたが、大正15年10月に仮出所し、世間を騒がせましたがこれ以降、甘粕の名が新聞等に載ることはほとんどなくなります。
 昭和2年に陸軍の機密費で渡仏、4年に帰国した後、同年中に渡満、奉天に居を構えることになります。以降、関東軍の裏の協力者として表に出ず、満州国建国の為の様々な工作、謀略、溥儀の護衛の任をになったと言われています。
 満州国民政部警務司長、協和会中央本部総務部長などを歴任し、昭和14(1939)年には満州映画協会理事長となり、国策映画を作り続けました。
 終戦時、新京の満映理事長室に服毒自殺をしました。
 辞世の句は、「大博打、みぐるみぬいですってんてん」。

大杉栄(おおすぎ・さかえ)

 明治18(1885)年~大正12(1923)年。
 大正期で最も有名なアナーキストです。
 東京外国語学校に在学中から平民社に出入りし、直接行動論者として頭角を現します。明治41年の赤旗事件で入獄したため、大逆事件の検挙を免れました。
 大正元年に荒畑寒村と「近代思想」を発刊し、進化論、労働運動、無政府主義に関する論文を執筆しました。
 ロシア革命後、大正9年に上海に赴きコミンテルンと接触して、自らが主宰する労働運動は一時アナ=ボル提携を打ち出しましたが、やがてボルシェビズム批判に転じました。
 同12年パリのメーデーで演説を行い、国外追放処分となっています。帰国後、震災の混乱の中で甘粕正彦らに伊藤野枝、橘宗一と共に虐殺されました。

金子文子(かねこ・ふみこ)

 明治36(1903)年~大正15(1926)年。
 横浜に生まれ、不遇な幼少時代を送ります。上京して新聞の売り子、女中、行商などをしながら夜学に学びます。
 貧困と差別の中で、社会主義者や無政府主義者、朝鮮人学生らと交流し、その中で日本帝国を憎悪する朝鮮人朴烈に大正11年に出会い、不逞社を結成し、機関誌の発行などを行いました。
 震災後に不逞社の取締が行われ、検挙されます。第二の大逆事件とも呼ばれる「朴烈事件」で死刑の判決が下りますが、恩赦により無期懲役となります。しかし、大正15年に収監先の栃木女子刑務所で看守の隙を見て自ら命を絶ちました。

森鴎外(もり・おうがい)

 文久2(1862)年~大正11(1922)年。
 明治、大正期の陸軍軍医であり、小説家、評論家で、本名は森林太郎です。
 東大医学部を卒業後、明治17年より3年間ドイツに留学し、衛生学を学ぶ傍ら文学、美術に親しみました。
 帰国後は公務の傍らで、評論、創作活動を展開しました。一時に小倉に左遷され文学活動を中断していましたが、同40年に陸軍軍医総監として最高位に登り、活動を再開しました。
 幸田露伴とは親友の間柄で、斉藤緑雨を加えて『三人冗語』の名によるしゃれた文芸時評を合作しました。

夏目漱石(なつめ・そうせき)

 慶応3(1867)年~大正5(1916)年。
 江戸牛込生まれで、本名は金之助です。
 帝大英文科を卒業後、高師、松山中学、五校の教師を経て、明治33年に文部省留学生として英国に留学しました。
 同36年に帰国し、一高教授、東大講師として英文学を教えるかたわら、帝大の同級であった高浜虚子の勧めにより写生文を始め、『吾輩は猫である』を発表しました。
 その後、『坊ちゃん』、『草枕』などの多彩な創作活動を展開し、同40年に教職を辞し、朝日新聞社に入社、同43年に胃潰瘍で危篤になるまでに『三四郎』『門』などの大作を発表しました。
 回復後、『こゝろ』などの作品を発表するが、大正5年に『明暗』を半ばにして永眠しました。
 また、文学批評にも優れ、『硝子戸の中』などの随筆も見られます。

渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)

 天保11(1840)年~昭和6(1931)年。
 明治、大正期の東京を代表する実業家であり、子爵です。
 慶応3年に徳川昭武について渡欧、パリ万博などに赴き、西欧の近代的産業設備や経済制度を学び、明治元年に帰国しました。
 帰国後は、静岡に合本組織(株式会社の先駆)商法会所を設立、さらに明治2年に大蔵省に出仕、租税正となり、明治5年大蔵大丞となった翌年に辞職、第一国立銀行を設立しました。また、その他に王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯、日本鉄道などの多数の会社を設立、経営しました。
 また、東京改造計画にも参画し、その主導であったとも言われています。
 父は武蔵国榛沢の郷士で、父から『論語』を学び終生の指針としました。そのためか、怪異や神秘に対しては「怪力乱神を語らず」の姿勢を通しました。

織田完之(おだ・のぶひろ(かんし))

 天保13(1842)年~大正11(1923)年。
 三河国の豪農に生まれ、勤王派に加わり、桂小五郎や高杉晋作らと交友しましたが、維新後は明治政府の農商務省の官吏となり農業、干拓事業を担当し、とりわけ印旛沼の治水工事には力を入れていました。
 明治25年に引退し、碑文協会を設立、以来、二宮尊徳、佐藤信淵の思想の体系的紹介に尽力しました。
 また、日本最初の農業史書である『大日本農史』(明治24年)を著しました。

幸田露伴(こうだ・ろはん)

 慶応3(1867)年~昭和22(1947)年。
 江戸下谷生まれの小説家、随筆家で、本名は幸田成行(こうだ・しげゆき)です。
 電信修技学校を卒業後、電信技手として北海道に赴任しますが、文学への思いやまず明治20年に職務を放棄して帰京します。
 同22年に『露団々』『風流仏』などで作家的地位を確立し、尾崎紅葉と人気を二分しました。紅葉の写実に対し、露伴は理想詩人と呼ばれ、『五重塔』がその代表作です。
 また、明治期最大の東洋神秘学研究家の一人であり、その著『魔法修行者』『頭脳論』などの奇作と並び、評伝『平将門』や、『一国の首都』と題した長大な東京改造論があります。また『八犬伝』の熱烈な支持者でもありました。
 後年、寺田寅彦と親交を結び、渋沢栄一の伝記を著しています。

寺田寅彦(てらだ・とらひこ)

 明治11(1878)年~昭和10(1935)年。
 明治、大正、昭和をかけて活躍した超博物学者。
 東京生まれの、帝大卒です。大正5年に帝大教授となり、理化学研究所、東京帝大航空研究所、地震研究所で実験物理、地球物理学の研究を行い、特にX線による結晶構造解析での研究は著名で、六年学士院恩賜賞を受賞しています。
 また、その地震研究に情熱を注いでおり、「天災は忘れた頃にやってくる」という有名な言葉を残しています。
 物理学者でありながら超自然や怪異へ限りない興味を抱き、研究を行っていたと言われます。
 また、「帝都改造計画」にも物理学者として関わっていたとも言われています。
 夏目漱石門下の文人でもあり、吉村冬彦、藪柑子の筆名で、『冬彦集』、『藪柑子集』、『万華鏡(カレイドスコープ)』などがあります。

大河内正敏(おおこうち・まさとし)

 明治11(1878)年~昭和27(1952)年。
 旧上総大多喜藩主大河内正質の長男です。帝大造兵学科を卒業後、明治44年に同大の教授となり、同学の近代化に努めました。
 帝大では寺田寅彦以上の天才と謳われ、共同で物理学の実験も手掛けました。
 大正10年に、同6年に設立された応用化学研究の総本山、「理化学研究所」の総裁となります。また、昭和2年に理化学興業を設立し、以来研究所の発明を工業化する諸会社を創り(理研コンツェルン)、利益の一部を還元するという方法で研究所を再建、成長させ、百五十人余の博士を輩出しました。
 美丈夫の誉れ高く、人柄も名家の出に相応しく寛大であったと言われています。

呉秀三(くれ・しゅうぞう)

 慶応元(1865)年~昭和7(1932)年。
 明治から昭和期にかけての精神病学者であり、医史学者です。
 江戸生まれの帝大卒で、明治30年に渡欧、4年後に帰国して東京帝大教授に就任しました。
 同37年に東京府巣鴨病院(松沢病院)院長を兼任し、クレペリン学派の新しい精神病学を普及し、患者の看護法を改めました。
 様々な医史学の著し、昭和2年に日本医史学会を設立、その理事長に就任しています。

森田正馬(もりた・まさたけ)

 明治8(1874)年~昭和13(1938)年。
 日本近代の精神医学者であり、治療家です。
 寺田寅彦が幼少期を過ごした高知に生まれ、明治35年に東京帝国大学医学部卒業後、精神医学の道を歩みます。
 犬神憑きなどの心霊現象を研究しました。
 後に、神経衰弱症・強迫神経症・不安神経症などが精神病ではなくて精神的変調であると考え、「森田療法」として知られる独創的な精神治療法を確立しました。

葦原金次郎(あしはら・きんじろう)

 嘉永5(1852)年~昭和12(1937)年。
 以下の項目を参照してください。
 ■精神医学、精神病院、精神病に対する治療など → 芦原将軍

西村真琴(にしむら・まこと)

 明治16(1883)年~昭和31(1956)年。
 人造人間の発明、研究家で、「学天則」と言う人造人間を自ら作り出しています。
 万能科学者と呼ぶに相応しい多彩と言うよりも自由奔放と呼べる活動と経歴を有しており、「学天則」の制作者であると同時に科学小説の先駆者であり、阿寒湖のマリモを絶滅から救った北大植物学教授で、アイヌと中国人孤児の救済にあたった社会事業家であり、随筆家、政治家でもあり、そして幼児教育振興を目指す保育指導者でもありました。
 早川徳次の頓挫した地下鉄工事に、ロボット使用を唱えます。
「学天則」という東洋哲理を信奉する奇人です。

早川徳次(はやかわ・のりつぐ)

 明治14(1881)年~昭和17(1942)年。
 山梨に生まれ、早大を卒業後、満鉄、鉄道員勤務の後に、高野山登山鉄道支配人となり、同鉄道を再建しました。
 大正9年に東京地下鉄道を創立して常務に就任し、昭和2年に上野-浅草間に日本初の地下鉄を開通、さらに同9年に新橋-浅草間を全通させ、日本の地下鉄の先駆者となりました。

泉鏡花(いずみ・きょうか)

 明治6(1873)年~昭和14(1939)年。
 金沢に生まれ、北陸英和学校を中退後、明治23年に上京して尾崎紅葉の玄関番となり、明治26年に処女作「冠弥左衛門」を発表しています。
 「夜行巡査」「外科室」などを経て、「高野聖」、「春昼」などの唯美的な文学世界を形成し、異彩を謳われました。
「人の運勢を見るのが道楽」と言い、神楽坂の七不思議の一人として、辰宮恵子の力杖となります。

今和次郎(こん・わじろう)

 明治21(1888)年~昭和48(1973)年。
 東北出身で、東京美術学校図案科を卒業後、大正9年に早大理工学部建築学科教授に就任しました。
 柳田圀男の影響を受け、民家の建築の研究を始めますが、日本民俗学の主流とは異なるものでした。
 現代の都市生活の動向を記録、調査する考現学(モデルノロジー)を提唱し、日常生活を研究する路上観察学や生活学に影響を与え、早川、寺田らに刺激を与えました。
 寺田寅彦早川徳次と並ぶ銀座の三奇人の一人です。

明石元二郎(あかし・もとじろう)

 元治元(1864)年~大正8(1919)年。
 福岡藩士の子で、陸軍幼年学校から、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業しています。
 さらにドイツ留学後、近衛師団参謀として台湾に出征しました。
 駐ロシア公使館付き武官のときにロシア革命が勃発、革命派と接触して諜報活動、扇動を行いました。俗に言う「明石工作」なるものです。
 この工作は奉天会戦、日本海海戦に並んで日本を日露戦争の勝利に導いたと言われるほどのもので、明治当時の山県有朋元首相をして、「明石は恐ろしい男だ」と言わしめました(但し、当時の日本軍は諜報活動などに重点を置いておらず、軍人などは「君の業績は数個師団に相当する」と戦後に先輩から言われた程度の認識だったようです。まあ、それでも人一人の活動が数個師団に匹敵する、というのもすごい評価ですが)。
   明治43年に韓国駐さつ(答にリ)憲兵隊司令官となり韓国の憲兵政治に尽力し、さらに大正4年に第六師団長、7年に台湾総督に赴任、在任中の大正8年に台湾から日本への渡航中に没しています。
 公私において清廉潔白な人物であったと言われており、様々なエピソードを残しています(半ば神話化されてる感も否めませんが、それほどに周到たる人物であった、と言われています)。

カール・ハウスホーファー(-・-)

 1869年~1946年。
 ミュンヘンに生まれ、1889年に陸軍の将官として印度、東アジア、シベリアを旅行し、明治42年から約2年の間日本に滞在しました。
 日本において「緑龍」なる結社に入会したと言われています。
 地政学(ゲオポリティーク)を戦争の科学に高め、初期ナチズムの神秘的な教養を形成する陰の参謀となりました。
 1921年に軍退役後は、ミュンヘン大学教授、ドイツ・アカデミー会長及び、ヒトラーの外交顧問を務めましたが、敗戦後に割腹自殺を遂げています。

後藤新平(ごとう・しんぺい)

 安政4(1857)年~昭和4(1929)年。
 明治大正期の政治家で、伯爵です。
 明治36年に貴族院議員、同39年に満鉄の初代総裁に就任しています。また、第二次・三次桂内閣の逓信相、寺内内閣の内相、外相を歴任し、この間、鉄道院総裁を兼任しています。
 対外積極策を唱え、中国の経済分割、そして東亜経済同盟を構想し、シベリア出兵を強行しました。
 大正9年に東京市長、同12年に第二次山本内閣内相となり、帝都復興院総裁を兼ねて関東大震災後の帝都復興に尽力しました。

佐藤信淵(さとう・のぶひろ)

 明和6(1796)年~嘉永3(1850)年。
 江戸後期の経済学者であり、鉱山技術家、農家、そして兵法家であったと自称しました。
 ユートピアを目指し、将門公ゆかりの印旛沼をはじめ内洋全てを干拓し生産性の向上を求めた人物です。
 各地を遊歴し美作、薩摩、阿波などで藩主に経世の策を献じたと言われています。
 著述に専念し、『経済要録』、『農政本論』、『復古法慨言』などを著しましたが、中でも『宇内混同秘策』は、平田篤胤の国学、神道の影響を受けて独特の日本中心主義の世界哲学を構築し、全世界を征服するための青写真を描いた一大奇書で、この中に「東京」という名称が初めて用いられたされています。

出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)

 明治4(1871)年~昭和23(1948)年。
 丹波亀岡に生まれ、旧名は上田喜三郎と言いました。
 少年時代に言霊学を学んだと言われます。その記憶力と理解力は抜群であり、中学を中退させられましたが、13歳で代用教員に駆り出されています。
 明治31年に山中の修行で神秘体験を得たと良い、静岡の稲荷講社で長沢雄楯より修行法を学びました。
 同32年に金明霊学会を設立し、同33年に大本教の開祖、出口ナオの婿養子となります。
 大本教の教義の整備や組織の拡大を精力的に推し進め、機関誌を発行し、大道布教隊を組織して全国に宣伝しました。
 積極的な社会批判や救済の呼びかけは大きな反響呼び、実業家、軍人、知識人などの入信が相次ぎました。
 大正5年に大本教は皇道大本と改称し、「大正維新」をスローガンに掲げ、「神政復古」を唱え、「富国強兵」をも批判しました。
 そのため、大正10年と昭和10年の2度に渡り弾圧を受け、昭和の弾圧では完全に禁圧されました。

竹内巨麿(たけうち、またはたけのうち・きよまろ)

 明治8(1875)年?~昭和40(1965)年。
 オカルティスト、皇祖皇太神宮天津教の教祖。
 本人は宇多天皇の子孫と藤波神宮の神主の娘との間に生まれたとし、鞍馬山で神代文字と神代史を学んだと言っています。
 実際は富山の木挽き職人と寡婦との私生児であり、明治27(1894)年に上京後、石工に弟子入りした後、御嶽教に入信、そこで新興宗教の運営のノウハウを学びながら修行と称して全国を行脚、鞍馬山に籠り『竹内文書』を準備しました。
 明治32(1899)年から徐々に公開を始め、翌年に『天津教』を開きました(最初は御嶽教の支部として『御嶽教天都会』としていましたが、明治43(1910)年に『皇祖皇太神宮天津教』として独立しました)。
 天津教の教典である、竹内の所持する『竹内文書』の荒唐無稽な内容を無条件に信じる素朴な人が多かったことも確かですが、日本人や天皇の優位性を論じる為にその内容を信じた人々も居ました。いわゆる陸軍の皇道派と言われるインテリ軍人とも接触があったと言われています(2.26事件後、特に処分等がなかったということは、それほど深い関係では無かったと思われますが)。
 竹内巨麿の主張する天津教の教義は無害とは言い難く、南朝の子孫を標榜したことや、天津教の主張する天皇家に対する不敬罪、あるいは単純な詐欺罪、文書偽造行使罪などの容疑により昭和5(1930)年から取り調べ、起訴され、昭和10年に逮捕されて長い裁判が始まります。
 昭和19(1944)年、裁判は戦局の悪化に伴い、最早相手にしていられなくなったと言わんばかりに「宗教の問題なので裁判所の管轄外」と宣言されて無罪となりました。
 竹内文書の大半は裁判後も返還がなされていなかったところ、東京大空襲で大半が焼き払われたと言われています(が、その後にまた復活している模様です)。
 天津教は戦後にGHQにより「非民主的」「不健全」といった理由から解体を命じられましたが、その後に熱心な信者達によって再建、相変わらずの様相を呈しています。

酒井勝軍(さかい・かつとき)

 明治7(1874)年~昭和15(1940)年。
 山県出身のキリスト教の伝道者、オカルティスト、日本のピラミッドの発見者。
 酒井の前半生はキリスト教の伝道者として、後半生は『竹内文書』にのめり込んだオカルティストとして有名です。
 山形英学校に入学しますが家庭の経済的事情により退学、東北で開始された伝道活動により14歳のときに洗礼を受け、以降、苦学しながら東北学院を卒業しました。
 この経験から説教よりも実働という考えと、音楽を霊からの声と発想して説教よりも重視しており、讃美歌を学ぶため明治31(1898)に渡米、留学して信仰と音楽を学び、明治35(1902)年に帰国、東京唱歌学校を設立、伝道活動に従事しました。
 明治37(1904)年に日露戦争に従軍(直接戦闘に参加したわけではありません)し戦争を体験し、大正3(1914)年に月面に十字が浮かぶという神秘体験を経てキリスト教から離れていくことになります。
 大正7(1918)年にもシベリア出兵に通訳として同行、『シオン議定書』や反ユダヤ主義を教えられ、帰国後に『猶太人世界征略運動』『猶太民族の大陰謀』等を出版し反ユダヤ主義を展開したのですが、昭和2(1927)年にパレスチナ、エジプトへユダヤ研究のために派遣され、ピラミッドの研究なども行い、反ユダヤ主義から日本人とユダヤ人が同じ祖先をもつとする『日猶同祖論』、シオニズムへ傾きました。
 昭和4(1929)年に竹内巨麿有するいわゆる『竹内文書』を閲覧し、『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』を出版します。
 竹内とは帰国直後から接触があったと言われており、酒井のアメリカ留学中に天津教(皇祖皇太宮)に詳しい人物から『モーゼの裏十戒』などを教えられたと言います。
 以降、酒井は『竹内文書』にのめり込んでキリスト教から神道に鞍替え、神政復古などを唱えはじめました。
 昭和7(1932)年に『竹内文書』の内容を根拠に広島の葦嶽山をピラミッドであると断定し、次いで青森、飛騨と続々と「ピラミッド」認定を続け、青森では『モーゼの墓』や『キリストの墓』まで発見してしまいます。

 酒井が昭和9年に出版した『太古日本のピラミッド』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来ます。
『太古日本のピラミッド』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1137942

田中守平(たなか・もりへい)

 明治17(1884)年~昭和4(1929)年。
 大正、昭和初期の心霊家、あるいは太霊道の教祖とも。
 田中の語る「太霊道」なるものは、宇宙の根源、神であり遍在する存在「太霊」を説き、その「霊子」という実体によって何か行う「霊子術」というものでした。
 彼自身にカリスマがあったとも、宣伝工作や出版事業が巧みであったとも言われており、明治末期には3万人を超える信者が居たと言われています。

 田中守平は岐阜恵那の寒村武並村(現武並町)に生まれ、16歳で上京、苦学しながら大学に学んでいましたが、明治36(1903)年にロシアに対する強攻策を桜田門外に待ち構えて明治天皇に直訴して逮捕、不敬罪に問われるも精神病とされて故郷の恵那へ送還されました。
 その後、恵那山中で修業を積んで霊能力を身に付けたと言い、明治43年に「太霊道真典」なるものを著し、翌年に上京、東京霊理学会なるものを設立して呼吸法、座法、手当、自動運動を組みあわせた霊子療法で治療活動を自称しました。また、ウィジャ盤やテーブルターニングなどの西洋的な心霊主義の手法も取り入れており、それらを混ぜ合わせたうえ、彼自身の国粋主義的な思想もそこに組み合わされた独特なものであったと言われています。
 明治44年に中国で起きた辛亥革命において、革命闘士と交流のあった田中はすぐさま大陸に渡り、中国、朝鮮で祈祷(?)での治療行為を行い、たくさんの信者(?)を作ったと言われています。
 大正2年に帰国後、催眠術、心理学などを用いた(怪しげな)精神治療を行う者同士で「東洋心理協会」に参加、大正4年に地元岐阜で衆議院議員に立候補するも落選。以降、オカルト方面への傾倒が強くなり、大正5年、東京麹町に太霊道本院を開設し、治療と後進の育成を図り、組織化が進みました。
 大正9年に故郷の岐阜恵那にも恵那山大本院が落成し、誰でも修行で霊力が身に付くとして(千里眼やテレパシー、読心術などがわずか10日で修得できる!と謳っていたようです)会員に治療や、その伝授を行いました。
 参議院に落選したことからか、太霊道による霊的な文明を目指して、恵那山大本院のあった武並村(現在は武並町)は全国から信者が訪れてるようになり、武並駅が設置されるとともに郵便局まで出来るほどでしたが、大正14年に恵那山大本院は不審火で焼失し、昭和4(1929)年に田中自身も突然の発作に見舞われ、わずか46歳で他界した後は太霊道は急速に衰退し、忘れ去られました。

熊沢天皇(熊沢寛道)(くまざわ・ひろみち)

 明治22(1889)年~昭和41(1966)年。
 戦後、天皇を自称する代表的な存在です(戦後には20人以上にもなる自称者が出たそうです)。
 大っぴらに扱われたのは終戦後、昭和20(1945)年からですが、それ以前から天皇の家系を自称していた熊沢家の養子となり、大正9(1920)年に即位、天皇を自称します。
 本人によれば熊沢家は南朝の後亀山天皇の孫の血筋の、熊沢宮信雅王の子孫であると言います。
 このことを認めるようにと養父の代から政府や要人へと上奏していたらしいのですが、当然偽物として扱われ無視されており、戦後までまったく取り上げられませんでした。
 熊沢家は系図を元に主張したようですが、系図以外でその身分を示すようなものは、熊沢家には一切残っていませんでした(この系図自体も60にも上ると言われており、最早何が本物なのか分からない状態です)。しかし、どこからともなく『御神宝』なるものが登場し、これを当時有名になりつつあった竹内巨麿が所持している(奪われたものである)と主張しています(そして、竹内巨麿側は完全に否定しています)。
 終戦後、GHQにも上奏書を送りつけましたがやはり無視。しかし、雑誌『LIFE』の記者の目に留まり昭和21(1946)年に取材をされた受けました。
 熊沢は自らが所持する系図等を使用して南朝の歴史を語り、自らが正統であると主張しました。この内容はアメリカ軍の機関紙や、雑誌『LIFE』、『NEWS WEEK』などで報道され熊沢天皇として有名になり、GHQも熊沢に接触しましたが明確な証明が出来ず即座に興味を失ったと言われています。
 ただ、この報道によって支持者が集まり、「南朝奉載国民同盟」なる政治団体を設立、自身が南朝の正当であることを全国に訴えました。
 以降、同様の主張を繰り返しましたが、物珍しさが薄れるとともに世間からも関心が失われ、GHQも天皇制度の方針が固まったことにより相手にしなくなりました。昭和25年頃にはほぼ忘れ去られており、たまに雑誌に登場したり、タレント扱いされていたようです。

菅野力夫(すがの・りきお)

 明治20年(1887)~昭和38年(1963)。
 明治、大正、昭和初期に掛けて、世界を旅した探検家です。
 福島県の生まれで中学を中退後、右翼や国家主義の黒幕的な存在か、あるいは民族独立の支援等を行なっていた頭山満の書生となります。明治44(1911)年、辛亥革命をきっかけに頭山と共に上海に渡るものの、上海ではこれといった活躍は特にありませんでした。
 この後、一旦帰国し、第1回目の探検を開始します。この探検は、まず国内、九州を横断し、沖縄へ渡り、さらにそこからシンガポールへ渡り、マレー半島を北上、インドに入ってヒマラヤに登ろうとしたところペルシアで投獄され、現地の日本人に助け出された後、イランまで赴く、というものでした。
 探検は、海を渡る以外、大半は徒歩で行なわれるというもので(まあ、時代背景的にも徒歩しかない時代でもありますが)、大正元(1912)年から大正3(1914)年の2年にも及びます。
 帰国後は各新聞社に持てはやされ、各地で講演活動を行います。これらの活動で資金を集め、次の探検に出てるというサイクルで、8回に渡る探検を繰り返しています。
 菅野はこの探検をカメラで記録しており、世界各地の様々な写真を収めています。この写真を絵葉書に仕立てて日本へ送ったり、あるいは帰国時に売って資金としていました。

 容貌魁偉な巨漢で、髭も生やし放題の怪しげな風体であったにも関わらず、不思議と人に好かれた言われています。
英語に堪能であったとのことですが、彼の赴く地には英語が通用しない土地も多かった為、英語圏以外では無銭旅行をしたとも伝えられています。ただ、ある程度の資金を集めての探検であった為、これは初回だけのことでした。
 海外在留の邦人の助けも多く得ており、師の頭山の影響や、あるいは本人の人気、交友範囲の広さが窺えます。
 また、頭山の影響というよりも、日本人の探検家の大方が軍部と何らかのつながりを持っていることもあり(第5回には、特務機関の飛行機で移動したということも)、従軍カメラマンのような立場であり、いわゆる軍事探偵の役割もあったようです。

 探検の行き先は大体以下の通りです。
 ・第1回(大正元~3年)  九州横断→沖縄→シンガポール→インド→イラン
 ・第2回(大正3~4年)  日比谷公園→敦賀港→ウラジオストック→ハバフロスク→黒竜江→奉天→上海
 ・第3回(大正12年)   ハワイ→メキシコ→ペルー→チリ→アルゼンチン→ブラジル→シンガポール→マレーシア→ジャワ
 ・第4回(昭和 9年)   満州→モンゴル
 ・第5回(昭和11年)   関東州→満州→朝鮮
 ・第6回(昭和12年)   ハワイ事件(入国拒否)により、即座に帰国
 ・第7回(昭和13年)   台湾→ミンダナオ
 ・第8回(昭和14~15年) 中国(主に前線の慰問講演)

福島安正(ふくしま・やすまさ)

 嘉永5(1852)年~大正8(1919)年。
 情報将校。最終的には大将にまで上り詰めた人物です。
 長野、松本の士族の生まれでしたが、貧乏であり幼い頃は苦労をしましたが、江戸遊学を許されて開成校に通いました。語学に堪能で、英語、フランス語、ロシア語、中国語、ドイツ語を話したと言われています。
 明治6(1873)年に開成校を中退後、司法省へ出仕、翌年に陸軍省へ移った後、明治11(1878)年に臨時士官登用試験に受かり中尉として登用されます。
 翌12年から清国、朝鮮へ情報収集任務に赴き、18年に陸軍大学でドイツ帝国(当時)のメッケルに学んだ後にインド・ビルマ方面の情報収集任務後、20年にドイツのベルリンへ駐在、その帰国に際していわゆるシベリア単騎横断を行います。その後も欧州、アジアを視察旅行後、陸軍の参謀本部の役職を歴任しました。最終的に参謀本部次長、大将となりました(現役時は中将、大正3(1914)年に後備役とともに大将に昇進)。
 シベリア単騎横断とは冒険旅行を装った現地視察であり、明治25(1892)年2月11日にベルリンを出発してポーランドに入り、ロシアの首都ペテルブルグには3月24日に到着、モスクワを経由してエカテリンブルグへ入り、オムスクから外蒙古をロシアと清の国境沿いに東シベリアを横断、イルクーツクを経由して満州のチチハル、翌明治26年6月12日にウラジオストックに入りました。全行程約1万4千キロ、1年4カ月で踏破しました。
 ロシア内では英雄扱いで当時のロシア皇帝アレクサンドル3世に拝謁するほどでしたが、清国とは日本と対立中だった為に非協力的で苦労しました。満州に入るとまた下へも置かぬ扱いでした。

白瀬矗(しらせ・のぶ)

 文久元(1861)年~昭和21(1946)年。
 明治、大正の探検家で、陸軍中尉であった為、「白瀬中尉」と呼ばれます。
 当時は出羽国であった秋田県の生まれで、幼い頃より冒険心に富み、北極探検を目指していました。小学校の卒業とともに上京、軍人となります。予備役になった後、現役時代に知り合った児玉源太郎の勧めに従い、「北極探検」の準備として、明治26(1893)年に千島探検に参加しました。しかし、この探検は多数の死者を出し、自身も壊血病になるなどしながら占守島で2回越冬、明治28年に救助されます。
 明治30(1897)年に後備役で少尉として軍に任官、明治37年には日露戦争に出征、翌年には中尉に昇進しました。
 明治42(1909)年にアメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達、白瀬は大いに落胆したと言い、今度は南極に挑むことを決意します。明治43(1910)年に白瀬は帝国議会に「南極探検二要スル経費下付請願」を政府へ提出し10万円の補助を要求、衆議院は満場一致で決議したと言われるものの、その額は3万円でした(当時の物価から1円が現在の価値で5千円~1万円程度だった為、3万円とは1億5千万円~3億円ぐらいです)。
 当然、この資金では足りず、国民から義援金を募りなんとか探検の費用まかなったと言われますが、探検後、白瀬は借金にまみれになっていました。
 探検の費用で204トンの木造帆船(漁船)を買い取り、エンジンを取り付けて改造、東郷平八郎が「開南丸」と命名しました。
 明治43年11月に開南丸は東京芝浦を出港、翌2月にウェリントンに入港、その後に南極を目指しましたが、すでに南極の夏が終わろうとしていた為に、5月にシドニーに入港します。
 翌明治44年11月にシドニーを出港、再度南極を目指し、翌1月に南極大陸に上陸しました。このとき、白瀬は南極点の到達は断念、学術調査と領土保有を目的としています(この探検中、『大和雪原』と命名した雪原に日章旗を掲げ、先占による占有を宣言、敗戦後に取り下げるまで主張を続けています)。明治45年2月に南極を離れ、同年6月に帰国しました。
 帰国後、南極探検の後援会が資金を使い込んでいたことが判明し、白瀬は4万円もの借金を負って以降は冒険に関わることはなく、南極探検の講演を行うことで借金の返済に努めました。

柳田國男(やなぎた・くにお)

 明治8(1875)年~昭和37(1962)年。
 兵庫県の生まれの民俗学者です。
 東京帝大法科大学卒後、農商務省へ入ります。法制局参事官、貴族院書記官長を歴任後、朝日新聞に入り、民俗学の雑誌を創刊しました。
 有能な官吏であったと同時に、島崎藤村や田山花袋ら文学者とも交流があり(藤村の「椰子の実」は柳田の話がきっかけとも言われています)、イブセン会に参加しました。
 農政学から各地の風俗に関心を持つようになり、最初は各地の伝説や伝承をまとめるなどを行い、狩人の伝承をまとめた「後狩詞記」、次いで「遠野物語」を発表し、その後に民俗学の機関誌を刊行しました。
 近代化によって忘れ去られつつあった日本古来の風俗に目を向け、日本独自の民俗学の基礎を作るとともに、各地で民俗学者を育て、郷土研究を行う基礎も作りました(そしてこれが、柳田一門、とも言える学派を形成するわけですが)。
 ただ、その柳田も、性的な民俗学、被差別民、漂白民等を意図的に無視していたことが指摘されています(ただ、「遠野物語」等では、山に住む民についていくつか言及されていることもありますが・・・)。

三田定則(みた・さだのり)

 明治9(1876)年~昭和24(1950)年。
 盛岡の出身で、旧姓は関で、29歳の時に地元盛岡の三田俊次郎の養子となります。
 明治34(1901)年に大学卒業後、法医学教室助教授となり、その後、ドイツ、フランスに留学、血清学を学び、大正元(1912)年に帰国しました。
 大正6(1917)年に東京帝国大学医科大学教授となり、翌7年に開設された血清学教室教授に、さらに大正9年から退官した片山国嘉から法医学教室教授を引き継ぎ、兼任し、多くの生徒を育てるとともに、片山から引き継いだ法医学の基礎を築きます。
 昭和10(1936)年に退官しますが、昭和12年に台北帝大総長となり、後藤新平、新渡戸稲造らと台湾の近代化に貢献しました。
 昭和16(1942)年、郷里に戻り、養父三田俊次郎が創立した「岩手医学専門学校」の第2代校長になり、戦後の教育改革で、「岩手医科大学」に昇格させ、初代学長に就任しました。

人見絹枝(ひとみ・きぬえ)

 明治40(1907)年~昭和6(1931)年。
 岡山の生まれで、二階堂体操塾を卒業します。
 大正15年に大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属されます(現在の運動部のようなもので、スポーツをすることが半ば仕事のようなもです)。
 同8月の第二回万国女子陸上競技大会に日本人として一人で出場、、走り幅跳び、立ち幅跳びに優勝、円盤投げなどにも入賞し、一人で15点を叩き出し、個人優勝の名誉賞を得ました。
 この初の海外遠征によって、海外の事情を知った人見は、コーチや年間を通じてのトレーニングの重要性など、著書「女子スポーツを語る」等で世に伝えようとしました。
 以後も様々な大会に出場し、世界記録を含む、記録を出し続けました。
 昭和3(1928)年にアムステルダムオリンピックに出場、800メートルでは2位となり、ゴールで1位の選手とともに倒れこんで失神するという壮絶なレースとなり、以降、女子800メートル走はメルボルンオリンピック(昭和31(1956)年)まではずされることになります。
 オリンピック後は、競技者としても指導者としても競技に力を入れ、後進の指導や各地での講演を行いますが、昭和5年、5つの大会が半月のうちに集中し、成績は良かったもののマスコミの反応は悪いという、精神的、肉体的にも負担がかかり、翌年に若くして肺炎で死去します。

早川雪州(はやかわ・せっしゅう)

 明治19(1886)年~昭和48(1973)年。
 本名は早川金太郎(はやかわ・きんたろう)、千葉出身の、日本人初(?)のハリウッドスターです。
 明治末期に単身渡米、ロサンゼルスで様々な職種と転々とし苦労しながら演劇の興行を行い、人気が出たところをハリウッド最初期の女優であり、後の妻となる青木鶴子によってハリウッドでの興行を勧められ、これが映画監督の目に止まり映画俳優の道を歩き始めました。
 大正4(1915)年の『チート』で日本人の悪役を演じ人気となり(日本ではひどい日本人像を演じたと不評でしたが)、アメリカンドリームを実現して『ヘイワース・ピクチャー』をロサンゼルスに設立、出演料もうなぎ上りでチャップリンに比肩したと言います。
 その後、プライベートでのスキャンダルや、戦争、日本人排斥運動等により一時日本に帰国するも、昭和12(1937)年にパリへ移住、様々な映画に出演しましたが、ハンフリー・ボガードから招聘を受けて、ハリウッドに戻りました。
 この後、日本に戻ることを勧められ、日本とアメリカを往復しつつ映画俳優を続けます。
 そして、最も有名な『戦場に掛ける橋』への出演依頼を昭和31(1956)年に受け、捕虜収容所の所長を演じます。

 余談ですが、ハリウッドにおいて背の低さを補う為に使う踏み台のことを「セッシュウ」と呼びます(彼は当時の日本人としては大柄な170Cm以上の身長だったのですが、やはり欧米人に比べれば低い為、それを補う為に踏み台を使ったので、こう呼ばれるようになりました)。

伊達順之助(だて・じゅんのすけ)

 明治25年(1892)~昭和23年(1948)。
 明治-昭和期の大陸浪人、馬賊です。
 馬術とピストルの名手と言われ、馬賊とは言いますが、馬賊の頭目だけでもなく、軍閥の頭だったり、親日自警団の将官だったりと、軍人とも言えます(まあ、元々馬賊=自警団、地方の騎馬部隊ですが)。
 東京に生まれ、仙台藩知事、伊達宗敦の六男です(その伊達の名の通り、仙台の大名、伊達家の末です)。
 華族の名家の生まれながら、幼い折から素行が悪く、暴れん坊として悪名を轟かせて、学校を転々としたのち、明治42(1909)年には不良を射殺する重大犯罪を犯しています(これは当時『伊達事件』と呼ばれ、大いに世を騒がせましたが、結局は正当防衛となりました)。
 いつ頃に大陸に渡ったかは正確には分かっていませんが、大正5(1916)年の川島浪速が粛親王(清の皇族)、パプチャップ(蒙古人)らと起こした第二次満蒙独立運動に伊達順之助も参加しており、この頃にはすでに大陸に渡っていたようです(この大陸に渡ったきっかけも、ヤクザをピストルで撃ち殺したため、大陸に逃亡したと言われています)。
 第二次満蒙独立運動失敗後は朝鮮総督府警部を経て、張作霖の軍事顧問なります。昭和4(1929)年に張宗昌とは義兄弟の契りを交わし張宗援と名乗り、昭和6(1931)年には中国籍を得て中国に帰化しました。
 以降、独立した勢力として満蒙、山東の独立、自治を図りましたが、結局は自前の山東自治連軍(張宗援部隊)を率いて満州国軍に参加し、いいように使われていたようです。
 戦後は中国籍であった為、日本軍の協力者として戦犯となり、青島、上海、江湾の拘留所、収容所を転々とした後、上海監獄で昭和23(1948)年に刑死しています。
 大正5(1916)年に張作霖爆殺計画、大正8(1919)年には山県有朋暗殺計画(両方とも失敗)等々、過激な行動をしており、北一輝、大川周明、出口王仁三郎等の宗教と革命というテーマを持った人間とも親交が深かったとも言われています。
 また、小説「夕日と拳銃」(著:檀一雄)の主人公伊達麟之助は伊達順之助をモデルとしています。

小日向白朗(こひなた・はくろう)

 明治33(1900)年~昭和57(1982)年。
 大正-昭和期の大陸浪人、馬賊です。
 新潟の生まれで、大正5(1916)年に中国に渡ります。このとき、彼はシベリア単騎横断で有名な福島安正に憧れて、福島のようなに中国、チベットを調査しつつ、ドイツを目指そうとしました。
 これは実現しなかったようで、20歳の時に陸軍密偵としてモンゴルを目指した時に馬賊に襲われ、捕虜となりました。そこで命と引き換えに馬賊のした働きとなります。
 そして初陣にて手柄を立て、小頭目に取り立てられました。その後、卓抜した戦闘力と、迷信を恐れないことから(というよりも、中国の迷信を知らない)、大頭目となります。この後、馬賊として多くの戦いを経て、名を広めます。
 大正13(1924)年の第二次奉直戦争では張作霖の奉天軍に入り、張宗昌の配下、大隊長として参加しました。
 張作霖爆殺事件後は、抗日、親蒋介石を打ち出した張学良に対してクーデターを起こそうとしますが、実行前に計画が漏れ、昭和4年に満州から追放されます(この辺り、かなり事情が込み入っており、クーデターは張学良に対してな訳ですが、露見、追放となったのは日本軍です。これは「奉天城占領計画事件」と呼ばれています)。
 日本軍の満州侵略が進むと、馬賊の兄弟らが抗日闘争に立ち上がり、これとともに昭和7年に再び満州へ戻ります。
 しかし、当時まだまだ勢力の強かった日本軍との武力闘争を避け、抗日を訴える馬賊の組織を満州から北支へ撤退させました。
 以後は南京で対テロ活動を行ったり、日本軍に協力して魔都上海でテロ活動、対テロ工作などを行いました。
 戦後、戦犯として捉えられますが、日本人であることを訴え釈放され、日本に帰国しました。

 小日向には千山無量観に住む道教の大長老「葛月潭老師」から、3年間道教の教えと武当派拳法など体術を修行し、「尚旭東」の名と破魔の銃「小白竜」を授かったといわれる伝説的なエピソードが語られています。
 この後、天下豪傑と交わり、老師の教え「除暴安良」を実践して、凶悪な匪賊を倒すなどした・・・。
 ・・・まるっきり小説のような話で、年代なども不明ですが、彼が何らかの武術を習得していたことは確かです。
 また、「小白竜」(しゃおぱいろん)とい名ですが、彼は色白の優男であった為、「小白臉」(しゃおぱいれん)と呼ばれていたことも事実です。

満州お菊(まんしゅう・おきく)

 明治17(1884)年~大正11(1923)年。
 明治-大正期の満州の馬賊です。馬賊の女、ではありません。馬賊の女頭目です。
 本名は山本菊子(やまもと・きくこ)と言われています。
 熊本天草の出身であると言われており、7歳で朝鮮に売り飛ばされ大陸各地を流転の末、ハルピンの北方の酒場にたどり着きます。
 この間、シベリア出兵の日本軍とも関わりがあったとも言われていますが、事実は定かではありません。
 ハルピンで処刑寸前の馬賊を救ったことで馬賊となり(この救った馬賊が張作霖だとか、その義兄弟だとか言われています)、いつの間にか彼らの頭目にのし上がり、名が広まって行きました。
 以降、満州お菊と呼ばれ、彼女の発行する保票(通行手形)は信用の高いものだと言われています。
 病を得て、大正12年(1923)に39歳の短い生涯を、尼港事件のあったニコライエフスクに閉じたと伝えられています。

 かなり伝説的な人物ですが、実在の人物であり、もう一人のお菊、シベリアお菊と混同されている部分も見受けられます。
 シベリアお菊と同一人物である、と言われこともありますが、シベリアお菊は文字通りシベリア-満州を中心として活躍した女性で、特にシベリア出兵の辺りで日本軍に協力しました。
 また、ハルピンで没したと言われており、このあたりが満州お菊と混同される原因なのかもしれません。

張作霖(ちょう・さくりん、Zhang Zuolin)

 同治12(1875)年~民国17(1928)年。
 奉天軍閥政治家。まさに乱世の梟雄とも言える人物です。
 遼寧省海城県に生まれ、16歳で家を飛び出し、隣県の吉林省へ渡り馬賊に身を投じます。当時の吉林省と言えば田舎も田舎、治安も悪く非合法組織が多く存在し、その中で張作霖は頭角を現し、馬賊の頭目となります。
 東三省(現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省)で明治37(1904)年の日露戦争の際には最初はロシア側についてスパイ活動を行っていましたが、日本軍に捕縛されます。しかし、助命され(この時、後に首相にもなる田中義一(当時少佐)と関係ができます)、以降は日本軍のスパイとして逆にロシア側へスパイ活動を行います。
 戦後、清朝に帰順、その名声からさらに馬賊を集めて勢力を拡大しました。さらにその後。袁世凱の知遇を得て、辛亥革命、袁世凱の失脚を経て、「東三省巡閲史」となり、事実上の「満州」の支配者となります。
 「満州」掌握後は、中央へ進出を図り、安直戦争(1920年)、奉直戦争(1922年)と軍閥戦争を引き起こし、ついに第二次奉直戦争(1924年)により北京を占拠しました。
 しかし、直後に国民革命軍が「反軍閥」の「北伐」と称して華北への侵攻を開始、これに対し張作霖は「反共討赤」を掲げた為、欧米の友好的な扱いを受け、それに追随する動きを見せました。
 国民革命軍を一旦退けると、蒋介石の南京国民政府に対抗して北京に安国軍政府を樹立、自ら「中華民国陸海軍大元帥」を称して、自らが中華民国の主権者であると宣言しました。
 1927年に北伐が再開され、国民革命軍に敗れると、ひそかに北京を脱出しました。しかし、満州国建国の計画していた関東軍にとって彼は邪魔者でしかなく、奉天近くの皇姑屯で列車ごと爆殺されました。

江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)

 明治27(1894)年~昭和40(1965)年。
 本名は平井太郎(ひらい・たろう)。三重県に生まれ中学卒業後、早稲田大学政治経済学科へ進み、卒業後は大正6(1917)年に鳥羽造船所に就職しますが1年4カ月で退職、さらに貿易会社社員、古本屋、志那ソバ屋、活版職工、編集者、記者、弁護士の手伝い、広告取りなど様々な職業を経て、大正12年に『二銭銅貨』が新青年に掲載され作家デビューしました。
 大正15年から昭和2(1927)年にかけて朝日新聞に『一寸法師』が掲載しましたが、作品の出来に満足できず休筆を宣言、各地を放浪したと言います。
 これに味をしめたのか(?)乱歩は生涯に4度(昭和2年の『一寸法師』の後、昭和7(1932)年に全集が出て生活に余裕が出たので、昭和10(1935)年に『悪霊』が中断、『柘榴』が失敗したと、昭和16(1941)年頃から探偵小説が書けなくなったと)の大きな休筆して期間を持って、日本各地を旅行しました。
昭和3(1928)年休筆後に『陰獣』を発表、以降、『蜘蛛男』などのいわゆる通俗長編を発表します(いわゆるエログロナンセンスの時代に迎合したとも)。
 昭和11(1936)年に『怪人二十面相』を発表、子供たちに大いにうけてシリーズ化され、以降、乱歩は少年向けものも書くようになります。しかし、戦時体制が進むと検閲が強化されて、探偵小説への検閲の強化されて、昭和14年についに『芋虫』が発禁になりました。以降、探偵小説は少年向けですら執筆が無理になり、小松竜之介の名で子供向けの読み物や、検閲対象にならない論評などを行っていました。
 戦後は『宝石』の編集、経営に携わるとともに日本探偵作家クラブを創立、新人の発掘を行い、最晩年にはSFにも興味持ち、筒井康隆、矢野徹などの援助を行いました。

横溝正史(よこみぞ・せいし)

 明治35(1902)年~昭和56(1981)年。
 本名も横溝正史ですが、読みが「よこみぞ・まさし」です。
 神戸市に生まれ、大正9(1920)年に中学を卒業後、第一銀行神戸支店に1年ほど勤務してから、大阪薬学専門学校に入学、在学中の大正10(1921)年に『新青年』に『恐ろしき四月馬鹿』で応募、入選してこれが実質的なデビュー作とみられています。
 大正13(1924)年に大阪薬学専門学校を卒業、実家で薬剤師として働いていましたが江戸川乱歩の招きを受けて大正15(1926)年に上京、博文館に入社しました。
 翌年に「新青年」の編集長になり、『探偵小説』等の編集を務めながら創作、翻訳を続けましたが、昭和7(1932)年に博文館を退社、専業作家となりました。
 昭和9(1934)年に肺結核の悪化により長野での療養生活を送り、戦時下では探偵小説が制限を受けたことで捕り物帖などを執筆しています。
 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年に岡山に疎開、終戦を迎えた翌年、金田一耕助が登場する『本陣殺人事件』を執筆します。このことから、戦後の作品には岡山を舞台にしたものが多くみられます。
 昭和23(1948)年に東京に戻り、金田一耕助シリーズで有名な本格ものを重点に書くようになります。

明智小五郎(あけち・こごろう)

 生没年不詳。
 江戸川乱歩の創作した日本で最も有名な私立探偵の一人です。
 初登場の『D坂の殺人事件』では書生くずれの変わり者だったのですが、以降『心理試験』『屋根裏の散歩者』などで登場したときは小奇麗な探偵となっており、このときまでは警察に協力するなどではなく、犯罪の心理分析やただ謎を解く、真実を追求することが趣味のようなものでした。
『一寸法師』の後に3年間外遊、帰国後、最初に手掛けた『蜘蛛男』のときには外国趣味のダンディとなっており、警察にも協力をするようになっており、何よりも変装の名人となったりと活劇型の探偵となりました。
『D坂の殺人事件』(大正14(1925)年)ではD坂(団子坂)付近の煙草屋の2階に下宿していましたが、『吸血鬼』(昭和5(1930)年)のときには御茶ノ水の開化アパート(モデルとなったのは実在の『文化アパート』)へ引っ越してモダンなアパート生活を、『人間豹』では『魔術師』で知り合った文代と結婚したとあり、このときは麻布区龍土町の白い洋館で郊外生活を、戦後に登場する作品では麹町釆女町の『麹町アパート』に引っ越しており、明智は時代を反映する生活をしていたようです。

金田一耕助(きんだいち・こうすけ)

 大正2年~?(没年不詳)。
 横溝正史が創作した日本で最も有名な私立探偵の一人です。もじゃもじゃの蓬髪にくたびれたよれよれの袴姿がトレードマークとなっています。
 初登場は昭和13(1937)年に岡山で起きた『本陣殺人事件』(作品の初出は昭和21年)ですが、これ以前に探偵として大きな事件をいくつも解決しており、この時点で探偵としては有名だったようです。
 東北の生まれで昭和6(1931)年に上京、翌年には渡米しサンフランシスコで麻薬に溺れるなどした後、殺人事件を解決、このとき生涯のパトロンとなる久保銀蔵と出会っています。その援助を持ってカレッジに通い、卒業後に帰国、探偵事務所を開きました。
 昭和13(1937)年に『本陣殺人事件』を解決しましたが、昭和15年に召集を受けて中国に出征、ニューギニアのウェワクに転戦し終戦を迎えます。復員後、『獄門島』を始め様々な事件を解決しました。
 金田一の事件を記録したのは成城の先生となっており、その本業は探偵小説家です。

辰宮洋一郎(たつみや・よういちろう)

 明治15(1882)年~昭和11(1936)年。
 大蔵省の若き官吏で、帝都改造計画に加わり、明治末期から大正にかけての歴史の奔流を目撃します。
 震災後は、復興院事務官となります。
 明治40年に加藤と出会い、依童(よりわら)とされますが、洋一郎ではその役目を果たせず、果たして その役目は妹の由佳理へと受け継がれます。

辰宮由佳理(たつみや・ゆかり)

 明治22(1889)年~昭和23(1948)年。
 辰宮洋一郎の妹です。
 強度のヒステリー症状、乃至は霊能を有し、そのために奇怪な事件に巻き込まれてしまいます。
 精神を病んで森田正馬医師の治療を受けますが、帝都に巻かれた怨念と復讐の種子は彼女を通して不気味に開花します。

辰宮雪子(たつみや・ゆきこ)

 大正2(1913)年~昭和44(1969)年。
 辰宮由佳理の娘です。
 母である辰宮由佳理を凌ぐ霊能の持ち主で、魔人、加藤保憲の次なる陰謀の的となります。

辰宮恵子(たつみや・けいこ)

 明治28(1895)年~昭和69(1994)年。
 旧姓目方。旧中村藩、相馬に社を護り、平将門を祖に祀る俤神社の宮司の娘です。
 ある日、将門公の夢告を戴いて、帝都を護る者として昭和元年に辰宮洋一郎の元へと嫁ぎました。
 不思議な、霊的パワーを秘めた女性で、泉鏡花の言う「観音力」の持ち主です。あるいは、恵子を知る者達は、 彼女を「菩薩」だと言います。

鳴滝純一(なるたき・じゅんいち)

 明治25(1882)年~昭和73(1998)年。
 帝大の理科大学に席を置きます。同大の寺田寅彦と、また幸田露伴にも同じく師事しました。
 辰宮洋一郎の帝大以来の旧友で、怪事に巻き込まれた辰宮由佳理を助けようと奔走しますが、妹の変事に無関心な兄、洋一郎と対立します。

黒田茂丸(くろだ・しげまる)

 ?~昭和20(1945)年。
 二宮尊徳の仕法を世に広め、農本による地上の楽土を築こうとする(一種の魔術結社とも言える)報徳社の一員である、 風水師です。
 風水師とは地相占術を心得、龍脈を観る者達の事で、黒田は本場の香港へ渡ってこの技術を身につけたと言われています。
 後に大陸、新京へと渡り、そこで加藤と再び相まみえ、新京の崩壊を食い止めようと奔走します。

平井保昌(ひらい・やすまさ)

 ?~大正元(1912)年。
 土御門家の総裁である老陰陽師で、正しく最後の陰陽師です。
 鬼殺しの英雄、「源頼光」に協力した武者の名に同名の人物がおり、奇しくも明治の「羅生門の鬼」に 遭遇し、秘術を尽くして鬼、加藤と渡り合いますが、明治天皇崩御に接し自刃しました。

平将門(たいらのまさかど)

 ?~天慶3(940)年。
 平安期の関東最大の英雄です。あるいは、相馬小次郎、滝口小次郎とも名乗ったようです。
 天慶2年に関八州を制圧し、上野国府で新皇を名乗り、関東の独立国家化を宣言します。
 当然、朝廷側がこの様な事を認めるはずが無く、同3年に征討軍が派遣され、将門は下野押領使であった藤原秀郷(俵藤太)、平貞盛等に討ち取られ、さらに将門一門のほとんどが討ち取られます。
 討ち取られた将門の首は京へ運ばれ、七条河原で晒されます。見物人が市をなす程でしたが、首は腐りもせずにまるで行ける者のように色が変わらず、目を見開いたままで、しかも夜な夜な「斬られし我が体、何れの処にある。ここに来たれ!首を継いでいまひと戦せん」と呼ばわりました。
 その様子を見て取ったある人が、「将門は米噛みよりぞ斬られける俵藤太が謀にて」と詠んだところ、首はカラカラと笑い目を閉じましたが、その夜、首は体を求めて飛び上がり、東を目指して飛び去りました。
 京を飛び去った将門の首は武蔵国の辺りに落ち、夜毎に妖しい光を発し土地の者は何かの祟りかと恐れおののきましたが、それが将門の首と分かると、大己貴命を祀る社の傍らに手厚く葬ったと言われています。
 現在もなお大手町のビルの一角に残る将門首塚は、すでに千年間、東京の中心を鎮護し続けています。

安倍清明(あべのせいめい)

 延喜21(921)?年~寛弘2(1005)年。
 平安中期最高の、あるいは日本最高の陰陽師です。官制魔道の宗家「土御門」家の開祖でもあります。
 賀茂忠行に天文学を学び、異常な才能を発揮したため、天文の奥義を授けられ、それまで賀茂家が独占していた陰陽道の秘術である歴道、天文を二分し、天文の安倍(土御門)、歴道の賀茂となります。
 天徳4(960)年に天文得業生として初見し、以後天文博士、主計権助、大膳大夫などを歴任します。
 当時、霊的コンサルタントとして皇族や貴族、民衆の間から絶大な信頼と人気を集めていました。
 その絶大な技量を示す説話として、『大鏡』には天変を察知し、花山天皇の退位を予言したあります。
 また、一説には信太の狐の子とも言われ、長じては芦屋道満と技くらべを行ったとも言われています。

加藤保憲(かとう・やすのり)

 ?~昭和73(1998)?年。
 陸軍少尉、後に中尉となっています。また、大陸に渡った後、軍を出奔、現地の馬賊に身を投じたとも言われています。
 本人は紀州、龍神村の出だと言いますが、果たして大陸で作戦を共にした将校は、加藤が寝言で朝鮮語を口走ったと言われています。
 その背後には朝鮮、支那の魔術結社が見え隠れしますが、果たしてこれらの結社は加藤が一時的に協力、あるいは利用しているに過ぎません。
 平時より五穀断ちを実践し、帝都に怨霊を呼び、古来最も恐れられた呪殺の秘法「蠱術」を使い、陰陽道、奇門遁甲に通じ、目に見えぬ鬼「式神」を操ることに長じる真正たる呪術師で、「清明判」、加藤が言うには「ドーマンセーマン」の紋を頂きます。
 帝都の命運はこの怪人物の手に握られています。