帝都の文化、風俗、その他の帝都

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『帝都の文化』目次:
 大正期の文化、風俗、生活、そしてその他の帝都の話題を紹介します。
 まあ、生活にかかわる雑多な項目あり、帝都における出来事ありのなんでもあり、どうでもいいような項目も含めたその他です。
 また、あえて普通選挙法と治安維持法、原敬の暗殺には触れていません。特に説明の必要はないかな、と感じたからです(まあ、護憲運動には触れていますが)。
 犯罪に関わる事件や、警察関連等の項目は、こちらの大正の事件を参照してください。

当時の服装

 明治期より盛んに欧化が叫ばれ、服装などにもそれを推し進めようと、政府は官吏の制服として洋服を用いました。
 しかし、実際には洋服を着るのは役所や会社、工場などに出勤する場合がほとんどであり、仕事着として扱われていました。
 仕事に行くときは洋服だが、家では和服、などというのが実態で、洋装はそうそう定着せず、大正10年、それら流行の最先端の街であった銀座での調査でも、男性の50%が、女性ではわずか1%が洋服を着用するに止まりました。
 女性のほとんどは和服を着ていましたが、それでも社会に進出して働く職業婦人と呼ばれる女性達が徐々に増え、洋服を着はじめます。洋服を着ない人も、きものの上から事務服を着て活動しやすくしました。
 和服にエプロンなどというのはカフェなどで見られた服装で、実際は和服に襷掛けでエプロン、という不便なものであったため、割烹着が登場したのもこの時期です。
 また、女学生などの袴にブーツなどという和洋折衷の服装がそれなりに定着した時期であり、また明治期の様な珍妙な服装も減った時期にあります(当時の人から見れば袴にブーツでも十分に珍妙に見えたようですが・・・)。
 大正後半ともなると、学校の制服などにセーラー服の洋服が採用されたり、銀座の街にはモボ、モガが現れました。

浅草六区

 浅草六区の興行街には劇場、映画館、寄席などが20軒近くも軒を並べており、兵隊や、丁稚、学生、書生などで賑わっていました。
 明治36年に国内初の活動写真常設館として、電気館が開館、以後大正のオペラなどへと続いていきます。
 明治20年からという老舗劇場「常盤座」の右隣に明治43年開業の後に浅草オペラで有名な「金龍館」が、大正2年に左隣に洋物封切りの活動写真館(映画館)「東京倶楽部」がオープンします。
 そして、この廊下で繋がった三館を10銭で楽しむことができる「三館共通」システムは大正3年に始まりました。
 また、オペラ館、帝国館、電気館、千代田館、大勝館など活動写真館が多く、通常の封切館では20銭であったところ、六区では軒並み7銭で、六区の興行街は連日のように賑わっていました。
 これらの活動写真館は、まず一本目が実写、次に滑稽物、そして最後が大物と呼ばれる劇映画の順に上映されるのが基本で、二本目と三本目の間に休憩演奏がありました。
 この休憩演奏は、オペラの序曲、管弦楽曲から世界各国の流行歌まで幅広く演奏され、活動写真館に詰め掛けた青年たちに大きな影響を与えました。
 当時、活動写真は無音であり、活動写真弁士(略して活弁と呼ばれます)が独特の活弁調の台詞、音調で解説などを行うものでした。
 また、活動写真と言う名は、大正6年に活動映画と改められています。

 「浅草十二階」の名で知られる凌雲閣は明治23年に完成で、八角形の塔の形をした建物内部には、日本で最初の電動式エレベーターも設置されています。
 10階までは煉瓦造りで、11、12階は木造で、エレベーターは8階まで通っています。その8階までは、各階に輸入品を扱う店舗が50件近く入っており、ちょっとした百貨店の様相を呈していました。
 最上階の12階には望遠鏡なども設置されており、凌雲閣がオープンすると帝都を一望しようという人々が大勢集まりました。
 観覧料は大人8銭、子供4銭で、階上からは遠く品川方面までも見晴らせ、またその威容は上野の山や神田のニコライ堂からも望むことができたといいます。
 凌雲閣は大正12年の震災により、8階部分から倒壊してしまいました。

 また、浅草公園付近は有名な私娼窟で、犯罪者の隠れ家にもなっていたことで有名です。
 これらの発展を当局が厳しく取り締まっていましたが、あまり大きな効果を上げることはできず、結局関東大震災のどさくさ紛れるまで撲滅できなかったようです。

 その他、浅草の詳細はこちら

カフェなど

 現代においてカフェと言うとコーヒーや紅茶、軽食を提供する場を思い浮かべますが、大正の当時は洋食にアルコールも提供していました。
 コーヒーや紅茶などはすでに明治初期のころから知られていましたが、ブラジル政府のコーヒーの宣伝などもあり、明治後期より普及し始めます。

ミルクホール

 明治初期に欧化政策の一環として国民の栄養改善として牛乳を飲むことを推奨し、明治天皇が日に二回飲んでいるとも宣伝されたこともあり、国民の間に牛乳を飲むことが流行し始めました。
 ミルクホールは明治中期から出現し始めた、主に牛乳や紅茶、パンを中心とした軽食や洋菓子を提供する店です。
 安価で、新聞雑誌を無料で読めるように提供したこともあり、本郷などの学生街に多かったと言われています。また、現代と同じく汽車待ちの客を狙って駅の近くにも多く見られたようです。

カフェ

 日本で最初のカフェは明治41(1908)年に大阪でオープンした「カフェ・キサラギ」であるといわれていますが、帝都では京橋区に明治44(1911)年に「カフェ・プランタン」が一番最初です。
 これは帰朝した洋画家の松山省三がヨーロッパのカフェを懐かしんで作ったもので、会員には画家、作家の著名人が多数を占め、文化人のサロンとなりました。
 プランタンのオープンを皮切りに、銀座を中心にコーヒーやアルコール、軽い洋食を出すカフェが相次いで登場し、和服に大きな白いエプロンをかけた若い女給がサービスすることから人気を呼びました。
 カフェの女給の多くはなんと無給(!)で、客からもらうチップなどが主な収入だったと言われています。
 震災前は美人の女給を揃えて給仕をさせる程度でしたが、震災後になると、関西方面から客の隣に座って酌をしたり、さらにそれ以上のサービスをさせる店が流行し、キャバレー化が進みます。この結果、昭和8(1933)年は特殊喫茶(風俗営業)として警察の管轄化に置かれることになります。
 これらの風俗的なカフェと区別する為に、純喫茶と言う言葉も生まれました(ただ、これも諸説あり、喫茶以外の例えば音楽などを聞かせた喫茶店と区別する為に、純喫茶といわれたとも)。

ビヤホール

 ビアホールが登場したのは明治30年代で、それまでのビールは輸入品が中心であまり美味しくなかったのですが、明治20年代に国産で安価で美味しいものが出て、大戦景気やビアホールの登場によりビールは他の洋酒を圧倒し、清酒に迫る勢いでした。
 現在のサッポロビールの元である日本麦酒が明治32(1899)年に、銀座に恵比寿 BEER HALL(ビアホールの名称を使ったのは日本最初)を開業し、当時では珍しかったカウンター方式や、ガラスのジョッキを使用し、大盛況であったと言われています(ちなみに、500mlで10銭という価格でした)。

 製造会社の直営店以外の情報が少なく、大都市以外にビアホールがどれぐらいあったのかは不明です。
 大正期においてビール自体は珍しいものではなくなってきていますが、ビアホールではいわゆる生ビールを飲ませることが売りの一つであることを考えると、基本的には製造工場の近くにのみビアホールが存在していたと思われます。

バー

 日本のバーは横浜開港と同時に始まったと言われており、横浜居留地の横浜ホテル中に出来たものが最初だと言われています。
(さらにこれらと同時に、外国から様々な洋酒の輸入が開始されています)
 洋風のバーは大正期ではカフェがバーを兼ねていた状況であり、またいわゆる銘酒屋、一杯売りがバーのような機能を果たしていたようです。
 明治13(1880)年にすでに浅草で電気ブランで有名な神谷バーが開業しています(当時はバーではなく、かみはや銘酒屋と言い、明治45(1912)年に神谷バーと改称しています)。

金色夜叉

 金色夜叉は、明治30年から5年半にわたって読売新聞に連載された尾崎紅葉の代表作で、単行本化されるや、たちまち大ベストセラーとなりました。
 内容としては、第一高等中学校(旧制一高の前身)の生徒・間貫一と鴫沢宮は婚約していましたが、宮の両親は、それを諦めさせて銀行家の息子・富山唯継に嫁がせます。貫一は、宮が金に目がくらんで心変わりしたと思い込み、守銭奴になる・・・といった、現在ならば午前1時半から2時ごろにやっている類です(失礼)。
 明治末期に多く舞台化され、歌は大正5年に作られました。

成金と新中間層

「成金」も大正時代の流行語の一つです。
 戦争成金、船成金、その他、株、鉱山、鉄、土木・・・上げればきりがないほどで、第一次世界大戦による戦争特需は成金を多く輩出しました。
 中でも成金族の御三家は、鉱山の久原房之助、船舶の山下汽船、貿易の鈴木商店で、官尊民卑の大正時代でも彼らの勢いは役人の比ではなく、数々の逸話が残っています。
 これらの成金族も大戦の景気がはじけるとともに凋落し、歩に戻るものが多くでてきます。

 大戦の景気の影響は都市部のサラリーマンにも及びました。
 これらのサラリーマンは、腰弁(腰に弁当をぶら下げる)、 洋服細民、月給取りと呼ばれる「新中間層」の代表となります。
 これと同時に、地味な色の背広が仕事着として流行り、第1次世界大戦の好景気に乗って増えた人口により、現代のようなラッシュアワーが生まれました。
 生活水準の向上したサラリーマン達は、ホワイトカラーと呼ばれる新中間層となり、プチブルを気取り、ファッション、文化住宅、洋食文化などといった言葉も流行ります。

大失業時代

 大正期の前半は戦争の特需に浮かれ、バブルさながらの景気でしたが、戦争が終わり軍需景気が終わると、日本は一気に不況へ転落、成金も歩に戻ります。
 一時は政府が国庫を放出し、だましだまし景気が保たれていましたが、大正9年の「戦後恐慌」、11年の「銀行恐慌」、12年の「震災恐慌」、 昭和2年の「金融恐慌」と続き、果ては昭和5年の「大恐慌」と底無しの泥沼状態です(現在に似てる気もしますがね(苦笑))。
 これらの恐慌は、労働者に失業という形で襲い掛かります。
 極端な話、社員の半分、ほぼ全員を首切りにするなどの記事も当時の新聞紙上には躍っています。
 大正8年1月の休戦協定より労働者の解雇が目立ち始め、同年9月には5万5千人と報じられ、続いて国際軍縮により国内での兵器需要が激減、大正11年には失業者総数は80万人と言われています。
 これらで職を失ったのはなにも工場労働者だけではありません。「大学はでたけれど」が流行語になるのは昭和のはじめですが、東京府の労働紹介所(現在の職安?)には、大学や士官学校卒の高学歴の者も並ぶ有様でした。
 この大失業時代に、労働組合などが政府に失業者救済や雇用創出などの失業対策を迫るとともに、様々なデモ、大会を開き、窮状を訴えました。

東京大正博覧会

 上野にて、大正天皇の即位奉祝と産業振興を目的に東京大正博覧会が大正3年に開催されました。
 日本初の「動く階段」エスカレーター(乗るには10銭が必要でした)と、不忍池に設置されたロープウエー、快進社の国産小型乗用車「DAT-1号」(後のダットサン)などが展示され話題を呼びました。また、美人島探険館なる、水中美人、幽霊美人、蛇体美人などと言う檻の中に入った美人を見て回るものもありました(詳しい資料がありませんので、詳細は不明ですが、なんとなく江戸川乱歩のかほりが(笑))。
 大正3年3月20日~7月31日までの約4ヶ月の開催期間の間に、日延べ5万人、合計746万人もの入場がありました。
 しかし、会場内には紙屑が散乱し、落書きの類も絶えず、3月21日の『時事新報』などは、「館外道路の不体裁夥しきものにて、塵芥掃除の行届かず、屋後便所の不潔、落書の醜怪、是が開会の第一日とは如何しても受け取られず」と報じています。

護憲運動

 日露戦争後の、植民地経営、軍備拡張路線の為の増税や、外資導入などにより財政が窮迫、国民への生活へ大打撃を与えました。
 これにより、増税に反対し、普通選挙の実施などを求める運動が盛んになりました。
 大正元年の第二次西園寺内閣の行財政の引き締め政策と、陸軍の師団増設が激しく対立、当時の陸相上原勇作が単独で辞職し、後任が決まらずに西園寺内閣は総辞職に追い込まれました。
 その後を陸軍の実権を握る桂太郎が組閣しますが、この藩閥専制に対して第一次護憲運動が起こります。
 政友会の尾崎行雄や国民党の犬養毅を担ぎ上げ憲政擁護会を結成、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに第一回大会を開催し、運動は全国に波及しました。
 これらの動きに対して桂は詔勅による内閣不信任案の撤回を謀りましたが、この桂の詔勅を盾に取ったやり方に民衆は猛烈に反発、暴動が起こり御用新聞社および政府よりの新聞社、与党代議士宅、交番、警察署などを襲撃、焼き討ちにしました。
 騒動は帝都に留まらず、大阪、神戸、広島、京都にも拡大し、各地で暴動が起こっています。これらの暴動は最終的には軍隊が出動し、鎮圧されました。
 結果、桂の内閣は総辞職に追い込まれました。

アインシュタイン来日

 大正11年11月17日にアインシュタインが来日、19日に慶応の中央講堂で『一般性及特殊性相対原理』を公演しました。
 この他、仙台、京都、大阪、福岡などで公演を行い、前年にノーベル物理賞を授賞したばかりのアインシュタインは各地で熱狂的な歓迎を受けました。
 アインシュタインは12月29日に門司から榛名丸で帰国しました。

カチューシャの歌

 カチューシャとは、大正3年に帝国劇場で上演された『復活』(原作トルストイ)のヒロインです。
 これを松井須磨子が演じ、序幕と四幕の幕切れに「カチューシャ可愛や別れのつらさ」と歌われる劇中歌「カチューシャの歌」が大流行しました。
 大正3年に『復活』は映画化され、また翌4年には「カチューシャの歌」がレコード化、片面レコード一枚1円50銭、蓄音機すら珍しい時代にも関わらず、大正4年だけで二万枚(トータルで二十五万枚)も売れました。
 なんとこの『復活』の上演回数は大正8年に松井須磨子が自殺するまでに、444回にも及んでいます。

銀ブラ

 銀ブラには諸説あり、明治末期から文化人が、あるいは大正中期から学生などが、「銀座をぶらぶらしている」「銀座でぶらぶらする」ことを指して、銀ブラと呼ぶようになります。
(これに対して、カフェ・パウリスタが、自店で出しているブラジルコーヒーを引き合いに出して、銀ブラとは「銀座でブラジルコーヒーを飲むことだ」とも主張しています)

 人々は仕事や学業を終えると交通機関や徒歩で銀座に出て、夜店を冷やかすなり、買い物飲食にそれぞれの夜を過ごしていました。
 またそうでなくとも、都市の先端を行く都会の空気に触れたい中間層が集まってきました。
 また、銀座の西側を歩くのが銀座通と言われ、露天の出る東側を歩くのは田舎者と言われています。

帝都の埋葬事情

 まず、明治7(1874)年に、「火葬禁止令」が廃止されています。しかし、実際には火葬は一般的ではなく、相変らず土葬が中心だったようです。
 さらにその後、明治17年に「墓地及埋葬取締規則」が出て、埋葬に関する法律が整理されました。
 大正に入っても相変らず土葬が一般的で、大正末期より都市部に火葬場が建設され、火葬も一般的になってきたようです。
 また、明治7年に造成された、青山、谷中、雑司ヶ谷、染井などの公営墓地が一杯だ、と大正4年に報じられます。
 その為、大正12年に多磨墓地が作られ、ここに火葬場も備え付け、面積を取る土葬から火葬への以降が始まります。
 ちなみに、東京市はこれらの墓地の永久使用料として、1坪あたり1等6円、2等3円、3等1円50銭、4等60銭として貸与しました。
 言うまでもないことですが、埋葬方法は宗教によって異なりますので、なにも土葬ばかりだった、というわけではありません。

東京節

 東京節という名称よりも、『パイノパイノパイ』で親しまれた大正期に大流行したコミックソングです。
 大正8(1919)年に、添田唖蝉坊の長男、添田さつき(本名知道、当時18歳)が作詞し、曲については『ジョージア・マーチ』を拝借したものです(そのお陰で、ジョージア・マーチの練習をしていた楽隊が、『そんな卑俗なものを流すな』と苦情を受けたとか・・・)。
 レコードに吹き込まれるや、爆発的な売れ行きを見せました。
 いろいろとアレンジか、あるいは追加、削除、入れ替えがあったようで、どれが決定版かは不明ですが、「東京の中枢は~」で始まるのが1番では間違いなく、「東京で繁華な浅草は~」で始まるものが含まれるようです。
「東京の中枢は丸の内」「東京で繁華な浅草は」は東京の名所案内ですが、それ以外は世相や政治を風刺した内容となっており、かなりブラックな内容となっていました。
 現代でも替え歌が歌われることもあり、一度聞いたらなかなか忘れがたいメロディと歌詞となっています。本来の歌詞は以下のようなものですが、その時々で替え歌が歌われたようです。

1番
東京の中枢は丸の内 日比谷公園 両議院
粋な構えの帝劇に 厳し館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門 海上ビルディング 東京駅
ポッポと出る汽車 どこへ行く
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

2番
東京で繁華な浅草は 雷門 仲見世 浅草寺
鳩ボッポ豆売るお婆さん 活動 十二階 花屋敷
すし おこし 牛 天ぷら なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに 乞食に カッパライ
ラメチャンタラ ギッチョンチョンで パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

※『大正野球娘』のアニメ版では、乞食が喧嘩になっていました。

3番
稼いでも稼いでも喰えないに 物価はだんだん高くなる
物価は高いのに子はできる できた子供が栄養不良
いやにしなびて青白く あごがつんでて目がくぼみ
だんだん細くやせてゆく
日本米は高いから パイノパイノパイ
南京米や朝鮮米で ヒョロリヒョロリヒョロリ

4番
東京で自慢はなんですね 三百万人うようよと
米も作らずに暮らすこと タジれた市長を仰ぐこと
それにみんなが感心に 市長のいうことをよく聞いて
豆粕食うこと 痩せること
シチョウサンタラケチンボで パイノパイノパイ
洋服も ツメエリで フルイ フルイ フルイ

5番
東京の名物満員電車 いつまで待っても乗れやしねえ
乗るにゃ喧嘩腰いのちがけ ヤットコサとスイタのが来やがっても
ダメダメと手を振って 又々止めずに行きやがる
なんだ故障車か ボロ電車め
シチョウサンタラケチンボで パイノパイノパイ
洋服も ツメエリで フルイ フルイ フルイ

6番
東京にも裏には裏がある 鳥も通わぬ島というが
おてんとさまも影見せぬ 暗くて臭くて穴のよな
犬の小屋かと思ったら どういたしまして人間が
住んでおります 生きてます
衛生論も 体面論も パイノパイノパイ
パリコト パナナで フライ フライ フライ

大正期の玩具

 ブリキ(錫を鍍金した鋼板)の玩具は明治期より存在し、その時代時代を反映しました。
 明治期には鉄道や馬車が流行り、大正期には飛行船や自動車と言ったもの、戦時には兵器の類といったものが作られました。
 ブリキで細かいデテールまで作られた高級品から、塗装した箱に絵を描いただけの安価なものまで幅広く存在いしています。
 明治期、大正初期は玩具は舶来品が多く、大都市圏でないと手に入りにくいものでしたが、主な輸入先であったドイツが戦争に敗北したことにより、商品が滞り、国内での生産が伸びることになります。

 昭和期までのように駄菓子屋で、簡易な木製、紙製の玩具が販売されていました。
 ブロマイドの類も写真の普及と共に扱われるようになり、大正中期から後期には駄菓子屋で流行のスターのものが買えたようです(スターというよりかは、子供が喜びそうな役者?)。
 小さな弓矢や、パチンコも扱われており、子供が扱うには少々危険なものがありました。中にはこれらを禁止する学校もあったようです。
(キーパーの判断で、駄菓子屋で間に合わせの武器が手に入るのも面白いかもしれません)
 駄菓子屋は文字通り、簡易なお菓子、金太郎飴、金平糖、鉄砲玉、金華糖、げんこつ棒、芋羊羹、餡子玉、麩菓子、紅梅焼き、黒パン、かりんとう、おこし、カルメ焼き等を扱っている他、一銭玩具とも呼ばれる玩具も扱っていました。
 駄菓子屋は子供の社交場とも言える場であり、同時に賭場でもあった為、ベーゴマやメンコを本気で勝負するときは殺気立った場面もあり、学校の先生方の手入れもあったようです(笑)

 ヨーヨーは昭和初期に海外から伝えられたものですが、江戸期に中国から同じようなものが伝わっていたこともあったようです。
 剣玉は同じく中国から大正末期から昭和初期に伝わっており、日月ボールの名で流行しました。

 今日でも見られる着せ替え人形等の遊びは、江戸期からもある人形を使った遊びなのですが、この人形自体が結構な高級品である為、庶民のものではありませんでしたが、明治期に入ると印刷した紙を切り取って、同じく紙の絵の人型へ着せ替えるというスタイルの遊びが出てきます。
 大正期には舶来の人形が流行し、横にすると目を閉じるものや、全身が布製でぶらぶらするので「ブラブラ人形」と呼ばれるもの、そしてキューピーちゃんも大正期に流行(?)しています(キューピーちゃん自体は明治期にアメリカで作られたものですが、昭和初期には日本で生産、輸入商品が主流となっています)。
 また、セルロイドの人形もこの頃に作られ始め、いわゆるマスコミ玩具と呼ばれる、新聞などに掲載された漫画のキャラクターなどの玩具が人気があったようです。
 また、ゼンマイで動くものもあり、昭和期には複雑に動くものが考案されました。
 生活用品のミニチュアのままごとセットの類も明治期より玩具として人気があり、やはり時代時代を反映したものが作られました。
 これらの玩具は原料が陶器、木からブリキ、アルミ等へ移り変わっていくのも、時代が反映されています。

 日露戦争の頃から、男の子の間では戦争ごっこ、兵隊ごっこが流行し、これに使う木製の銃を模した玩具も流行りました。
 また、紙火薬でパンパンと音を出す拳銃も大正期には存在し、一時禁止されるようなこともあったようです。

 肥後の守と呼ばれる、折りたたみナイフが大流行しました。
 背景には鉛筆の登場による、自身でそれを削る必要がある為でしたが、それ以外にもやはり刃物を持ち歩く、あるいはそれを使って自身の望むものが作られる、ということが男心を擽ったようです。
 この肥後の守は、戦後の昭和期になるまで、男の子の魂のようなものでした。

 明治末期から昭和初期の掛けて、折からの出版ブームも手伝って少年向けの小型講談本が多く出版されました。
 中でも有名なのが立川文庫で、本文は総ルビ、挿絵なしといったものでしたが、水戸黄門や、真田十勇士等の忍術ものを多く出版しました。
(この真田十勇士は、最初は真田三勇士で、猿飛佐助、三好晴海入道、由利鎌之助の3人だったところを、人気が出たので他の7人を増やした、という今の少年漫画的なものでした。また、徳川家康を悪役にしたことも、人気の理由の一つだったようです)
 これらの小型講談本は、大正末期から登場した少年雑誌に座を明け渡し、その役目を終えました。

紙芝居

 戦後まで続く、街頭での紙芝居の起源は不明です。
 最初期の頃か、あるいはすでに江戸期に紙で出来た人形で芝居を行なうものであった為、『紙芝居』と呼ばれたとも言われています。
 有名になったのは、昭和5年に『黄金バット』の空前のヒットから、ということはよく知られています。

 いわゆる大道芸の一種であり、本来的には飴等を売るのが目的です。
 自転車に紙芝居を載せ、街頭で拍子木を打って人を集め、飴を売り、人数が集まれた開始を告げるというスタイルが一般的で、主に子供達が紙芝居に親しみました。
 これらの紙芝居は、入場料代わりに飴等を買うと見られるというもので、その回の山場で終了し、続きは後日、というスタイルが一般的でした。
 紙芝居は子供が小銭を持っている、というのが一つの前提なので、農村部などの田舎ではあまり見られず、都市部でよく見られたと言われています。

 これらの紙芝居は初期の頃は、漫画に対抗したような路線であり、エロ、グロといった要素を含んだものが少なくなく、エンターテイメントとしての紙芝居と言えるものでしたが、昭和の戦時となると戦意高揚、国威発揚といったものとなり、戦後は教育的要素を含むものへと変化していき、次第に廃れていきました。

 この紙芝居を、独特の調子を持って語る紙芝居屋が有名ですが、これらは、昭和初期の頃、トーキーの登場によって職を追われた活弁士が鞍替えした人々が混じっており、あの独特の調子が紙芝居に受け継がれたのでした。
 また、紙芝居の裏面にはその場面が何か、ということがさらっと書かれているだけで、詳しい台詞等は無く、紙芝居屋が勝手に組み立てる為、語る人間によって内容に差異があることは珍しくありませんでした。そして、活弁士などのプロが語った紙芝居は、子供はもちろん、大人にも人気を博したのでした。

 また、この大正期、昭和初期は多くの雑誌、特に漫画を掲載する雑誌が刊行され、その中で、漫画から紙芝居へ、紙芝居から漫画へと発展したものも多かったようです。
 著作権の問題意識が薄かったこともありますが、アメコミのようにストーリーと絵を描く人は別、ということも多く、出版社がなんとなく利権を持っていた、という状態であった為、同じシリーズを別の作者が書く、というようなことも多かったようです。

 これらの紙芝居の流通ルートも不明な点が多いのですが、いわゆるテキヤのルートに乗って流通したと言われています。
 紙芝居は基本は手書き、その写しであり、厚紙にニスを塗って保護しただけ、というものが多かった為、使用による損耗が激しいとともに、簡単に損壊してしまうものであった為、現存しているものが極端に少ないようです。
 紙芝居、漫画についても起源が様々に言われていますが、一般的には絵解きや、覗きカラクリ、ポンチ絵が起源であり、それを連続的にしたものがそうであると言われています。

 紙芝居で有名なのは、昭和5年の『黄金バット』です。
 黄金の骸骨に赤マント、というインパクトのある格好で、同じような奇怪な敵と戦う、と言うものですが、これは『オペラ座の怪人』を参考にしていると言われ、また、名前に関してはタバコの『ゴールデンバット』が元だと言われています。
 黄金バットは、その前作として『黒バット』という白骸骨に黒マントという怪人の活躍を描いた紙芝居が好評であった為、その黒バットを倒すために現れたのが、黄金バットです。
(この黒バットについても様々ないわれがあり、オペラ座の怪人や、ジゴマがモデルだと言われています)
 この黄金バットは戦後に漫画、実写映画、アニメまで作成されています。

ラジオ放送

 大正14(1925)年、3月22日午前9時30分、東京芝浦にある東京放送局(NHKの前身)仮放送局から日本初のラジオ放送がなされました。
 この試験放送の電波の出力が弱く(220Wとのこと)、東京市内でなければよく聞き取れないものでした(本放送時は1KW)。
 以後、試験放送、仮放送とし、7月から本放送が行なわれました。
 受信契約数は最初期でわずか3500世帯ほどでしたが、大正14年中には大阪、名古屋でも放送が始まり、全国で25万世帯、昭和4(1929)年に65万世帯と言われています。
(この時代から、家庭にラジオがあるので受信料を払ってね、という料金徴収スタイルがあったのかは不明です)

 最初のラジオは、イヤホンで聞くものでしたが、いわゆるラッパ型ラジオ(蓄音機のようなラッパが外に出たもの)といわれるスピーカーの付いたものが出現し、これの普及に伴い、一家団欒の場でラジオを聴く、というスタイルが家庭に現れます。
 また、昭和6(1931)年の満州事変が起こった時、日本で初めての臨時放送が流れ、これを機会に国防の観点からもラジオを推奨する、ということもあったようです。

 詳しい時期は不明ですが、ラジオ放送の開始とともに新聞や雑誌にラジオの放送番組予定が載る様になっていたようです。
 当時の番組は、大体以下のようになっています。

 ・天気予報
 ・株式市況
 ・今日の献立
 ・正午の時報
 ・ニュース
 ・音楽(クラシックからジャズまで、当時あった音楽のほぼ全てと、謡曲、長唄等の古来のものまで)
 ・音楽の解説(上記の解説付きの番組)
 ・落語
 ・ラジオ劇(今で言う(絶滅しかかっていますが)ラジオドラマ)
 ・英語講座等の教育番組(現代のNHKに近い、趣味の教養番組もあったようです)

 ほぼ今のNHKと変わりないような内容が、8:00~21:30頃まで放送されていたようです。
 なお、ラジオ体操は昭和2(1927)年に開始されていますが、現代の「ラジオ体操第1」は、戦後の昭和26(1951)年からです。

戦前のテレビ

 日本で実際にテレビ放送がなされたのは戦後、昭和28(1953)年のことです。
 今やブラウン管テレビは絶滅の観を呈していますが、ブラウン管は明治29(1897)年にドイツの物理学者カール・フェルディナント・ブラウンが発明しています。
 大正15(1926)年に浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の助教授の高柳健次郎が世界で初めてブラウン管に映像(「イ」の文字)の投影に成功、昭和3(1928)年には人物の映像の送信に成功しました。
 昭和5(1930)年にテレビ研究に大きな転機が訪れます。静岡に昭和天皇が行幸の際、テレビの投影実験(天覧実験)が行われ、この結果、高柳は助教授から教授へ昇格、テレビ研究の予算が計上されるなどして大幅に研究速度が上がりました。
 以降、高柳は着々と成果を上げ続け、昭和12(1937)年には昭和16年に開催予定だった東京オリンピックのテレビ中継が計画され、NHKの技術研究所の部長として出向、浜松高工から120名にも上る研究を引き連れたと言われています。この計画は昭和14(1939)年に東京一円に電波を飛ばす公開実験まで成功、これを見越して東芝・日本電気が受像機を作成しました。
 しかし、東京オリンピックは返上、昭和16(1941)年の太平洋戦争の開始とともにテレビ研究禁止令が出て、テレビの研究開発は中止されました(何故か、アメリカでも同じくテレビ研究の凍結されましたが、レーダー観測向けにブラウン管が使用されてブラウン管の技術が発達しました)。

新しい女

 明治44(1911)年『青鞜』の創刊後、平塚らいてうが明治45年に読売新聞で「新しい女」と題する記事の連載を始めました。
 有名すぎる『青鞜』の女性解放運動については記載を省略しますが、この記事も同様に男性社会の反発を招き、平塚自身や、『青鞜』周辺、あるいは単に進歩的な女性までも含めて「新しい女」と呼ばれるようになります。
(この後、平塚はさらに「私は新しい女である」という記事を中央公論に載せ、本人は気にしていないアピールを通り越し、挑発まで行なっています)

五色の酒事件、吉原登楼事件

 五色の酒とは、「メイゾン・ド・鴻の巣」というバーで出されていたカクテルのことで、おそらく「プースカフェ」であると思われます。
 大正元(1912)年、青鞜の資金繰りの問題を知った尾竹紅吉が、このバーに広告を取りに行ったのですが、新しいもの好き、変わったもの好きの尾竹がこの五色の酒の美しさに魅せられてバーに入り浸り、このことを知り合いの記者等に語ったところ、それを面白おかしく新聞等で書き立てられます。
 当時としては、バーに女が入り浸るなどはどんでもない、という風潮でした。

 さらにこれに続いて、尾竹は「吉原登楼事件」を起こします。
 青鞜の平塚らいてう、中野初子らとともに、当初は取材や、女性の立場云々という名目で吉原へ行ったところを、その華やかさ、煌びやかさに見せられた尾竹がまたも通いつめるという事態を起こし、前述の五色の酒事件と同じく、世間の批判を浴び、これだから青鞜は、新しい女は、という目で見られるようになります。
 結果、青鞜への風当たりがきつくなり、メンバーのプライベートが暴かれたり、青鞜のメンバーであることを理由に辞職させらたり、あるいは平塚家への投石が行なわれる等、ひどい状況を招きました。
 しかしそれでも平塚が尾竹を可愛がった為、青鞜内部の不和も招くこととなります。

若い燕

「五色の酒事件」「吉原登楼事件」の後、尾竹紅吉は青鞜内部で攻められ、自殺未遂を起こしましたが、傷は浅く一命を取り留めました。
 しかし、結核を煩い茅ヶ崎へ療養へ向かうこととなります。
 平塚らいてうは、尾竹が療養へ向かった後、若い画家奥村博と交際をはじめ、彼を「弟」「若いつばめ」と呼び可愛がりました。
 この交際は青鞜の内部の不信に繋がり、尾竹はこのことを知ると、奥村へ脅迫まがいの手紙を送ります。
 これに驚いた奥村が平塚の元を去ることを決意します(周辺の友人の勧めもあったようですが)。別れ際に平塚に送った手紙の中に「若いつばめは池の平和の為に飛び去っていく」と言う言葉が使われており、これが流行語となり、女性が年下の男性を可愛がるときに使われる言葉として定着してしまいました。

移民事情

 日本は意外なことに戦前は人口過剰であると言われており、労働力を輸出する立場にありました。
 明治18(1885)年、日本とハワイの間に移民条約が結ばれ、第1回の官約ハワイ移民が行なわれ、以後、大正13(1924)年にいわゆる排日移民法が成立するまでに実に20万人以上もの日本人がハワイへ渡っています。
(当時、ハワイは独立した国家であり、日本とハワイで条約が結ばれていましたが、明治32(1898)年にハワイがアメリカに併合されます)
 これ以外にも、アメリカ本土、ブラジル、ペルー等の南米諸国の他、当時はアメリカ統治下であったフィリピンや、日本の統治下であった満州、南洋諸島への移民が行なわれました(日本統治下の場合は、移民と呼ばれない場合があります)。
 これらの移民はいわゆる契約移民という政府や斡旋業者を通した期間契約の労働(まあ、要するに出稼ぎ)から、自由移民と言われる自費での移民に分かれています(まあ、自由移民とは言いつつ、後ろに様々な公的機関、企業が付いて来ることもあり、厳密な意味での自由移民は少ないようですが)。
 これらの契約移民では政府や、斡旋企業が「移民すると数年のうちに金持ちになれる!」というようなコピーで大きな宣伝を打ち、大々的に移民を募り、大正3(1914)年の時点で在外邦人33万人と新聞に報道されています(外務省調査、満州等の日本統治下は省いた数字です。ちなみに、大正4年の時点で日本の人口が約5000万です)。
 もちろん、これはただの宣伝であり、契約時と異なる職種や待遇はもちろんのこと、何も無い開墾地へ放り出されたり、奴隷に近い状態もあった言われています(奴隷貿易ほどではないにしろ、ひどいものがあったことは確かです)。

 当時、アメリカ本土には広範囲に渡り、日本人の移民が居り、大正9(1920)年には10万人と言われる日本人がカリフォルニアで農業開拓に従事していました。
 ロサンゼルスには日本人街「リトル東京」が作られ、アメリカンドリームを夢見た日本人の渡米の足掛けとなっていました。
 しかし、排日移民法、あるいはそれ以前から人口を増しつつあった日系人に対する警戒に対しての法的な締め付けは、アメリカに対する態度の硬化、開戦に至る原因となっています。

 この移民に関連したものの中に、「写真結婚」と呼ばれるものがあります。
 お見合いと言えばそれまでですが、結婚する当事者は一切顔を合わせず、写真だけを頼りにして婚姻を合意し、そして移民先へと渡りました。写真だけを頼りにした彼女らを「写真花嫁」とも呼びます。
 これについては、明治41(1908)年に結ばれた日米紳士協約により、自主的に移民を制限したのですが戸籍上の家族となれば渡航が問題ないとされていたことにも関係します。
(まあ、もちろん、現代でもある農村に嫁の来てが無い、という事情もあったようですが)
 この「写真結婚」も排日的な攻撃にさらされ、大正9(1920)年に禁止されてしまいます。

 有名な谷譲次(長谷川海太郎、牧逸馬)の「めりけんじゃっぷ」は大正14(1925)年から雑誌『新青年』に連載されましたが、谷は大正7(1918)年に渡米し、大学に学びながら働き、大正13年に帰国しています。

タバコ

 煙草は、スペイン語か、ポルトガル語の“TABACO”が語源であると言われており、『煙草』と漢字を当てるのが一般的です。

 日本での煙草の起源は様々に言われていますが、戦国時代の南蛮貿易によってもたらされたと言われています。
 江戸期に入ると、幕府による専売、規制も入りましたが、現金収入を目的とした煙草を栽培する農家が増加、庶民の間にも喫煙の習慣が定着しました。
 明治に入ると、煙草の栽培、製造は政府の専売となります。

 江戸期には刻み煙草で煙管による喫煙が主流でしたが、明治期に西洋から葉巻、パイプなどとともに、紙巻煙草が輸入されました。
 この紙巻煙草は、手軽さもさることながら、西洋文化のいわゆるハイカラの象徴として持てはやされ、もともと喫煙の習慣があった日本人の主流となります。
 紙巻煙草には、口付きと呼ばれる吸い口の付いたもの(現代のようなフィルターではなく、紙を円筒状にしたもの)と、両切りと呼ばれる吸い口の無いものがあります。
 口付きは、敷島や、朝日、両切りはチェリー、ゴールデンバットなどが有名でした(一時、ピースという銘柄もあったのですが、現在のピースとは異なり、一次大戦終結の記念用だったそうです)。

 当時、喫煙自体が普通の習慣であり、有名人にも愛煙家が多かったのですが、煙草の吸い方がいわゆるふかし(口に含むだけの喫煙)であり、肺にまで吸い込むようになったのは戦後にフィルター付きの煙草が現われてからになります。

「未成年者喫煙禁止法」が定められたのは、明治33(1900)年で、大正期には未成年者の喫煙は、親、監督者、販売者に対する罰則を規定していました。
 これに対して、「未成年者飲酒禁止法」が定められたのは大正11(1922)年であり、大正中期までは誰でも大手を振って酒を飲めた、という状態でした。

 これらの煙草に火を点けるのには主にマッチが用いられましたが、マッチの最初期は輸入品の高級品で、その後、国産化が進み手軽なものとなりました。
 ライターについては、国産の平賀源内の刻み煙草の点火装置があったと言われていますが、好事家向けのものであり、大正中期にアメリカのオイルライターを模したものが発売されるようになりました。
 なお、ガスライターは戦後になってから登場します。

コンミッション

 大正初期の流行語です。本来(?)は、手数料、歩合という意味で、現代で言うインセンティブです。
 公共事業等の斡旋の見返りにコンミッションを求めるなど、大正初期に賄賂に近い意味で使われています(取引の手数料、という意味でコンミッションと言う言葉を使ったようです)。
 大正3年の山本内閣が総辞職に追い込まれた、巡洋艦「金剛」の発注に絡む贈賄、一連の疑獄事件、いわゆるシーメンス事件でこの単語が登場し、流行語となりました。
 子供の間でも物を送って便宜を図ってもらうような、コンミッションごっこなるものが流行ったと言われています。

大正期の自動車

 明治40(1907)年、警視庁(東京府)の、「自動車取締規則」で、「車両番号」が定義され、ナンバープレートの原型が出来ます。
 この時の運転免許は木製の許可証で(昔ながら木札の類)、「運転手免許」と「車掌免許」の2種類が存在し、一応、試験を受ける必要がありました(ただ、いわゆる乗り合い、タクシーの類のみだけで、自家用車に関しては特に免許は必要なく、営業許可証の意味合いが強かったようです)。
 この「車両番号」を表示するナンバープレートは、文字の大きさや書き方等の定義があってもプレート自体の定義が無いので、大きさはまちまちで、現在のようなものとはかけ離れており、表示しない車両も多かったようです。
 ちなみに、番号は当時の自動車の保有台数が僅少であった為、通し番号でした。
(明治40年は不明ながら、大正2年に国内の保有台数が521台)

 この後、大正8(1919)年に「自動車取締令」が出て、運転手免許を甲種(全車両OK)、乙種(特定車両。実質的に当時多かったT型フォードの為の免許で、現代で言えばAT限定)に分かれました。
 これらの免許は公道上で試験を行い、車体検査証も必要であった為、自動車を保有していないと免許を取ることができませんでした。有効期間は5年で、交付者が県の長官である為、他県へ引っ越したら無効(!)になるものです。
 免許証は木札から三つ折の紙製に変わりました。

 昭和8年に「自動車取締令」は全面的に改訂され、乙種は普通免許となり、排気量750cc以下の小型車両(4輪、2輪とも)は小型免許として試験不要、申請のみとなります。
(これにより、国産の小型自動車の生産がさらに伸びることに)

 国内の自動車関連の主なイベントは以下の通りです。

 明治37(1904)年、日本初の国産蒸気自動車「山羽式蒸気自動車」が製作される。
 明治40(1907)年、日本初の国産車「タクリー(国産吉田式自動車)」が製作される。
 大正元(1912)年、東京市内でタクシー会社が6台のT型フォードで営業開始。
 大正8(1919)年、東京乗合自動車(青バス)が100台で営業開始。
 大正13(1924)年、東京市バスがフォード800台で営業開始、当初は市電の代替手段として。
 大正14(1925)年、横浜に日本フォードが設立
 大正15(1926)年、ダット社(現日産)が設立
 昭和2(1927)年、大阪に日本GMが設立
 昭和9(1934)年、ダット社、日産自動車に改称
 昭和12(1937)年、豊田自動車が設立

 大正期は、国内で外車を作る、日本製の外国車という状態でした(ホンダは戦後、昭和22(1947)年の設立です)。
 なお、人力車は明治2年頃に発明され、その後、昭和の始めぐらいまでは見られました(江戸期に人力車はありません)。

写真機

 大正8(1919)年2月の神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)に当時の写真機熱についての報道がされています。
「近頃、当市で大流行を来しているカメラ趣味。一寸郊外へ出ると写真機を肩に懸けて行くと云う風はザラに見受けられるのである。(中略)24円もあれば写真機から現像薬品まですっかり揃う」
 24円と言えば、一般的な労働階級の一ヶ月の収入とほぼ同額で、このカメラ趣味の中心は主に商社や、銀行、汽船会社などの景気の良い方面の者でした。
 当時のカメラはそれ自体の取り扱いから現像まで、専門的な技術が要求されることもあり、一般的ではなかったこともありますが、やはりカメラは高嶺の花であり、街の写真屋に撮影してもらうのが一般的であったようです。

 レトロなカメラと言えば、大型の蛇腹を持った組み立て式でガラス乾板によるものが思い浮かびますが、19世紀末にはすでにフィルムが発明されており、近代にもあるロールフィルムがイーストマン・コダック社から発売されています。
 当然ですが、このロールフィルムを使用するカメラも同様に発売されており、現代のそれに比べればかなり大型ですがそれまでの乾板を使用するものに比べれば小型化され、持ち歩くのも簡単になりました。
 よくある蛇腹方式のカメラは、過去の大型のものは持ち運び時には折り畳んでおき、使用時に組み立てるというものでしたが、その後、この蛇腹でレンズの距離を調節してピントを調整するという用途で用いられました。

 大正期には様々なカメラが輸入されています。
 大正元(1912)年にアメリカのイーストマン・コダック社から「ベストポケットコダック」が発売されています。その名の通り、ベストのポケットにも入るというサイズのカメラでロールフィルムを使用したものです。
 当時、ガラス乾板の暗箱のカメラがまだ主流であった時代に発売されたこののベストポケットは大量生産で安価でもあり(それまでのカメラに比べれば!)、ベストセラーとなりました。
 このベストポケットも蛇腹方式のものであり、以降、「ピコレット」(大正4(1915)年発売、ドイツ、コンテネッサネッテル社)、「パーレット」(大正15(1926)年、小西本店)と言った同様の形式のカメラが発売されるようになります。
 ちなみに有名なライカA型は大正14(1925)年の発売となります。このライカは蛇腹が無く、レンズを螺旋溝によって前後させて焦点を合わせました。

 国産では明治36(1903)年、小西本店(後のコニカ)が一般向けに初めて「チェリー手提暗箱」という名前カメラを発売しました。これはいわゆる暗箱カメラで、名刺サイズの乾板を用い、固定焦点、固定絞りの非常に簡易なもので、2円30銭で販売されました。
 ついで明治41(1908)年には蛇腹を持った組み立て型のカメラ「さくらノーブル」を発売します。以降、小西本店は様々なカメラや印画紙、フィルムの販売を展開します。

 当時の写真は白黒でしたが、これに対して色をつけるということは当初から考えられていました。
 現像後に彩色する等の原始的な方式もありましたが、光の3原色でネガを分解し、それぞれの色を出力先(映写機や、写真印刷)で再現するという方式が一般的だったようです(つまり、大正期にはカラー写真は存在していました)。
 カラー写真は、昭和10(1935)年にアメリカのイーストマン・コダック社が映画用に開発し、翌年にはカメラ用のものも発売されましたが、これは現代のようなネガポジ画像ではなく、フィルム自体がカラーで撮影できるようになっていたものです。
 現代のようなネガポジ画像によるカラー写真は昭和11(1936)年のドイツのアグフア社が最初だと言われています。

メートル法

 明治26(1893)年の度量衡法において、日本は原則尺貫法の使用が規定されていました。
 しかし、明治9(1886)年に日本はメートル法を使用する条約に加盟していたこともあり、尺、貫のメートル、キログラムへの換算方法が定められており、両方を公認する形をとりました。
 さらに、アメリカ、イギリスではヤード、ポンドが使用されていることから明治42年の改正度量衡法においてはこれも公認、三つの単位が混在するという状態になりました。
 大正10(1921)年4月11日にメートル法を基本とする度量衡法改正が公布、3年後の大正13年7月1日に施行と布告されましたが、施行の猶予期間が順次延期されていき、戦後に度量衡法が廃止されるまで、尺貫法の利用は認められることになります。

港屋絵草紙店

 竹久夢二の描く美人画は、目線が来てない目、身をよじったり、何かにもたれかかったり、いかにもか弱げ、儚げな印象を与える夢二の美人画は夢二式美人と言われ、その仕草や、装いを真似る女性も出るほどでした。
 夢二はこういった雑誌のコマ絵の仕事のみでなく、広告やポスターの他、様々なデザインも手掛けていました。
 この夢二がデザインした小物を専門的に販売する店として、『港屋絵草紙店』が大正3(1914)年に日本橋区に開店しました(当時、その周辺は呉服店の並ぶ職人街でした)。現代で言えば、ファンシーショップとも言えるものです。
 夢二の元妻であるたまきが店を切り盛りし、夢二のデザインした小物(便箋、封筒、手ぬぐい、千代紙等)や、版画を販売しました。
 大正4年には『淑女画報』にも掲載され、夢二式の流行の発信地であり、東京の名物の一つとして連日若い女性が押し寄せたと言います。
 また、この店に夢二の友人達や、(弟子は取っていませんでしたが)弟子のような人物、若い画学生も訪れ、時には展覧会場になるなど、夢二の一種のサロンのような役割を果たしていました。
 この港屋は、夢二の恋愛事情も絡み、大正5年、わずか2年で閉店してしまいます。

にゃんにゃん猫展覧会

 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、明治38(1905)年から翌年にかけて雑誌「ホトトギス」に連載され、その人気の影響という訳ではありませんが、日本でも明治末期よりペストの流行予防の為に一家に一匹猫を飼うことが推奨されたこともあり、様々な猫が輸入されたりして、街中に猫が普通に見られるようになりました。

 世界で最初の公式のキャットショーは1871年のロンドン、ハイドパークで行なわれたものだと言われています。
 日本で記録に残る最初のキャットショーのようなものは、大正2(1913)年4月5日、上野の精養軒で開催されました。これは新聞にも事前にその開催が予告されるとともに、開催後は記事としても掲載されました。
 審査委員長が、上野動物園技師の黒川義太郎で、他審査員は須永、梅本、久保野の家畜(動物)病院長が勤めたとあります。発起人は、落語家の柳家小さん、歌舞伎の六代目尾上菊五郎、「小猫」の村井弦斎、「吾輩は猫である」の夏目漱石などです。ただ、漱石はこの展覧会自体は胃潰瘍で臥せっていた為に欠席したようです。
 参加したの二十匹の猫で、一般から公募したのではなく、あくまで発起人やその関係者から猫を集めたようです。
 一等は下谷の鈴木彦太郎の三毛の牡「ミイ」で、鰹節の五円券が送られたと新聞にあります。

有田ドラッグ商会

 有田ドラッグ商会は、大正期に有名だった主に性病(性感染症)を中心とした、完治の見込みの薄い病気に効くとした薬を主に取り扱っていた商会です。
 この時期は性病が大きく流行ったとともに、発疹チフス、ペスト、コレラと伝染病の流行が相次ぎ国内でも衛生博覧会が開かれるなどで衛生への関心が高まった時期でもあります。
 有田音松は自身の販売する花柳界病や、結核など疾病状況を示す模型を小売店で展示し、この発想は成功しました。江戸川乱歩がこの光景に魅了され、『白昼夢』などで猟奇的に描いたのは有名です。

 有田音松は良く言えば立志伝の人、そうでなければ山師の類です。
 神戸の遊郭の妓夫太郎(いわゆる客引き)から、性病の治療薬を売り、巨利を手にしました。
 当時、有田の商売が独特だったのは今ではよくあるマスメディアを通じて宣伝を打ち、売りつけることでした。これも現代によくあることですが、有田の販売している薬を飲んだら病気が治った!という類のもので、大々的に患者の「体験談」として広告を出しました。
 話題を作って目を引くためか、あるいは単に目立ちたがりだったのか、これらの広告だけでなく、当時の政治や世間の事件に物申す、という「意見広告」も載せるようになりました(そして、そのうちにデタラメ満載の「自叙伝」まで載せています)。
 一時は、小学生の憧れの有名人としても上がるほどの人気を博しましたが、これが長く続くはずもなく、大正14(1925)年に「有田音松征伐」と題して『實業之世界』という有名な業界雑誌がその過去や商売のインチキを暴露、有田は見る影も無く落ちぶれてしまいます。
 有田音松は戦中の昭和19(1944)年まで生きたらしいのですが、この後はまったく音沙汰はなかったようです。ただ、息子と思われる有田二郎なる人物が大阪の政界を騒がせたと言われています。

精養軒

 様々な文学作品にも登場する「精養軒」ですが、築地の「精養軒ホテル」が明治5(1872)年に開業、その後上野公園の開設に伴い、明治8年に「上野精養軒」が不忍池の畔に開店しました。
 当時、フランス料理は言うに及ばず、そもそも肉食自体が珍しいこともあり広く(特に上流階級に)利用されることになります。
 築地、上野精養軒は元々社交場としての意味合いも強く、各界の著名人が利用したようです。
 大正9(1920)年に結婚式場となる神殿を増設し、「明治神宮で挙式、精養軒で披露宴」を、というのが一つの乙女(のお父さん)の憧れであり、ステータスとなりました。
 なお、関東大震災により築地精養軒は焼失、上野精養軒が本店となることになります。

メイゾン鴻ノ巣

 明治43(1888)年に日本橋小網町に開業したカフェ、バー、あるいはレストランです(こちらをカフェと数えた場合、帝都最初のカフェは『メイゾン鴻ノ巣』になります…)。
 何度か移転をしており、大正4年頃には日本橋木原店、大正9年頃には京橋南伝馬町へと場所を移しています(ただ、京橋では『フランス料理「鴻乃巣」』)。
「パンの会」の毎月の会合の会場となったこともあり、いわゆる文士たちのサロン的なものとなり、文化人が集う場所だったと言われています。
「パンの会」は、「スバル」系の詩人、「白樺」「新思潮」などの同人作家、『方寸』の画家や俳優などの幅が広い文人たちが、日本のパリのカフェのような交流の場が必要だと始めたもので、月に数度、隅田川をセーヌ川に見立てて、その畔で平たく言うと宴会を行っていました(「パンの会」などという謎の名称(ギリシャ神話の『パン』に由来すると思われる)が付いており、様々な文化人が集まることから、社会主義的思想の会かと勘違いされて刑事の見張りが行われる等もあったようです。この会は大正2年ごろまで続いています)。
 大正6年に芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会もここで行われました。
 ちなみに「青鞜」の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたのは明治44年のことです。

隅田川の蒸気船

 大正期の帝都において「蒸気に乗る」と言えば、墨田川の渡しの蒸気船に乗ることでした。
 就航当初は機関が付いた親船に客船が曳かれるというもので、船内では物売りが絵ハガキ、絵本などを売ったと言われています。
 同じく大正期に発展したバス交通網と同じように、経営する汽船会社によって船を色分けて「青蒸気」「白蒸気」と呼ばれていました。
 吾妻橋を起点に、上りは白髭橋、鐘ヶ淵、千十大橋、下りは厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の辺りまで運行していました。最盛期にはかなり多くの停船所があり、また隅田川の支川にまでも運行していたようです。
 1区間を1銭であった為、『1銭蒸気』の名前で呼ばれましたが、徐々に値上げが行われ、大正期では5銭均一であったと言われています(この辺り、汽船会社によってまちまちで、大正中期には電車に対抗する為、各社が2銭で統一という記述も見られます)。
 当時、房総線の始発が両国駅であり、省線が秋葉原まで来たのは昭和7(1932)年である為、大正期はかなり繁盛したと言われています。
『ポンポン蒸気』と呼ばれることもありますが、それは大正末期から昭和初期と思われます(資料が錯綜し過ぎて、どれが正解か分からない状態ですが、大正末期から昭和初期の辺りで燃料が石炭から重油に変わり、『ポンポン蒸気』と呼ばれる独特のエンジン音を出す「焼玉エンジン」が液体燃料であることから、その時期に変わったと考えられます)。

兵役、徴兵令

 明治4(1871)年に山県有朋らが建議、翌5年に『全国徴兵の詔』が発せられ、続く6年に『徴兵令』において、「大日本臣民ニシテ満十七歳ヨリ満四十歳迄ノ男子ハ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」と定められ、基本的にすべての男子に兵役の義務が課せられました。
 明治6(1873)年に制定された『徴兵令』には一家の長男や、一定の金額(代人料270円)を支払った場合等の免除項目がありましたが、明治22(1889)年の改訂で削除されました(そして、徴兵拒否等に対する罰則も盛り込まれています)。
 同じく明治22年に公布された大日本帝国憲法にも、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」(第二十条)と謳われ、建前上は国民すべてに義務であるとされました。

 毎年4月から7月末までに行われる徴兵検査によって学力、体力の身体検査を受け、兵役に適合するかを甲乙丙丁戊の5段階に評価されました。
 甲種は「身長5尺以上ニシテ身体壮健ナル者」(大正15年)、体重、胸囲、視力、聴力、言語、関節運動などの検査項目があり、主に体格順で合格となりました。
 農村、漁村部等の田舎において、これらの兵役検査で甲種合格することは大変な名誉とされました。基本的に本籍地で検査を受ける為に、この検査の為に田舎に帰る場合などもあったようです。ただ、実際は甲種合格は名誉だが、人手を取られるのは困る、というのが実情だったようです。
 検査合格後の配属については、それまでの経歴、技能が考慮される他、一部の兵科(近衛兵等)では家庭状況、思想も考慮されたと言われています。本人の希望も聞かれることもあり、騎馬、技術兵科の人気が高かったようです(まあ、希望通りの配属になるには、本人の技術の他、各兵科の細かい注文があったようで、そうそうはなかったようです)。
 大正期、戦争が無い平時の場合には、合格者全員が入営したわけではなく、予算に応じて必要人数だけが抽選されたようです。この為、徴兵検査に合格=入営という訳ではありません。

 徴兵の他に一年志願制度というものがあり、中学卒業者(か、それと同等の学卒者)であり、現役中の費用を自費で賄える場合に、服役期間を1年として、最終試験に合格すれば少尉(不合格の場合は伍長)となる制度があり、陸軍で幹部養成の一環として入営時から特別扱いであったと言われています。

 兵役は陸軍が現役3年(大正12年から2年)、予備役4年4カ月(大正12年から5年4カ月)、後備役10年、海軍が現役3年、予備役4年、後備役5年で、その後は陸軍、海軍とも40歳までは国民兵役に就くことになっています。また、入営しなかった場合は、12年4カ月の補充兵役となっていました(合格後、入営しなかった場合が第二補充兵役、不合格であった場合は第一補充兵役と分類されています)。

 これらの徴兵制に対して、当時の全ての国民が易々と服したわけではありませんでした。大正デモクラシーの思想に触れた徴兵対象の若者が逃げ出すことも多くみられ、また高等教育機関の学生となることで「徴兵猶予」、そして外国に在留することでこの徴兵を逃れていました。

明治の南極探検

 諸説ありますが、一般的に南極大陸は1820年頃に発見されたと言われていおり、1840年代にイギリスのジェームズ・ロスが南極の探検を行っています。その後、1911年にノルウェーのロアール・アムンゼンが南極点へ到達しています(ちなみに、HPLによる『狂気の山脈にて』のミスカトニック大学の南極探検隊は1930年です) 。

 日本初の南極探検は明治43(1910)~45年に探検家の白瀬矗(しらせ・のぶ)によって行われました。当時、探検ブームのようなものが世界を覆っており、イギリスのロバート・スコット、ノルウェーのロアール・アムンゼンの南極探検に対抗するものでした。
 探検に使われた開南丸は204トンの木造の帆船に補助エンジン(航行に使用できるものではない、出力の弱いもの)を取り付けたもので、なんと漁船を改造したものです(アムンゼンのフラム号は402トンと開南丸の約2倍で、彼を迎えに来たときに南極ですれちがい、驚いたとかなんとか)。
 探検隊の隊長である白瀬は民間の探検家とされていますが、当時は陸軍中尉であった為、「白瀬中尉」と呼ばれるようになります。
 この為、後援会に学者や文官の他に、陸軍の関係者がおり、この探検には国から補助金が出ていました。
 開南丸は明治43(1910)年11月に芝浦を出港し、翌2月にニュージーランドに寄港後、南極の夏の終わりが近いことから5月にシドニーに寄港しました。明治44年の11月に再びシドニーを出港、翌年1月に南極ロス海クジラ湾に到着。そこから探検隊は極点を目指しましたが、途中で引き返してきています(領土の占有の宣言をしたりしながら)。
 明治45年の6月に開南丸は日本の芝浦に帰ってきましたが、翌大正2年の10月に三重県沖で座礁、沈没しました。
 白瀬の方は南極探検の資金が後援会によって使い込まれていることが発覚し、その後は借金返済の為に家財を売却、講演会によって得た収入で借金を返す日々でした。
 その後は戦後の昭和31(1956)年の第1次南極地域観測隊まで、南極探検は行われなかったようです。現代の南極観測船しらせは、白瀬の名ではなく、白瀬にちなんで名づけられた白瀬海岸から来ています。
 なお、南極の平和利用、領土権の凍結等の協定、いわゆる南極条約は昭和35(1960)年であり、それまでは南極に探検隊を派遣した国々が勝手に領有権を主張しているような有様でした。

白系ロシア人、革命の亡命者

 大正6(1917)年に始まったロシア革命は革命軍、赤軍の勝利でソビエトを成立させましたが、それによって故国を追われた白軍、元ロシア帝国の人々は日本との同盟を頼りに亡命した者が多くいました。いわゆる白系ロシア人と呼ばれる人々で、野球選手のスタルヒンや、今でも製菓で有名なモロゾフなどが居ます。
 この中には貴族階級であったものも含まれていました。共産党指導部は皇帝一家を処刑したとしていますが、シベリアに満州国のような傀儡国家を作るために皇帝の血筋であるアナスタシアを日本に匿っていた、という噂がまことしやかに囁かれたと言われています(が、ロシア革命後、ロマノフ王朝の末を名乗る人間が多く現れていることもあり、ただの都市伝説の類ですが)。

東京帝国大学になるまで

 時期によって呼び方が異なるため、ここで「東京帝国大学」になるまでをまとめておきます。詳細は下記ですが、まあ、明治19年から「帝国大学」、明治30年から「東京帝国大学」だということだけでもよいでしょう。
明治2(1869)年、幕末に幕府が設置した(昌平坂)学問所、開成所、医学所を統合、「大学校」になります。このとき、学問所を「本校」とし、開成所を「南校」、医学所を「東校」としました。
明治4(1871)年、「大学校」は廃止されます。学問所(本校)は廃止され、開成所が「東京開成学校」、医学所が「東京医学校」になります。
明治10(1877)年、再編成されて「東京大学」が創設、東京開成学校、東京医学校もその一部となります。このとき、「東京大学予備門」もできています。
明治19(1886)年、帝国大学令によって「帝国大学」と改称、工部大学を吸収、予備門は「第一高等中学校」となります。
明治30(1897)年、京都帝国大学が創設されたため、「東京帝国大学」に改称。
昭和22(1947)年、戦後に「東京大学」となりました。

一校

 一校は、第一高等学校の略称です。本郷の向ヶ丘にあったことから「向陵」などとも呼ばれました(陵は丘の意味)。
 日本の近代化、富国強兵のための人材育成機関として明治7年に東京外国語学校から「東京英語学校」として独立、明治10年に「東京大学予備門」と改称(このとき、東京開成学校普通科と併合)します。
 明治19(1886)年の中学校令により、「第一高等中学校」となり、明治27年に「第一高等学校」に改称されました。
 明治23(1890)年に寄宿舎の自治が認められて、生徒が大暴れするようになったのは有名です。この自治は世間から隔絶したいわゆる籠城主義と呼ばれ、独自の校風を産むとともに、排他的でエリート意識を醸成するものと批判もされました。
 昭和10(1935)年に駒場へ移転、戦後には廃校となりました。

絵葉書

 郵便の制度は明治維新とともに、明治3(1970)年に切手の発行と郵便制度が始まっています。官製はがきも明治6年に発行されましたがこのときは二つ折りにして閉じて送るタイプもので、明治8年に現在のようなタイプに変更されました。
 絵はがきは当初、官製はがきに印刷するなどしていましたが、明治33(1900)年に私製葉書の使用が可能となり、以降、絵葉書が大流行し3年後の明治36年には取り扱いが500万通を越えたと言われています(ちなみに郵便料金は官製はがきと同一です)。
 最も人気があったのは逓信省が発行した各種の記念はがき(日露戦争の戦勝記念など)でしたが、私製のものには美人画から風景、風俗に土地の祭事など、様々なものが描かれました。
 写真を印刷した絵葉書も盛んに作成され、こちらも風景や風俗に限らず、美人写真なども人気がありました。なお、当時は白黒でしたが、手で彩色したものもありました。

 風景や名物を伝えるような絵葉書だけでなく、当時流行った文学作品の挿絵や、美術作品の絵葉書などもありました。また、この挿絵を描いたのも当時の芸術家であることもあります。
 変わったところでは文学作品の場面を再現した写真の絵葉書などもありました(当時流行した富徳蘆花『不如帰』や、尾崎紅葉『金色夜叉』、菊池幽芳『乳姉妹』など)。この時代から日本人はコスプレ好きだったようです。

夢二式美人

 竹久夢二が描く、大きな目、うりざね顔、憂いのある表情、細く長い身体の女性は、明治末期から大正初期にかけて大いに流行しました。
 夢二の絵は新聞、文学雑誌、少女雑誌と多くに掲載されて「夢二式美人」などと称されるようになります。この夢二式美人に寄せて装う現実の女性も現れはじめて、「夢二式」というのは一種の流行語なりました。
 古来の日本の美人の条件の一つに切れ長の目(一重であること)だったものを、はっきりと大きく、二重の目を描いて、従来の美人の条件を覆しました。
 夢二のブームは大正3年頃が最盛期で、以降は収束に向かい、大正14(1925)年に徳田秋聲、足立欽一らと山田順子のスキャンダルに巻き込まれて大きく人気を落としました。

マヴォ(MAVO)

 大正12(1923)年に、村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らによって結成された前衛芸術集団です。
 村山はベルリンで古典から表現主義、未来派、ダダなどの前衛芸術を吸収して帰国、前衛芸術集団としてのマヴォを主導しました。
 同年の7月には浅草伝法院で第1回展覧会を開き、「マヴォの宣言」がなされました。
「私達は尖端に立つている。そして永久に尖端に立つているであらう。私達は縛られていない。私達は過激だ。私達は革命する。私達は進む。私たちは創る。私達は絶えず肯定し、否定する。」
 マヴォの活動は絵画、建築、演劇と様々なジャンルに及び、関東大震災後の復興の中で、葵館や、マヴォ理髪店など実際の建築にも関わりました。
 大正13(1924)年、マヴォの他、未来派美術協会、アクションなどの団体が参加して「三科」が立ち上がります。
 翌年、築地小劇場での「劇場の三科」を上演、パフォーマンスとして新たな表現を行ったと言われています。
 ところが三科自体が様々な派閥、主義主張が乗り込んだため、大正14年の第二回の展覧会の開催直前の脱会や、会員の除名など、内部抗争が本格的になり、マヴォの会場への乱入など、展覧会の会期途中での中止となり、三科は解散となりました。
 マヴォ自体も中心であった村山がプロレタリアに傾斜したことによって、政治的なもの、純粋な美術、ダダ、アナーキズムと分裂、解散となりました。
 このマヴォには、「死刑宣告」の著者である詩人の萩原恭次郎や、「のらくろ二等兵」の田河水泡(高見沢路直)も参加していました。

デカメロン

『デカメロン』は、14世紀にジョバンニ・ボッカチオによって書かれた物語です。
 ペストの流行から郊外へ逃れた10人の男女(男3、女7)が、退屈しのぎに10日で10話ずつ語る、全100話にも上る物語で、『デカメロン』は10日を意味するギリシア語に由来します。
 大正14(1925)年、昭和の発禁王などと言われるエログロナンセンスの出版で有名な梅原北明によって『全訳デカメロン』が上下巻で発売されました。それまで、内容が卑猥であると検閲にかかり、発売されることのない珍本とされてきましたが、ついに検閲をパスしたなどと報道されて話題になりました。
 4月に上巻の発売後、10月に発売予定だった下巻が検閲によって発禁、没収される事態が発生します。北明は「いろいろないきさつが生じて」と語り、『デカメロン』の上下巻の間に発行した杉井忍と共訳の『露西亜大革命史』での問題を匂わせました。
 同年内に検閲で引っかかった箇所を訂正して、改訂版が発行されて、発禁になったという評判を利用した北明自身によるプロモーション活動によって、大いに売れたと言います。

活動写真の女給

「女給」と言うとカフェーの「女給」を思い浮かべますが、震災前のカフェーの女給は給仕をするのがメインということで「女ボーイ」「ウェイトレス」「女給仕」などと呼ばれ、文学作品などでは「カフェーの女」と呼ばれていました。
 震災前に「女給」と呼ばれていたのは、活動写真や劇場などにおいて採用された女性の呼び名でした。彼女らは劇場の客の呼び込み、チケットを売る売り子、それをもぎるモギリ、さらに劇場の内部へ案内する案内役を兼ねていたと言います。
 劇場は大入りになるとボーナスが出ることもあって、活動写真の女給はぎゅうぎゅう詰めになるように客を呼び込み、詰め込みました。
 客の呼び込みも色気を出して誘う、幾分強引に男性客の手を取って引っ張るなどして、無理やり連れ込むようなこともあったようです。
 この「女給」にもカフェーの時代のような常連が付くことがあり、特定の劇場で常連の客が特定の「女給」に案内される、常連の客が特定の「女給」に案内を乞うなど、かカフェーのような文化があったようです(そして、チップも受け渡しもこの時代にもあり、常連を多く抱えた「女給」の稼ぎは悪くなかったと言われています)。

職業婦人、労働婦人

 現代で言えばOL(Office Lady、死語になりつつありますが…)、昭和中期まではBG(Busines Girl)、大正期は職業婦人と呼ばれる、社会に出て、職業に就いている女性を指す言葉です。
 わざわざこんな言葉があること自体が女性蔑視の現われでもあるのですが、女性が会社で働くことが珍しかった当時は、一種の流行語のようなものになり、新聞や、女性誌に限らず雑誌でもよく取り上げられるました。

 明治期において女性の就職率は非常に低く、そもそも求職する女性はやむを得ず働く必要がある場合がほとんでした。
 大正初期でもこの傾向は継続しており、給与も非常に安かった(月給2~3円程度)こともあって、女性が職に就くこと自体がよろしくない、という風潮までありました。
 それでも当時、特に女性に適していると目された事務員などの業務において女性の採用が増加を続けました(銀行の事務員は、1日20銭程度、朝9時~夕方5時まで勤務、制服は会社支給)。
 また、女性特有の職業として産婆、髪結い(美容師)があります。産婆は資格が必要で、独立するとなれば数年の経験は必要でした。髪結いは、女性の洋装に洋髪が進んでいましたが、未だに日本髪の女性も多くいたため、髪結いが増えると同時に、洋髪に対応した美容師も増加しました。
 このような中で、女性に注目を浴びたのが看護婦と教師です。特に看護婦は一日2円、特別な病人の看護となれば一月70、80円にもなる高給取りでした。
 教師の方は特に小学校教師が多く、師範学校で資格を取る必要がありましたが、女性の学校教師は教員の不足も手伝って増加の一途をたどりました。
 大正中期ともなると、第一次世界大戦の頃となると経済的、工業的発展にともなって女性も働く需要が増加します。
 大正後期にもなると女性の社会進出が進み、従来の農業や家内ではなく、外に出て主に事務系の職種で働く女性が増えました(大戦景気の後退や、各種の騒動、女性参政権の運動等が、女性を押し出したとも考えられます)。
 彼女らは様々な職種に就いており、当時の新聞では医師、看護婦、薬剤師、教師、新聞記者、写真師、電話交換手、タイピスト、女工、事務員、外交員、バスガール(女性車掌)、デパート店員、女給などが上げられており、大正後期になると映画女優、アナウンサーといったものも見られるようになります。
 この中でもバスガールや、電話交換手は花形職業とも言われました。
 こういった中で、様々な問題が発生し、 大正10(1921)年に職業紹介法、大正11年に健康保険法等の現代でも見られるような法律が整えられることになります。
 同時に東京婦人労働組合や、職業婦人団体連盟などの女性の労働組合的な組織も出てきます。

 女性車掌など、女性初がつく職業が多数登場し、デパート店員、電話交換手、事務員、タイピストなど、職業婦人と呼ばれました。
 これに対して、労働婦人と呼ばれたのはいわゆる女工、工場などに勤務する女性たちでした。
『女工哀史』などで有名な、低賃金で長時間の過重労働を負わせられ、身体を壊して郷里に帰るなど多くありました。
 また、無事に郷里に帰ったとしても工場の見番(見張り役のようなものです)が追いかけてきて、再び工場に戻る、というケースも少なくなかったようです(女工のこの見番と肉体的関係を結んでいたこともあって断り辛かった、などもあったようです)。

 どちらも女性特有の事情に考慮はされておらず、結婚、出産などによって辞めるのは普通、生理休暇なども存在しない時代でした。女性の労働者の増加によって、これらの事象が真面目に議論され始めたのもこの頃からです。

大正9年の国勢調査

 大正9(1920)年に、日本で初めての第1回国勢調査が実施されました。
 大正7(1918)年に国勢調査施行令は2年前の大正7(1918)年は公布されています。
 それ以前に国勢調査自体は、明治28(1895)年に国際統計協議会から1900年の記念事業としての照会されています。
 その後、明治35年に「国勢調査ニ関スル法律」が提出され、明治38年に実施と発布されましたが、日露戦争の影響で延期されました。
 大正9年10月1日に実施された国勢調査は、当時、日本領だった朝鮮、台湾、樺太を含めて実施されています。
 調査した内容は以下の通りです。

1.氏名
2.家庭内の地位
3.男女
4.出生の年月日
5.配偶の関係
6.職業、職御上の地位
7.出生地
8.民籍別または国籍別

 この国勢調査に、政府は大々的な宣伝を打ちました。唱歌、標語、和歌、俳句に川柳、都都逸と『国勢調査宣傳歌謡集』なるものまで出来るほどでした。
 この他にも、宣伝用のはがきやビラ、活動フィルムまで作り、国勢調査に協力した者や事業者には記念章を与えたりして、この調査を大々的に実施しました。
 調査員は青年団、在郷軍人、衛生組合役員、小学校教員等、内閣から任命されました。
 国勢調査の結果は、2か月後の12月18日に発表されました(結果は、こちらのe-Statで確認可能です)。

シベリア出兵

 大正7(1918)年から大正11(1922)年の間、ロシア革命への軍事干渉です。
 日本が長く居座ったことも確かですが、イギリス、アメリカ、フランスと言った第一次世界大戦の連合国側が共同して出兵しました。
 掲げた名目は「チェコ軍の捕虜の救出」でしたが、当時影響力を増していた社会主義による政権の成立を妨害するのが主な目的でした。
 当初、ロシア国内の混乱や、アメリカの牽制などもあって日本は消極的でした(軍部だけがシベリア方面での利権拡大を狙っていたこともあって、積極的です)。
 大正7(1918)年に、連合国側から要請があり、それに従って参戦します。
 当初は1万2千人だった兵力が7万2千にまで増強します。大正9(1920)年にはチェコ軍の救出はなされたとしてアメリカ軍が撤退します。その後は「赤化防止」「満州防衛」と言った名目に代わり、ずるずると終わりのない戦闘が続くことになりました。
 大正11(1922)年のワシントン会議で各国からの圧力を受けて、日本は撤退することになりますが、北樺太の占領状態は大正14(1925)年まで続きました。

世界恐慌

 昭和4(1929)年10月24日、『暗黒の木曜日』と呼ばれるアメリカの株式市場が大暴落を起こしました(ちなみに、29日にももう一度暴落しており、こちらは『悲劇の火曜日』です)。
 アメリカでは銀行の倒産、それによる融資の停止による企業の倒産、失業者があふれ、さらに物が売れなくなるという、絵にかいたようなドミノ倒しとなり、長らく不況が続きます。
 この影響は世界に広がり、同じく不況を引き起こしたために、世界恐慌と呼ばれます。
 日本では昭和に起こったこともあって、昭和恐慌とも呼ばれています。金本位体制へ回帰したタイミングと重なったこともあって、円高を招き、輸出の激減、デフレに陥ります(当時、日本はアメリカに輸出を大きく依存していました)。
 企業の倒産により失業者の急増、就職難の時代となり、農産物の価格下落によって農村部でも大打撃を受けて身売りなどが増加したと言います。
 昭和6(1931)年に高橋是清蔵相が積極的な歳出拡大を打ち出すとともに、海外、とくに台湾、満州などのアジア圏での貿易を行うことで、太平洋戦争の開始前までは景気の拡大が続きました。

第八芸術

 活動写真が、第八芸術と呼ばれることがあります。これは大正8(1919)年、グリフィスの『散りゆく花』が上映されて以降と言われています。
 第八芸術とは音楽、絵画、文学、演劇、舞踊、彫刻、建築に続く八番目の芸術だと言うことです。
 逆にそれまでの活動写真は芸術ではなく、見世物、娯楽としか認識されておらず、誰も芸術だ、などとは言っていなかった、ということです。

大正活映と純映画

 サンライズフィルム、後に東洋フィルムを前身とした、大正活映が大正9(1920)年に発足します。
 東洋汽船が出資した大正活映は当初、国外の新作映画の輸入と、外国人向けの日本の観光映画を作ることを目的としていました(東洋汽船が海外航路の船上で上映するためです)。
 ところが、大正活映はアメリカ帰りのトーマス栗原を監督、脚本に谷崎潤一郎を迎えて、当時、純映画と呼ばれた芸術志向の作品を作る方向性が打ち出されました。
 その結果、大正9年の11月に『アマチュア倶楽部』(海岸でドタバタ劇、主演の葉山三千子が日本で最初の水着女優)、12月に『葛飾砂子』(泉鏡花の原作)、翌10年3月に『雛祭りの夜』(谷崎家総出演のおとぎ話)、9月に『蛇性の婬』(雨月物語が原作)が公開されました。
 この後、谷崎のオリジナルである『月の囁き』なる作品の撮影が控えていたと言われています。しかし、この間に監督のトーマス栗原は病状が悪化、まともに監督ができる状態ではなくなり、出資会社の東洋汽船の経営が急激に悪化します。その結果、今後は純映画は作らず、新派劇を制作する方針となり、谷崎も大正活映を去ります。
 大正11(1922)年、大正活映は松竹キネマに吸収合併されて姿を消しました。

内地、外地、南洋庁

 戦前の日本は「内地」と「外地」で法と統治体制が異なりました。
「内地」は明治維新後、確定した大日本帝国の領土で、以降、拡張した土地(いわゆる植民地)を「外地」と呼びました。「外地」には「内地」とは異なる法が施行され、外地の行政府(いわゆる総督府など)が設置されます。
「内地」が「外地」を監督する制度などが不十分だったことに加えて、総督には軍人、武官のみ就任できるとした制度などから、「外地」は独立した、自立的な政策を実施していました。
 しかし、これは「内地」と「外地」、「外地」と「外地」の対立を招き(代表的なものは米の輸出入、砂糖の生産調整)、当時の政府がとった工業化、同化政策とも対立して国内の大きな調整コストに転じました。
 第一次世界大戦の終結後、大正8(1919)年のヴェルサイユ条約によって当時のドイツが植民地としていた地域を委任統治地域としました。
 南洋庁は、大正11(1922)年に「南洋庁官制」によってパラオ諸島コロール島に設置され、サイパン、パラオ、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートに支庁を置きました。
 南洋庁は大正13(1924)年には外務省、昭和4(1929)年に新設された拓務省の管轄となりましたが、その統治のために広い範囲に行政が渡っていたこともあって各所轄の監督を受けました。
 基本、表向きは現地人の自治ですが民間と協力して入植、産業の開発を行いました。

二笑亭

 深川区門前町にあった、深川の地主であった渡辺金蔵の個人宅です。
 詳細不明な点が多すぎるのですが、渡辺金蔵は関東大震災後に世界一周の旅に出て、帰国後、昭和2(1927)年に二笑亭の建築に着手しました。
 昭和6(1931)年に一旦竣工の届けが出ているのですが、ウィンチェスターハウスよろしく、金蔵自身が指示を出して増改築を続けました。
 結局、昭和11(1936)年に金蔵が脳病院へ入院させられまで増改築は続き、その2年後には取り壊されてしまいました。
 この建築は精神科医である式場隆三郎によって「二笑亭奇譚」にまとめられて昭和13(1938)年に出版されました。
 これによれば、二笑亭は以下のような特徴を持っていたと言います。
・木造建築と鉄骨の組み合わせ
・和式と洋式の風呂を並べた浴室
・屋根よりも高いどこにつながっていないはしご
・傾いた棚
・使えない部屋
・開かない扉
・出入りが難しい扉、門
・本来の様式と異なるオブジェ類(左右対称のものが非対称だったり、非対称ものが対称だったり)

 ダダイズム、MAVO、アウトサイダーアートなどの文脈で語られることもありますが、常人には理解しがたい美意識、哲学があったようです(渡辺金蔵は茶道を嗜んでおり、その趣味が反映されているのではないか、とも推定されています)。

ダンスホール

 ダンスホールとは、大正中期に登場した一般向けの社交ダンス場を指します。
 バンドか、レコードによる音楽の演奏と、客とダンスをする主に女性ダンサー(当時は舞踏手と呼ばれました)がおり、チケットを買って目当てのダンサーと踊りました。このことから、テキシーダンサーなどとも呼ばれています。
 ダンサーの服装は昭和6年頃までなんと和服であり、その後徐々にドレスに変わっていったと言われています。
 元々、社交ダンス自体も日本の文化風俗になく、古来よりの男女7歳にして席を同じくせず、などという習慣も手伝って、男女が身体を寄せて踊る社交ダンスは軽佻浮薄な文化の象徴とも見られたようです(その他にも、ダンスホールがらみで醜聞や、売春等の行為もあった為、世間の見る目は厳しかったようです)。

 様々な起源が囁かれていますが、ダンスホールの元祖は関西方面であると言われていますが、関東圏では大正7(1918)年に横浜の鶴見の花月園にダンスホールが開設されたのが最初だと言われています。
 大正中期から帝都市内にもダンスホールの開業が相次ぎますが、震災で一旦は関西に流れ、その後また帝都に戻ってくるという流れになります。
 震災後、京橋の日米舞踏場や、フロリダ(いわゆる『ダンスホール事件』の舞台)などが開業し(カフェからダンスホールへ転向するのも少なくなかったようです)、醜聞と事件を起こしながら、昭和15(1940)年のダンス禁止令が出るまで、営業が続けられます。
 この後、これらのダンスホールは戦後の新たな風営法が確立するまで復活しませんでした(先に、進駐軍向けのものは開設されたらしいですが)。

 なお、歴史の教科書にも出てくる政府が社交ダンス場として建設し、当初は持てはやされた鹿鳴館ですが、明治16(1883)年に落成後、わずか4年後の明治20年、それまでの鹿鳴館にまつわる様々な失態、醜聞からダンスが禁止されており、よくある「鹿鳴館で華やかな~」のような時期はかなり短い期間です。
 さらに明治27(1894)年には華族会館として払い下げられ、戦時の娯楽規制の為か、昭和15(1940)年には解体されてしまっています。

エログロナンセンス

 エロはもはや説明不要なので省略しますが、グロはグロテスク、本来はgrotta(グロッタ)に由来する本来は建築、美術様式だったものが、不気味、奇抜、奇妙、奇怪、醜悪などの意味を持つようになり、いつの間にか猟奇的となります。
 大正末期はエログロだったものが、ここに昭和初期にナンセンスが加わって、ひっくるめて「エログロナンセンス」となります。
 ナンセンスはNonsenseですが、文字通りのセンスがないという意味ではなく、無意味、不条理、世間で認められる価値観、倫理観を否定、逆張りする様を指します。むしろ、センスがなければナンセンスが成立しないという複雑な構図となっています。
 詳細にいつごろかというのは不明ですが、昭和3(1928)年に梅原北明が雑誌『グロテスク』を発行、即座に発禁になるなどで話題となり、同年には雑誌『新青年』に江戸川乱歩『陰獣』、雑誌『猟奇』に夢野久作『瓶詰地獄』が掲載されるなど、この時期からエログロナンセンスという単語が流行していようです。
 キワモノとも、高踏的とも評価されて、世界恐慌の不景気の巷に流行しましたが、エロ関係は規制が厳しくアングラ化が進み、さらに戦争の激化、昭和13(1938)年の国民総動員の頃にはグロ、ナンセンスも自然消滅しました。

蟹工船

 蟹工船とは、カニの缶詰を加工する工場を持った船のことで、そこを舞台にした小説を小林多喜二が昭和4(1929)年に発表しました(小林多喜二が実際に蟹工船に乗ていたわけではありません)。
 この小説は発表と同年に起きた博愛丸事件をモデルとしています。当時、博愛丸は日魯漁業会社(現在のマルハニチロ)の所有でした。
 ソ連成立前、日露戦争によってオホーツク海の漁業権は日本側にも認められていましたが、ソ連成立後はソ連国内から漁獲物加工は行えず、海上の船、蟹工船で行われていました。この蟹工船の労働環境は過酷で原始的、監獄にも例えらえれるほどでした。
『蟹工船』はプロレタリア文学の最高峰と言われており、小林多喜二はこれによって不敬罪に問われ、以降、日本共産党に入党するなどプロレタリア文学の旗手と見られましたが、昭和8(1933)年に特高に逮捕、拷問のすえに死亡しました。

 以下、青空文庫でも無料で読めます。
 https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html

命売ります(無代)

 昭和5(1930)年12月、「生命無代進呈(命売ります(無料))」と書いた紙をぶらさげた男が、銀座の街を歩きました。
 世は昭和恐慌、不景気の巷で、就職難のため、自らを売ると宣伝しているのでした。
 男は「求職戦術の厳しい時代、こうでもせねば生きていけません」と語りました。

 ちなみに有名な三島由紀夫の『命売ります』は昭和43(1968)年に『週刊プレイボーイ』に連載されました。こちらは自殺に失敗した男が「命売ります」と広告を出す小説です。

東京行進曲

 作詞:西條八十、作曲:中山晋平、歌:佐藤千夜子による昭和4(1929)年の同名の映画の主題歌です。映画の公開の1か月前にレコードで発売、大ヒットしました。
 映画の内容に関係なく、当時の流行りのフレーズを多く取り入れて、ジャズ、リキュル(リキュール)、ダンサー、丸ビル、ラッシュアワー、地下鉄、シネマ、小田急などの言葉が躍り、当時の東京の(モダンな)風景を写し取ったと言われています(西條自身は皮肉のつもりだった、と言ったと言われています)。
 映画の『東京行進曲』の原作は菊池寛でしたが、その内容は原作からかけ離れたものとなっており、興行的には失敗であったと言われています。
 翌昭和5年には『新東京行進曲』が同じく西條八十、中山晋平で作られました。歌は佐藤千夜子が渡欧したため、四家文子となっています。
 前作の『東京行進曲』と同じく、モダンな歌詞をと注文があったのか、ネオンサイン、アスファルト、カクテール(カクテル)と来て、有名な「昨日チャンバラ、今日エロレヴュー、モダン浅草ナンセンス、ジャズが渦まくあの脚線美、投げるイットで日が暮れる」となっています。

 ちなみに戦後、昭和28(1953)年に『新東京行進曲』という映画が松竹から公開され、作詞:西條八十、作曲:古賀政男、歌:久保幸江で『新東京行進曲』が主題歌でした。

占いブーム

 漠然とした社会の不安を背景に、昭和初期(5、6年頃)から占いがブームとなりました。
 各種の雑誌に人生相談に並んで占いの記事が載るようになりました。
 現代のような星占い(十二星座ではなく、密教的なもの)、人相、手相、易、干支、夢、九曜六星、姓名判断や、伝統的な暦まで、様々なものが取り扱われました。
 大正期のオカルトブームの背景にも、西洋からの新たなオカルトの流入がありました。これらの占いにも西洋手相、花占い、トランプ占いなど西洋から輸入されたものや、西洋のものを真似たものがあったようです。
 そして、現代と同じように新興宗教(当時は新宗教)の教祖が作り上げた独自の占い、運命判断なども流行ったようです。
 ちなみにこっくりさんも占いの一つのように思われていたようです。

エコール・ド・パリ、パリの日本人

 エコール・ド・パリとはパリ派と訳されます。特にこれ、そこというようなものではなく、ゆるくパリに集まる芸術家、関係者をそう呼びました。
 主にモンマルトル、モンパルナスに芸術家たちが集まっていましたが、長谷川潔のようにあえて田舎の寒村で暮らし、創作を行った芸術家もいました。

 フランスも例にもれず、第一次世界大戦時には好景気に見舞われて、様々な芸術の中心地になりました。出身国の異なる芸術家たちが集うパリに、日本人も集まっていました。
 明治期には、一部の選ばれし者がパリへ渡っていましたが、現地に日本人が増えたことや、好景気に沸いた時期でもあったために、かなり気軽に渡っているイメージがあります。
 最盛期、パリには2000人以上の日本人が滞在しており、中でも芸術家たちが数百人はいたと言われています(フランスには5万人を超える芸術家がおり、その5~6割は外国人が占めていました)。
 当時、パリで暮らしていた芸術家で最も有名なのはもちろん、レオナール・フジタこと藤田嗣治ですが、松尾邦之助も有名です。
 松尾邦之助がフランスに渡ったのは大正11(1922)年です。
 現地に滞在して親しくしていたダダイスト辻潤から、昭和5(1930)年に読売新聞パリ文芸特置員を引き継ぎ特派員に、翌年には支局長となり、クニ・マツオとして戦後まで欧州に留まりました。
 フランスを訪れる芸術家、著名人に頼りにされて、『パリの文化人税関』と呼ばれる名物男となりました。
 エコール・ド・パリ、フランスにはこのほか、以下のような人々が暮らしていました。

 佐伯祐三、画家、大正13.1~15.1、昭和2.8~3.8(没)、帯仏中に病死
 蕗谷紅児、画家、詩人、大正14~昭和4
 東郷青児、画家、大正10~昭和3
 佐藤玄々(朝山)、彫刻家、大正13~15
 辻潤、作家、昭和3~4、松尾の前の特置員として1年間滞在
 島崎藤村、詩人、作家、大正2~5
 高浜虚子、俳人、作家、昭和11、留学中の次男を訪ねて
 横光利一、作家、俳人、昭和11、2~8月の間、フランス、ドイツを訪問した後、シベリア経由で帰国
 林芙美子、作家、昭和6~7、ロンドンにも渡った
 武林夢想庵、作家、大正9~昭和12年、たびたび帰国していた模様
 秦豊吉、実業家、その他いろいろ、大正6~15
 石黒敬七、柔道家、大正13~昭和8、藤田や松尾と柔道の宣伝を行った
 薩摩治郎八、富豪、大正11~昭和31、パリのパトロン。バロン薩摩などと呼ばれた

 この他、小林一三など様々な著名人がパリを訪れて、松尾の世話になったと言われいます。

 1930年代に入ると、世界恐慌からパリの芸術家たちは経済的な問題を抱えるようになります。
 さらにナチスドイツをはじめとしたファシズムの台頭により、欧州を暗い雰囲気が覆いましたが、第二次世界大戦がはじまるまではゆるい雰囲気が相変わらず流れていたと言われています。
 エコール・ド・パリは、第二次世界大戦、昭和15(1940)年にドイツがフランスを占領することで、終焉を迎えました。

 今でも知られる芸術家、オーギュスト・ロダンは大正6(1917)年、ピエール=オーギュスト・ルノワールは大正8年、クロード・モネは大正15(1926)年まで存命でした。
 フランスに渡った日本人の芸術家たちが、生きて彼らと面会した例も少なくありません。

もはや戦後ではない

 戦後10年が経過した昭和31(1956)年、政府の経済白書に記された言葉で、流行語ともなりました。
 前年にGDPが戦前よりも上回り、さらには朝鮮戦争による特需(神武景気)によって経済は沸いていました。
 同年の12月に日本は国際連盟で加盟し、国際社会にも復帰しました。
 この後、日本は空前の好景気、大量消費時代へと突入していきます。