大地返歌事件 その他の情報

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その他の情報

 シナリオにおけるその他の情報です。
 随時、探索者へ提示してください。

  1. オペラ座館
  2. 当時の浅草オペラ
  3. ボッカチオ
  4. その他のオペラ
  5. 活動写真
  6. ドン
  7. 監獄
  8. 公園彷徨者
  9. 船頭小唄

オペラ座館
 浅草の中規模の劇場です(もちろん、架空の劇場です。ちなみに、大正5年頃にはオペラ館という劇場、オペラ座という劇団は存在していました)。
 オペラブームの当時に建てられたのですが、震災の前、大正の終わり頃にはすでにオペラブームは去り、活動写真が浅草の中心となっています。
 オペラ座館、とは言いますが、オペラ専門の劇場ではなく、その他にもミュージカル、演劇も上演されています。
 内部は昔ながらの芝居小屋ではなく、小さいながらもオペラ座を意識しており、座席がちゃんとあるタイプの劇場です。
 また、一応ながらボックス席を用意しています(かなり狭い席ではありますが)。

当時の浅草オペラ
 当時、震災直前の浅草オペラはすでにあまり流行っていません。
 高級な(?)オペラを行っていたのは金龍館のみであった、という資料もあり、その他のオペラを出し物にしていた劇場は、 低俗なレビューショーに流れるか、活動写真へ移行していました(活動写真の方が客も取れ、経費も安いので)。
 この時代のオペラは、有名な金龍館で、午後、夜間の2回、出入り自由、となっていました(入れ替えなし!)。

ボッカチオ
 オーストリアのフランツ・フォン・ズッペ(スッペの表記もあり)により1897年にウィーンで初演、 日本では大正4(1915)年に帝国劇場で上演されました。
 元々はオペラ(オペレッタ)にありがちな格調高い調子のものでしたが、庶民の娯楽の町である浅草に移り、 翻案を得た結果、なんとも親しみ易い(?)ものとなりました。
 この『ボッカチオ』は田谷力三のボッカチオ、安藤文子のフィアメッタで、そしてフィアメッタの歌うアリア「恋はやさし」が大ヒットしました。

 オペラの内容としては、オペラによくある不倫、勘違いによるぐだぐだな愛憎劇です。
 最後は王子からボッカチオに婚約者を譲ってめでたしめでたしとなります。

登場人物
 ジョヴァンニ・ボッカチオ…小説家(Br)
 ピエトロ…パレルモの王子(T)
 スカルツァ…床屋(B)
 ベアトリーチェ…スカルツァの妻(S)
 ロッテリンギ…桶屋(T)
 イザベラ…ロッテリンギの妻(S)
 ランベルトゥッチョ…雑貨商(T)
 ペロネラ…ランベルトゥッチョの妻(A)
 フィアメッタ…ランベルトゥッチョ夫妻の養女(S)
 レオネット…学生。ベアトリーチェの不倫相手(B)

・恋はやさし
(小林愛雄訳詞、ズッペ作曲)
恋はやさし野辺の花よ 夏の日のもとに朽ちぬ花よ 熱い思いを胸にこめて
疑いの霜を冬にもおかせぬ わが心のただひとりよ

・ベアトリ姉ちゃん
(小林愛雄訳詞、ズッペ作曲)
ベアトリ姉ちゃん まだ寝んねかい 鼻から提灯出して ベアトリ姉ちゃん
何言ってるの ムニャムニャ寝言なんか言って 唄はトチチリチン
トチチリチンツン 唄はトチチリチン トチチリチンツン
唄はトチチリチン 唄はトチチリチン こだまするまでも

その他のオペラ
 こちらを参照してください。
 →オペラ、オペレッタ

活動写真
 こちらを参照してください。
 →活動写真

ドン
 いわゆる午砲のことで、明治初期から皇居で毎日正午に空砲を撃っており、これがドンと呼ばれていました。
 また、土曜日は、この午砲で仕事が終わることから、一日の半分で仕事を終えることを半ドンと呼ばれるようになります。
 なお、昭和4(1929)年には経費の問題からサイレンに変わってしまいました(最初は陸軍が行っていたのですが、これも経費の問題から大正11(1922)年に撤退、東京市が引き継いでいます)。

監獄
 大正12(1923)年に監獄から刑務所に名称が変更されています。
(これまで監獄は、懲役監、禁錮監、拘留場、拘置監であったのが、刑務所、懲役所、禁錮所、拘置所になっています)
 これらの経緯にはお役所の変更やら、様々な名称変更があってのうえのことですが、なかなかに入り組んでいますので、 興味のある方は調べてみてください。

公園彷徨者
 こちらを参照してください。
 →浮浪者

船頭小唄
 大正10(1921)年に、民謡「枯れすすき」として野口雨情が作詞し、同年に中山晋平に作曲されて「船頭小唄」が成立します。
 大正12年(1923)年に、様々な歌手、女優から歌が吹き込まれ、レコードが発売されて大ヒットを見、さらには同じタイトルを持った映画まで作成されました。
 暗鬱な歌詞と、ヒットした年に丁度関東大震災が起こったことにより、震災を予知したのだ、とまで言われています。
 この後、添田唖蝉によってアレンジされたり、戦後にも映画の主題歌になったりと日本人の情緒に訴え、哀愁を持って迎えられるヒット曲となりました。