大正の事件

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『大正の事件』目次:
 文化項目から事件系の項目を分離させ、大正期に起きた事件を紹介します。
 文化項目ではなく、犯罪や、それに関わるような項目をこちらに独立させていますが、一部、文化的な項目と判断されたものは大正の文化の方へ置いています。
 帝都で起きた事件に限らず、日本で起こった事件を取り扱い、シナリオの参考や、文化項目の補足項目となればよいかと思います。

当時の警察

 明治に入り、警察組織が組織され、主に士族からなる邏卒(明治5年に巡査と改称)が治安維持にあたりました。
 警察は言うなれば治安維持軍的な、その構成員のほとんどが元軍人、軍関係者です。
 彼らは最初は長さ1m程度の棍棒を標準装備としており、言うなればそれこそ制服を着た捕り方の様なもので、拳銃やサーベルなどの装備はありませんでした。
 明治15年になり、西南戦争で活躍した抜刀隊を意識してか、あるいは警察内の士気を高めるために、帯刀を許可し、一般警察官はサーベルを標準装備とします(しかし、大正の大震災時に抜刀して治安維持にあたっても効果は薄かったらしいです)。
 大正に入ると乗馬警察官(文字通り、馬に乗った警察官です)などは短剣を装備するようになります。
 大正13年から特高(特殊高等警察)を中心に拳銃の装備が始まり、警視庁でもFN/ブローニングM1910とコルト・ポケット.32(M1903)などが400挺ほど採用され、地方警察も予算に合わせて購入したようです。
 大正期では、「刑事」と言えば拳銃、「警官」と言えばサーベルで間違いないようです。

 維新の西南戦争時に薩摩軍の白兵戦に悩まされた官軍が警視庁抜刀隊を組織したのは有名で、殺人許可のある抜刀隊は通常の警察の手に余る重大犯罪、凶悪犯罪に出動しました。
 なお、いつまで抜刀隊が存在したのかは不明です(大正初めの日比谷焼き討ち事件時に、抜刀隊がどうこう、という記述も見られ、大正までもあったことは確かなようです。正式な部署、部隊ではなく、必要に応じて編成された?)。
 抜刀隊と合わせて、鉄砲組と呼ばれる陸軍払い下げの小銃などを装備した(当時にしては)重武装組織も存在したようです(実働はあまりなかったようですが)。

 大正初期の頃までの警察官と言えば尊大な態度で市民に「おいおい」「こら」と声を掛けるのが当たり前でしたが、大正2年、安楽総監の就任時に各署の所長に対して「もしもし」と呼びかけるように改善せよとの通達が出ています。
 これ以降、警察の不祥事や市民との衝突による警察官の不人気が進み、その態度も丁寧なものになっていきます。

 大正期の巡査の採用基準は以下の通りでした。
  ・現役兵役を終了
  ・身長155センチ以上
  ・身体強健
 以上の条件を満たす男子のみとなります。
 この資格を満たす場合に、巡査の受験資格があり、志願書と履歴書を提出したうえで、歴史、地理、算術、国語の試験をパスした後、巡査教習所で3ヶ月程度の学科、実務を学び、さらに教習期間の終わりに試験があり、これを合格した場合に警察署に配属され、さらに一定期間の警察署勤務後、駐在所に派遣されました。
 また、採用当初は原則警察署に併設された宿舎で寝泊りし、制服は給付品ですが、サーベル等は私物でした(拳銃が支給されるのは震災後で、特高、刑事が中心であり、巡査にまでは支給されていませんでした)。

 巡査は、巡査部長、内勤、外勤、特務、刑事と区別され、主な業務は以下の通りです。
 ・巡査部長
  巡査業務に加え、警部、警部補の補助。
 ・内勤
  警察署内での事務。
 ・外勤
  交番勤務を中心とした実務。
 ・特務
  法廷取締などの特殊な技能が必要なもの。
 ・刑事
  犯罪捜査、検挙のみを担当する。

探偵

 フィクション、ノンフィクション問わず、探偵の存在は有名です。
 この探偵業というものは一切の資格、申請は近年まで不要で、平成19(2007)年にやっと「探偵業の業務の適正化に関する法律」で一定の規定、規制が定められました(それでも、都道府県委員会への開業届出のみであり、資格が必要になったわけではありません)。
 興信所とは「信用を興する」、探偵は「調査を行なう」という意味で、興信所も信用を興する為に調査を行なう為、探偵と興信所の明確な差異はありません。

 探偵業の歴史は古く、産業革命の中期にはすでにあったと言われています。
 1833年のフランス、フランソワ・ヴィドックが最初と言われており、諜報活動に従事していた元軍人であると言われています。
 アメリカの有名なピンカートン探偵社も1852年に開業しており、日本では明治25(1892)年に大阪で商業興信所が最初だと言われています(ただ、その1年前に帝國探明会(会は旧字体)という企業の広告があり、もっと古くから調査を行なう会社らしきものはあったようです)。
 同じ年に、商工社(現在の東京商工リサーチ)、29年には東京興信所が設立されのちに商業興信所と合併し、現在の東亜興信所となっています。また、33年に帝国興信所(現在の帝国データバンク)が開業しています。
 これらの多くは銀行や企業、経済人の後ろ盾によって設立されており、主に企業の信用調査を行なうのを目的としていたものでした。
 調査の方法も全くノウハウが無いところから始まっていたこともあり、信用調査の対象に直接乗り込んでいくとか、興信所だと丸分かりの状態で周辺の調査を行なうなど、笑い話の種になるような稚拙なものが多かったと言われています。
 また、これらの調査を企業側も、調査を受ける側も忌避する傾向があり、世間の見る目は冷たかったようです。

 この後、日露戦争によって世間が戦勝景気に沸くと、企業や採用の調査のブームがにわかに起こり、様々な探偵社の設立が相次ぎました。
 この明治後期の雨後のたけのこのような探偵社の乱立は、特に資格、規制がなかったことからも、性質の悪い探偵社を増加させます。
 調査報告自体が適当なものはまだマシな方で、調査結果を出さずに(実際は調査をしていない)のらりくらりと言い逃れる、調査結果をネタに強請りたかりの類まで存在したようです。
(元々、探偵草創期には自分で犯罪を起こして自分で解決するようなものまで居たと言われています)
 このような事態を受けて、明治43(1910)年に大阪府で「信用告知業取締」の県令が発せられ、探偵社、興信所を警察署長の管理下に置き、不正を禁じるとしましたが、この規制がどこまで効果があったかは疑問があります。ただ、これを機に右に倣えとほぼ全国で同じような県令が発効されました。
 この規制の為、と言うわけでもなく、信用も実績も無い探偵社が生き残る為に、どこからかの依頼を受けて調査するのではなく、自身で勝手に調査を行ない、会社や個人の名簿、いわゆる信用録、紳士録を発行して企業に買い取らせていたようなものも多く存在しました(そして、これらの営業形態は昭和の戦後まで続けられていたようです)。

 明治28年に私立探偵の草分けである岩井三郎が登場し、岩井三郎事務所を開設します。
 10年程度は信用も実績も無かったこともあり、華々しい活躍はありませんでしたが、明治40年ごろから新聞や雑誌にもその活躍が取り上げられるようになり、まるでフィクションの探偵のような活動が報告されるようになります。
 また、警察と連携して多くの事件を手がけたと言われており、警察が動く前や、動きにくい場合に調査を行い「伊達騒動」や「シーメンス事件」などにも関わったと言われています。
 これにより探偵志願者が増える、依頼人も増えるなどの効果もあったようです。
 この岩井三郎事務所には有名な(?)二人の女性探偵、昭和5(1930)年に日本で最初の女性探偵と言われる天野光子が、昭和16年に芹沢雅子が入所しています。
 ちなみに、1856年にピンカートン探偵社に所属したケイト・ウォーンが世界で初めての女性探偵と言われています。
 岩井三郎の名は3代に渡って受け継がれ、岩井三郎事務所は現在はミリオン資料サービスとなっています。

赤バイ

 交通事故の増加に対して、大正7年に警視庁は交通専務巡査を100人配置します。
 当時は白いバイクではなく、赤いバイクで、白バイは昭和11(1936)年からです。
 現在のような速度計測器が無かった為、スピード違反らしき車を発見した場合、追走し、そのバイクの速度を見て速度を量るというものでした。
 ちなみに当時の制限速度はなんと時速10マイル(16Km/h)!
 制限速度を守っている車に自転車が追突するなどという事故もあったようです。一応、時速15マイル程度までなら目こぼししてもらえたようです。

大本教取締

 大正7年に、大本教の開祖出口ナオは死去、以来娘婿の出口王仁三郎を中心に「大正維新」と称した「立て替え立て直し」「鎮魂帰神法」を中心とした運動を始め、大正9年に大正日日新聞を買収、大々的な宣伝に乗り出しました。
 この結果、当局は、「立て替え」時期の宣伝による人身惑乱や、「鎮魂帰神法」の医療妨害的側面から、大正10年に不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、王仁三郎ら幹部を検挙し、大本教本部の大捜索が行われました。
 この後、幹部が脱退するなどで大本教は分裂しますが、昭和10年に再び大弾圧を受け、大本教は壊滅します。

鬼熊報道

 大正末、15年8月に、千葉で起きた、通称、「鬼熊事件」です。
 二人の愛人に騙されて別れることになった「熊さん」こと岩淵熊次郎が、その愛人の一人「おけい」を撲殺、その後、「おけい」に熊次郎と別れることを勧めた長老宅に放火、それを止めようとした数人を鍬で殴り倒しました。
 さらに、別れ話に関わっていた巡査にも報復の為襲撃し、そこでサーベルを奪うと、別の愛人の別れ話で熊次郎を騙した相手の家を襲撃、サーベルで切り殺しました。この後、この男とぐるになっていた男の家へ向かう途中、追ってきた刑事に重傷を負わせ、山中へ逃走します。
 この追跡劇は42日にも及び、連日、その様子が新聞各紙に報道されました。
 凶暴な連続殺人、放火事件であるにも関わらず、地元では義侠心に富む男として人気があった熊次郎のその犯行はやむにやまれぬものとして、同情をもって受け止められます。
 その為か、記者たちも最初は「殺人鬼熊次郎」を略して「鬼熊」であったのが、後には「熊公」「熊」となり、そして「熊さん」となってしまいます。
 この人気は大変なもので、子供達のあいだで「熊ごっこ」なるものまで流行ったといわれています。
 また11月には鬼熊事件をドラマ化した映画がすでに上映されていました。
 これらの人気は新聞、映画ニュース、赤本などの報道メディアが作り上げたもので、さながら現代のごとく、メディアが作り上げた虚像を商品化、消費する、といった構造が見られ、大正期といえど、「情報の娯楽化」がされる好例であると思われます。

宮中某重大事件

 大正9(1920)年に、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が成年式を迎え、久邇宮邦彦王の第一王女良子女王と婚約を結びました。
 しかし、これに対して当時主席元老であった山県有朋が、良子女王の家系に色盲の遺伝がある可能性があるとして、婚約辞退を迫りました。
 この事件は皇室に関わるゴシップであった為、当時報道管制を敷かれており、「宮中某重大事件」と呼ばれるようになります。
 事件は皇室を巻き込み、世間を巻き込み、実際に色覚異常があるかどうかを確認する事態にまで発展します。
 事件の裏には、山県が薩摩の血が皇室に入るのを嫌っているとか、薩長の藩閥抗争や、あるいは久邇宮家の皇室への干渉を嫌った動きであるとか様々に言われましたが、世間で右翼の壮士達が「山県、中村(宮省)を暗殺を企んでいる」という流言までがされるようになります。
 結局は、病気の大正天皇に代わって実質的に皇室を動かしている貞明皇后、久邇宮家、そして皇太子裕仁親王当人の意思から、婚約辞退は破棄され、そのまま内定しました。
 この事件により山県は元老を辞することを表明しましたが留意され、翌年に失意のまま没したと言われています。
 また、この事件で当時首相であった原敬は山県側についており、暗殺事件の遠因の一つであるとも言われています。

満州某重大事件

 昭和3(1928)年、中国の軍閥の指導者であった張作霖が爆殺された事件のことであり、奉天事件とも呼ばれることがあります。
 終戦まで犯人が公表されることが無かったことと、当時、陸軍からの報道管制もあったことがあり、「満州某重大事件」と呼ばれるようになります。
 当時、首相であった田中義一(陸軍大将)は張作霖を直接見知っており、今後とも使って蒋介石に対抗させる、という方針を出していたのですが、現地の関東軍にとっては張作霖は満州の実権を握り、言うことを聞かなくなった邪魔な存在となっていました。
 そして、陸軍の独自の判断によって、張作霖を除く、という暴挙に出ます。そしてこの事件は、南部側(蒋介石側)がやったというように偽装はされましたが、中国国内でも日本側の仕業ではないか、という疑問が広がり、むしろ抗日運動を激化させるという結果を招きました(その上、中国人の指導者を欠くという状況で)。

ジゴマ

 大元はフランスの怪盗ものの小説であり、明治44(1911)年に映画化、同年のうちに日本でも公開されました。
 内容は変装の名人、ピストル強盗であるジゴマが強盗、殺人を繰り返すというもので、映画化に辺り、アクションシーンや、撮影を利用したトリック等の先駆的な映画であることもあり、日本で公開されるや否や大ブームとなりました。
 この後、全く関係ない女盗賊を主人公にした映画が女ジゴマと称して公開され、これも大ヒット、そしてこれに続けとばかり和製ジゴマ映画まで作られるようになります。
 このジゴマブームは映画のみに限った話ではなく、小説でもジゴマのような怪盗小説、あるいは怪盗VS探偵のようなものが多数作られます。この後の探偵小説ブームの走りと言えるかもしれません。

 このブームは、当時、ジゴマのやり方、横暴を通す、神出鬼没という意味や、あるいは直接的に強盗や、犯罪に関わるようなことを、「ジゴマ式」とか、「ジゴマる」と言うような表現をすることもあるほど一般に広まり、子供達の間で変装したり、強盗の真似事をする「ジゴマごっこ」が流行るほどでした。
 現代でもあることですが、このジゴマに影響されて実際に強盗を働いてみる、という若者(馬鹿者)が逮捕されるような事件も発生し、また、教育上よろしくないという教育側の判断や、新聞の論説もあってか、約1年間に渡って世間を騒がせたジゴマは、大正元(1912)年10月に、警視庁から上映禁止命令が出されます。
 警視庁に次いで、内務省警保局から全国に伝わり全国的に禁止されました。そして、これらの動きによって、警察署がばらばらにやっていた映画に対する検閲を、体制側が制度的に行なうようになりました。

 この上映禁止に合わせて、小説も制限すべき、という論調もありましたが特に命令等は出なかったようですが、映画が禁止されるや、ブームは下火となり、大正2(1913)年の頃にはすでに小説も無くなっていました。
 なお、原作の小説はかなり後、昭和12(1937)年に久生十蘭の手で翻訳されましたが、探偵小説として翻案されたものです。

日陰茶屋事件

『日陰茶屋』は、現代では葉山「日影茶屋」として、懐石、フレンチ、スイーツの老舗として有名ですが、大正期でも江戸期より続く伝統ある老舗旅館でした(戦後に旅館は廃止されています)。
 大正5(1916)年、11月9日未明、この宿を訪れた神近市子(かみちか・いちこ)が大杉栄を刺傷、世間を騒がせました。この痴情のもつれによる大杉栄の刺傷事件が『日陰茶屋事件』です。

 大杉栄は当時、有名な社会主義者であり、アナーキストとしての立場を押し出していた時期で、文筆活動を中心に行なっていました。
 この時期、堀保子(ほり・やすこ)と結婚していましたがほぼ別居の状態で、文学者辻潤の妻であった伊藤野枝と同棲関係となり、さらには元々の愛人神近市子ともずるずると関係を続けていたという状態でした。
 大杉は「経済的に自立し、別居して、性的自由を保証する」自由恋愛なるものを謳っていましたが、定職に着かず、文筆活動と社会主義者としての活動資金だけで生活をしていた大杉は、妻保子と、神近からの経済的な援助を得て生活が成り立っている、という有様でした(それにも関わらず、野枝と同居する、という状態で…)。
 そして、雑誌発行に伴う保証金としてまとまった金を得た大杉は、事件の起こる逗子『日陰茶屋』へ文筆活動の名目で野枝を連れてやってきます。
 当初、大杉は神近に「一人で行く」と告げていたところ、この事実を知った神近は短刀を用意して日陰茶屋と乗り込み、大杉の頚部を刺傷、重傷を負わせますが死には至りませんでした。
 神近はこの後、入水自殺を図りますが、死に切れずに逗子の交番へ自首しました。
 この事件をきっかけに元々孤立しがちだった大杉は完全に社会主義同志の間でも孤立し、全国行脚の旅に出ることになります。
 神近市子は東京日日新聞の記者であり、いわゆる職業婦人として知られた才媛であり、『青鞜社』では伊藤と顔を合わせたこともあった仲でした。

 神近は2年の服役後、文筆活動を再開し、戦後にはいわゆる左派政治家となり、大杉、伊藤は震災時の『甘粕事件(大杉事件)』で殺害されてしまいます。

小笛事件

 小笛事件(こぶえじけん)、あるいは白川四人殺しと呼ばれる、、法医学鑑定が裁判で争われた有名な事件です。
 大正15(1926)年、京都市内に在住の平松小笛が、その養女千歳と、小笛の友人の子供喜美代と田鶴子を巻き込んだ無理心中を図りました。
 事件後、当時小笛と付き合っていた、広川条太郎が逮捕されました。現場から小笛、広川の連名の遺書や、現場の散乱の具合などから、無理心中に偽装しての殺人と目されていましたが、広川は当初から無罪を訴えました。
 状況証拠は広川に不利でしたが、小笛が金に困っていたことや、千歳の心臓が弱いことを悲観していたこと、さらには広川と連名の遺書が筆跡鑑定により小笛単独で書かれたことなどが発覚しました。しかし、小笛の解剖の結果が広川が犯人であることを示唆しているとして、警察は広川による殺害、自殺の偽装を主張し起訴されてしまいました(広川は一貫して公判開始まで無罪を主張しています)。
 検察側の解剖結果による主張を覆す為、弁護側が再鑑定を要求した結果、当時の権威である、東京帝国大学教授三田定則博士、大阪医科大学教授中田篤郎博士、九州帝国大学教授高山正雄博士の再鑑定が行なわれました(最初の解剖は、京都帝国大学小南又一郎教授によって行なわれています)。
 この結果、中田、高山の鑑定は他殺としましたが、唯一三田だけが自殺と断定しました。当時の権威ある三田の鑑定結果と、裁判官の心証に訴えることで広川は昭和2年の裁判で無罪を勝ち取りますが、検察側が翌日控訴、さらに検察の申請によって、長崎医科大学の浅田一博士と東北帝国大学の石川哲郎博士の再鑑定が行なわれることになります。
(この結果、六大学につき一人ずつ、その道の権威が法医学鑑定を行なうことになります!)
 その結果、検察の思惑を裏切り、浅田、石川とも自殺と鑑定、結果的に広川は無罪となります。

 より詳細は、実録小説である山本夭太郎『小笛事件』を参照するのがよいでしょう。
 また、上野正彦『死体は語る』にも小笛事件の記載があります。

猫いらず

 明治38(1905)年に発売が開始された、いわゆる殺鼠剤の一つです。
 その普及に伴い、これ以外のものもまとめて殺鼠剤=猫いらずという認識になります。
 黄燐や亜砒酸を主成分としている為、ネズミ以外にも効き、当然、人間にも効くうえに、入手も簡単である為、自殺や犯罪に使用されました。

 大正11(1922)年に13歳の少女が奉公先の朝食の味噌汁にこれを混入し、殺害を謀ったところ燐が燃え、発覚して未然に防がれたという事件が発生しています。
 また、大正12年にはこの猫いらずの発売禁止の議題が衆議院にも上がっています。

下谷サドマゾ殺人

 大正6(1917)年、東京市下谷区の大工職人の内妻がひどい拷問の末、死亡しました。
 死体は警察の解剖の結果、全身が傷だらけであり、背中や腕に焼け火箸、あるいは刃物によって文字が書かれており、また手足の指が複数切断されていました。
 当初、この事件は嫉妬深い夫が妻の不始末に折檻を加え、殺してしまった、と報道されていましたが、夫の大工は逮捕当初から「妻がやれといったのでやった」「行為の最中に痛いと言ったことがない」等と供述しており、調べを進めるうちに、これがサディズム、マゾヒズムの性倒錯の末であることが発覚しました。
 大工の夫は精神鑑定にも掛けられ、無罪の鑑定が出されましたが、検察側はこれを無視して懲役10年以上を求刑しました。しかし、大工の夫は判決の前に獄中で脳溢血で急死しました。
 この事件は、三田定則のあと、法医学教室を担当することとなる古畑種基が内妻の死体解剖に立ち会っています。

説教強盗

 大正15(1926)年から昭和4(1929)年にかけて帝都外縁部に出没した怪盗(?)です。
 その名前の通り、忍び込んだ家の家人に2,3時間の長時間におよび防犯の心得等を説教することで有名になりました。
(当然、自身で説教強盗と名乗った訳ではなく、新聞での報道での命名です)
 おおまかな手口としては、寝静まった家の電話線と電線を切り、忍び込んで家人を起こしたうえで金品を脅し取り、そして説教を懇々と行い、朝方の人ごみに紛れて逃走すると言うものでした。
 また、忍び込むのも新興住宅地域で、警察組織等の未整備、住民の関係も希薄といったところを狙いを定めており、なかなか逮捕に至らず、模倣犯まで生み出しました。
 この模倣犯は非常に簡単に捕まりましたが、本物はなかなか捕まらず、東京朝日新聞が一千円の懸賞を出すに至ります。
 そして昭和4年、特捜班が設置され、過去の事件の記録から意外にあっさりと説教強盗は逮捕されました(懸賞金は警察関係者に慰労金として渡されたそうです)。
 記録にあるだけで強盗58件、窃盗29件、強盗傷害2件、婦女暴行1件の罪で、無期懲役となっています。

扶桑劇社の女優詐欺

 大正期、活動写真が隆盛を見た中で、現代もあるような「女優にしてあげるよ」という甘言を弄して、歳若い女性を弄ぶ事件が発生しています。
 大正7(1918)年、下谷区上根岸に事務所を構えた扶桑劇社は、『地方新聞』に堂々たる広告を打ち女優を募集しました。
 応募してきた女性に対して「表情は性を解する者でなくては出来ない」等と称し、暴行を加え、当然、女優にするわけでもなく、銘酒屋や遊郭に売り飛ばしたり、保証金と称して金品を巻き上げたりといった行為を繰り返しました。
 これらの地方から出てきた女性の多くが、家出同然であったり、あるいは特に帝都に伝手があった訳ではなかったことが彼女らを泣き寝入りさせ、事件の発覚を遅らせた原因でもあったようです。
 大正14年(恐ろしいことに、震災を乗り切ったようです)に事件が発覚、首謀者が逮捕され、7000人余を弄んだと豪語しました。

皇居二重櫓白骨死体事件

 二重櫓は江戸城の伏見櫓のことで、元は伏見城にあったものが移設されたものです。
 大正14(1925)年、震災によって被害を受けた二重櫓を修復しようと工事をしたところ、その土台部分から21体(16体との記述も)もの白骨死体が発見されました。
 死体はそれぞれ立った姿勢で、肩や頭に古銭が乗っていたと言われています。
 これらの情報は全て関係者からの伝聞からの新聞での報道であり、正確な情報は基本的に伝わっていません。発見後も、正式な調査等もされずに(果たして、白骨死体は埋め戻されたのか、他所へ埋葬されたのかも不明です)事件は闇に葬られました。
 この発見は当時皇居内の出来事でもあり、あまり大きく報道されなかったようですが、民俗学会では天皇家の人柱だ、そうではない、という論争を呼んだようです。
 学会の重鎮である柳田やその学派が人柱ではないと主張し、南方熊楠や、柳田と対立する(?)民俗学者からその主張を非難するような論考、言説が発表し、中世でも人柱が行なわれていた証拠と主張しました。
 しかし、これらの白骨については江戸城建設時の事故による死者である可能性が高いと見られています。建設当時、相当なハードスケジュールであったとともに、これらの工事に関わった人足達の身分が軽いこともあった為(この重労働から逃亡を図れば即斬殺)、簡易な埋葬として合葬された、と考えるのが自然です。
(もちろん、江戸城建設時のものなので天皇家の人柱、というのもありえない話です)

大正期の銃器、刀剣の規制

 明治9(1876)年のいわゆる廃刀令により、大礼服着用時、警察官、軍人以外の帯刀が禁止されました。
 帯刀が禁止されたのみで、所持は特に規制されなかったようです。禁止対象は主に腰に挿す刀の類で、腰に挿すことを禁止するような条文であったこともあり、袋に入れて持ち歩くといったことがあったようです。
 廃刀令においては、懐に呑むような短刀、匕首の類は禁止されていないか、目こぼしの対象であったようで、大正12年に改めて警視庁から短刀、匕首の類の携帯を禁止する通告が出ています。

 廃刀令は一応銃火器の類も規制の対象であり、刀と同じくおおっぴらに持ち歩くことを規制しました。
 銃火器の規制は、明治43(1910)年の銃砲火薬類取締法まで廃刀令準拠で、一般人でも普通に所持可能で(要するに、持ち歩かなければ問題なし、ということです)、新聞などにも堂々と銃火器の類の広告が載るほどでした。
 しかも、通常の火薬の拳銃の類だけでなく、空気銃や杖銃(いわゆる仕込み銃)、さらには猟銃の類からダイナマイトまで買えると広告にはうたっています。
 明治初期から銃火器は国産品が存在しましたが、多くは軍部へ入り、その払い下げという形で一般には出回ったようですが、国産品に比べ輸入品の方が入手が楽で、安価であったこともあり、輸入業を営む商店や、銃火器の専門店もありました。

 銃砲火薬類取締法の施行後は、銃火器の所持は登録、許可制となり、基本的には軍人、警察官と言った正統な理由が無ければ所持できなくなりました(当時、軍人や警察官が所持している拳銃の類は私物であり、個人の所有物でした)。
 大雑把な所持資格として、満20歳以上、所持証明書を持っている、の2点となります(所持証明書は正規の取り扱いの訓練を受けていることが条件です)。
 しかし、予備役や、兵役を終えた後の在郷軍人会に所属している場合や、治安が悪い地域、外国へ行くなど言えば簡単に許可が降りました。
 当然、ある程度の身分証明も必要ですが、私立探偵が護身の為に銃を所持していたり、満州などに行く新聞記者などが銃器を所持してもおかしくなかったようです。
 また、施行と同時に取り上げられた訳でもないので、それまでに所持していた銃器の類はそのままであったようです。
 この銃砲火薬類取締法は刀剣類は規制範囲に入っておらず、相変わらず廃刀令が基準だったようですが、銃砲火薬類取締法によって見る目は厳しくなったようです。この為か、仕込み杖が流行し、昭和3(1928)年には仕込み杖も許可制となります。

華族の駆け落ち、情死、危ない運転手

 大正6(1921)年3月に、芳川子爵家の鎌とお抱えの運転手倉持が駆け落ち、情死を試みました。
 二人は鉄道自殺を選び千葉で蒸気機関車の前に飛び込んだのですが、倉持の方は躓いて線路の向こうへ跳び出して軽傷、鎌は顔面に重傷を負い、死には至りませんでした。
 死に損なった倉持は、この騒ぎに集まってきた人々に驚くとともに、鎌はいずれ死ぬものと思い込んでその場を逃げ出した後、短刀で喉を突いて自殺しました。
 ところが、鎌は死に至らず、翌月の4月に千葉の病院を退院、未だに噂は下火にもならず、一旦、鎌を下渋谷、宝泉寺内の貸家へと隠されます(当時、渋谷は田舎なのです)。
 その後、鎌の心中を模倣して、現場となった鉄道に飛び込み自殺を図る女性が現れ、噂は一向に衰えることがありません。
 芳川家から離籍し、出家生活をするように勧められたのですが、結局は特に入信などもせず、中野町の芳川家の別邸へと隠れ家を移すことになります。
 このとき、運転手となったのが出沢で、大正7年10月に、二人はまた駆け落ちをします。4日後、四谷で発見され一旦は引き離されますが、その後、鎌は芳川家を勘当、庶民として出沢と一緒になります(正式な婚姻関係ではなく、内縁でしたが)。

 大正9(1920)年に、旧小城藩の子爵鍋島直虎の令嬢とし子が、お抱えの運転手である多田と駆け落ちをします。当時、とし子は学習院女学部の3年生で19歳でした。
 この駆け落ちは即座に気が付いた子爵が彼らの乗った列車を突き止め、その停車駅である横浜で車内を捜索、連れ戻すという非常に迅速な動きを見せました。
 しかし、新聞にもこの事件は漏れたようで「男は美男にし女蕩し」と報じられ、多田が悪役として事件は収束します。
 この後、とし子は毛利家の分家筋の男爵と結婚し、恙ない人生を送ったようです。

 人力車の時代において車夫との情死、というものはあまりみられませんでした。
 車が密閉空間であることや、車夫とは異なり、洋装で車を運転する姿に魅力を感じるのか、華族の令嬢やらご婦人がお付きの運転手とねんごろになることが多かった(?)ようです。

天国に結ぶ恋、情死にまつわる3つの事件

 大正5(1916)年、岩手県二戸において良人に虐待された妻が実家に戻り、縊死を遂げた為に近隣の寺へ埋葬されました。
 ところがその後、この女の幼馴染であった男が埋葬された死体を掘り出し、その死体と自分を結びつけた後に持参の銃で自殺をするという奇怪な情死を遂げました。

 昭和7(1932)年5月、神奈川県大磯で慶大生と若い女性が結婚を反対されたことを儚んで心中を遂げます。
 この事件は「坂田山心中」と名付けられ、翌月にははや「天国に結ぶ恋」と題されて映画化されました。同名の主題歌とともに大ヒットします。
 暗い世情とも相まってか、映画がヒットすることで自殺が急増し、「天国に結ぶ恋」を映画館で見ながら服毒自殺を図る者が現れたり、この年だけで「坂田山心中」と同じ場所で二十組もの心中が発生しました。
(一部の県ではこの映画の影響を恐れて上映禁止になったほどです)

「天国に結ぶ恋」では、「清い二人は」などとロマンチックな心中ものとして描かれていますが、「坂田山心中」は情死の後、女性の死体を掘り出しこれを持ち去った事件が発生しています。
 女性の死体は消失後、2日目に発見されて荼毘に付されましたが犯人は女性を埋葬し、そして火葬した65歳にもなる老人でした。
 老人は埋葬人として女性を埋葬した時にこの死美人に魅入られ、その夜に再び掘り起こして死体を持ち去り、新聞に「おぼろ月夜にものすごい死体愛撫」と伝えられるように死体を愛でた後、翌日には消失した死体の捜索に参加、発見後は火葬を行なっていました。
 もちろん、「天国に結ぶ恋」ではこれらのグロの部分は全く削除されています。

 そして、この事件の一ヶ月前に、「死体と情死」と題された事件が起こっています。
 横浜の宿屋において、2日の間姿を見せぬ投宿客に不審を抱いた主人がその部屋を覗くと、泥酔した男が死体を抱いて眠っているのを発見しました。
 この二人は情死を目的にネコイラズを飲んだまでは良かったのですが、女は死亡、男は死なずにそのまま酒浸りで女の死体と共に眠っていたのでした。
 こちらの事件は横浜の新聞に小さく報道されたのみで、特に世間を騒がせたことも無かったようです。

日比谷焼き討ち

 明治38(1905)年9月5日、ポーツマス条約(日露講和条約)によって、日露戦争は実質的に日本の勝利として終わりました。
 しかし、講和条約ではロシアが満州、朝鮮から撤退、樺太の南半分を割譲するといったもので、何よりも国民が求めていた賠償金の請求はありませんでした。
 国民はこの内容を受け入れられず、条約の締結前から新聞の報道などによって煽られて、日比谷公園で国民大会の開催を強行して警官隊と衝突します。
「講和条約破棄」の宣言を謳った後、群衆は銀座方面へ暴徒化しつつ移動、政府関係各所や警察署、駐在アメリカ公使館を襲い、帝都は無政府状態に陥ります。
 翌9月6日、東京市、府下5郡に対して戒厳令を発令、軍が鎮圧にあたりました。翌7日は鎮圧されて、死者17名、負傷者1000名以上、検挙者2000名以上にも上ったと言われています。

 この事件が大正デモクラシーの先駆のように語られることがありますが、内容があまりにもデモクラシー的なものからはかけ離れています(市民運動と言えばそうなのですが)。
 この時代は「戦争は儲かる」という意識が国民にあり、それがために日露戦争の勝利によって儲からないことを怒った、と言う点があります。

大正政変

 大正2(1913)年に桂内閣(第3次)が倒れたことを指します。
 当時、桂園時代と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交代で首相を務めました。薩長閥の代表格である桂と、議会第一党である立憲政友会の総裁の西園寺との妥協の結果でしたが、傍から見れば「藩閥と政友会による権力の独占」としか映りませんでした。
 明治40(1907)年から陸海軍はそれぞれ軍備の拡張を要求、大正元(1912)年の議会で陸軍省上原勇作陸軍大臣が2個師団の増設を要求するも採用されず、辞任します。この後、陸軍が代わりの陸軍大臣を出さなかったため、西園寺内閣は総辞職しました。
 当時、桂太郎は宮中で内大臣となっており、「府中・宮中の別」の原則によって政治には関われないようなっていたはずでしたが、大正天皇に詔勅を求めて再び総理大臣に返り咲きます。
 この軍部(藩閥)の横暴に、「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとして憲政擁護運動が展開されました。
 桂は首相就任後、大正天皇の詔勅を連発、これによって「天皇の政治利用」と批判を受けます。さらに政友会とも距離を置いて、立件国民党に接近、議会を停止するなど政争に明け暮れました。
 この桂の工作の外で護憲運動は過熱、翌大正2(1913)年には尾崎幸雄による有名な「玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて」の弾劾演説がなされ、内閣不信任案が決議されそうになるも、再び議会を停止します。
 この間に桂は再び大正天皇の詔勅を引き出して乗り切ろうとするものの、政友会の代議士や報道が過熱、民衆が議会を取り囲むところまでエスカレートさせて、内閣発足53日で総辞職となりました。
 この後、再び西園寺が首相になることが打診されましたが辞退、組閣の大命は山本権兵衛に下ることになります。

糸魚川心中事件

 明治44(1911)年、新潟の糸魚川の親不知で起こった心中事件です。
 曾根定子と岡村玉江の二人は女学生時代に親友、「一日顔を見ねば互に寂しさに耐えぬという」というほど親密でした。卒業後、定子に縁談が持ち上がり、父親は「度を越したる両女の交わり」と交際を諫めます。
 二人は相次いで出家した後、二人で糸魚川へと逃亡、着物の袂に小石を入れて、扱帯で互いの身体を結び付けて入水しました。

 この心中は当時、新聞でも大々的に報道されて、同性愛という言葉を世に広めました。
 それまで、下層階級において同性同士の心中も見られたのですが、これらはお互いの境遇、世を儚んでの心中であると解釈され、同性愛によるものではないとされていました。
 二人は上流階級、知識階級の令嬢であったことがこの事件の報道を過熱、特別扱いさせました。

亀戸警察官電殺事件

 大正2(1913)年に亀戸で起こった、警察官が被害者の殺人事件です。
 当時、東京府南葛飾郡亀戸の民家で窃盗犯の侵入を発見し、警察に通報しました。駆けつけた巡査が裏口に入ろうとしたところ、感電による即死、続いて家の主人、義父も火傷を負いました。これは犯人が隣家から電線を引いて、高圧電流が流れる罠をしかけたためでした。
 現場に残された遺留品、罠を作るための道具などから犯人を絞り込み、有楽町で警戒にあたっていたところ再犯に及んだ犯人が逮捕されました。
 犯人は電燈工事会社で働いていた際に、こえらの技術を身に着けたと自白します。
 裁判で死刑判決が出ましたが控訴した新聞記事が出ており、最終的にどうなったかは不明です(死刑のままだったのか、無期に減刑されたのか不明です)。

愛知貰い子殺人事件

 愛知県愛知郡愛知町、今でいう名古屋市中川区、中村区のあたりで起こった、新生児の大量殺人事件です。
 戦前、堕胎、中絶は非合法であり、避妊の無知、男性側の貞操観念の欠如などの要因から、父親不明の私生児が多かったと言われています。
 特に不倫の子の母親は離婚されるだけならまだマシで、姦通罪などに問われることもありました。
 これらの理由により、産んだのは良いが育てられないと言う状況で、生まれた赤子に養育費をいくばくかつけて里子に出す、といったことが少なくありませんでした。
 これに目を付けた犯人は、養育費、手間賃を目当てに赤子を引き取り、育てもせずに殺害を繰り返します。
 正確には分かっていませんが、明治30(1987)年頃から犯行に手を染めて、引っ越しを繰り返して犯行現場をごましながら大正2(1913)年の逮捕時点ですでに200人に余る新生児を殺害していました。
 逮捕時には犯行仲間が3人になっており、全員に死刑が言い渡されて、大正4(1915)年には執行されています。
 なお、類似の事件が同じ愛知の熱田や滋賀県において発生して、同様に検挙されています。

吉田巌窟王事件

 大正2(1913)年に名古屋で起こった強盗殺人事件の冤罪事件です。
 アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を黒岩涙香が翻案した『巌窟王』になぞらえて、こう呼ばれています。
 大正2(1913)年、名古屋市千種区の路上で強盗殺人が発生しました。翌日、犯人の二人が逮捕されるも、無関係の男性を主犯格であると偽証、供述をでっちあげました。
 この結果、その男性は逮捕、自白を強要されましたが、一貫して否認、無罪を主張します。一審は「主犯」扱いで死刑、控訴、上告審と続けて無期懲役となり、服役します。
 その後も獄中からも男性は冤罪、無罪を訴え続け、昭和10(1935)年には仮出獄、従犯格と見られた二人を探し出し、新たな証言を得ます。翌年に再審請求を行うものの、却下となりました。この様子を司法記者などが「昭和の巌窟王」として広く報道されました。
 さらに戦中、戦後も無罪を訴え続けて、昭和38(1963)年に無罪判決を勝ち取りました。

小石川七人斬り

 大正4(1915)年、帝都の小石川で発生した強盗殺人事件です。
 小石川にあった東京電燈(東京電力の前身)の出張所に住み込んでいた一家8人のうち、幼児を除く7人を殺傷、うち5人が死亡しました。
 当時の警察は目撃情報から犯人を決めて自白を行わせる、というスタイルであったため、深夜の犯行の目撃者などは少なく捜査は難航しました。
 しかし、現場の遺留品などから犯人を絞り込み、半年後に男が二人逮捕されます。同大正4(1915)年の一審で死刑、執行されました。
 凄惨な事件であり、科学的な捜査が行われたようにも見えるために、事件後は様々なフィクションに影響を及ぼしたと言われています。ただ、その科学的というのが手相のような指紋の人物鑑定だったり、過去の関係者ややはり周辺の目撃情報などからの自白を取ろうとするのがメインだったりしたので、現代の目から見れば科学的には程遠いですが、当時としては画期的に見えたようです。

鈴ヶ森おはる殺し事件

 大正4(1915)年に鈴ヶ森で起きた殺人、冤罪事件です。
 鈴ヶ森刑場跡に建てられた砂風呂旅館「浜の家」の娘伊藤はるが、刑場時代からあったという鬼子母神堂でア殺害されました。
 被害者のおはるには複数の愛人が居たと見られており、「浜の家」も連れ込み旅館のようなものだと言われて、売春を生業として怪しい男は何人もいました。
 警察側はこれらの事情から痴情のもつれと判断し、愛人の一人を逮捕します。当時、警察は自白偏重主義でほとんど拷問のようなこともやってのけるため、逮捕された愛人は犯行を認めて自白してしまます。起訴後、無実を訴えましたが死刑を言い渡されてしまいます。
 これを見た真犯人が自首、逮捕された愛人の無罪を訴えますが、真犯人は殺人とは別件で無期懲役、おはる殺しは証拠不十分で無罪となります。検察側は控訴、真犯人も有罪を訴えて控訴する事態となりました。
 再公判で真犯人には死刑、愛人は無罪となりました。

大米龍雲連続殺人事件

 大正4(1915)年に逮捕された連続強盗強姦殺人の犯人が大米龍雲(おおよね・りゅうん)です。尼寺の尼僧を狙って犯行を重ねたため、殺尼魔とも呼ばれました。
 明治38(1905)年から犯行を始めたと言い、兵庫県の尼寺に押し込み強盗、殺人を犯し、以降、各地を変名を使いながら犯罪を行い歩きます。重犯ではない恐喝や窃盗などで捕らえられて一時入獄しますが、大正2(1913)年に出獄後、再び犯行を重ねます。
 大正4(1915)年に阿佐ヶ谷の尼寺に押し入ったところ、一命をとりとめた尼の証言から人相が割れ、盗品をさばいた際にも足が付いたことから逮捕されます。
 発覚しているだけで強盗殺人強姦が30件ちかくあり、逮捕後の取り調べで「いちいち覚えてない」「殺人と強盗だけでも200はある」とまで言い切っています。
 龍雲は一審で死刑となり、大正5(1916)年に執行されました。

米騒動

 大正7(1918)年、富山に端を発した米価急騰による暴動です。
 背景には第一次世界大戦による好景気にともなう米の消費の増加と、工業化にともなう農村からの人口流出によって農業の減衰、外米の輸入の減少などがありました。
 これに加えて、大正7(1918)年からシベリア出兵による軍部、投機筋での買い占めなどもあって米価が急騰します。これに対して寺内正毅内閣は「暴利取締令」「外米管理令」などの対策を行いますが、大した効果は上がらず、相変わらず米価は上がり続けました。
 この結果、大正7(1918)年、富山の魚津で主婦たちが米を安くるように求めるよう窮乏を訴えます。この騒動は拡大して、米を積み込む船の船員や、米屋を襲うなどにまで発展しました。
 この事件は「越中女一揆」として全国に報道されて騒ぎは拡大、1道3府40県に及びました。一部、大手の商人が米の買い占めをする悪徳商人だと捏造報道がなされるなどして、焼き討ちにも合っています。
 米騒動は2か月余りに及び、軍が出動して鎮圧にあたったり、時期的に新米が出回るようになってきたため、収束します。
 騒動によって2万人以上が検挙され、騒ぎを扇動したとして2名が死刑となっています。騒動後、当時の首相であった寺内正武が辞任、その後は原敬が首相となりました。

 シベリア出兵が原因である、とよく語られますが、背景は意外に複雑で、当時、米価急騰に対して政府が外米の輸入を検討、いわゆる御用商人にこれを任せたところ利権に絡んで賄賂が横行、外米の売り惜しみなどが起こったうえに、政府が安い米を用意していると米価下落の期待感と混乱を招いたことも原因です。
 ちなみに外米の輸入の利権の絡みは「鈴弁事件」を引き起こしています。

鈴弁殺し事件

 大正8(1919)年、新潟県の信濃川下流で見つかったトランクからバラバラになった死体が発見された事件です。本邦初のバラバラ殺人とも言われています(トランクは二つに分けて、頭部が入ったものが後で見つかっています)。
 被害者は外米輸入商の鈴木弁蔵で、略して「鈴弁」。これにより「鈴弁殺し事件」と呼ばれるようになります。
 トランクには犯人のイニシャルが入っていたうえに、廃棄の経路は人が少ない小さな町、村ばかりで目立ちまくっていたらしく、すぐに犯人は御用となりました。

 前年からの米騒動のおり、米商人たちの売り惜しみ対策に米の輸入を試み、大手の商人を政府の御用達として補助金を出して外米を買わせました。この結果、外米輸入商は外米の販売自体と補助金によって莫大な利益を得ました。同時に、この政府御用達の指定商人となるための贈収賄もまた莫大なものとなったと言われています。
 犯人は政府の高級官僚で、鈴木に指定商人にすると偽って、出資を求めました。鈴木も怪しみながらもこれに応じますが、指定商人の話が来ないことを怪しんで、出資した金を返すように求めると、犯人は殺害を計画、実行しました。
 その後の裁判で、外米輸入商であった「鈴弁」を極悪非道の商人のように証言したことが報道されたり、政府の指定商人の贈収賄が捜査されるなど、様々な方面に飛び火しました。

大野博士事件

 大正12(1923)年、横浜で発生した強姦、堕胎未遂事件です。
 横浜市に住む医学博士大野禧一は、大正11(1922)年から被害者となった女学生に気管支疾患(肺尖カタル)の治療を行っていました。その際に、被害者の無知に付け込み、「陰部に坐薬の挿入が必要である」などと偽って、治療室で強姦を繰り返します。
 その結果、翌大正12年に被害者は妊娠してしまいます。慌てた大野は堕胎を試みますが失敗、激しい痛みで寝込んだ被害者を不審に思った両親が被害者を問い詰めて犯行が露見しました。
 両親は激怒、大野を告発して、強姦、堕胎未遂で逮捕となり、最終的には懲役3年となりました。
 この事件と同時期に島田清次郎がファンの女性を誘拐、監禁、陵辱、強姦を行ったとされれる「島清事件」が起こり、この事件と合わせて被害者の性的無知によるところが大きいと見られて、女子への性教育の是非の議論にまで発展しました。

血盟団事件

 昭和7(1932)年に起きた政財界人の暗殺事件です。血盟団と報道された右翼テロ組織によって実行されたため、このように呼ばれました。
 当時の国内の政治腐敗を憂い、現状打破のために井上日召は天皇中心の国家改造を目指して「一人一殺」のテロを計画しました。
 同年の2月9日、当時の国民党総務であり、前大蔵大臣の井上準之助を暗殺、続けて3月5日に三井合名会社の理事長であった團琢磨を暗殺しました。
 この團の暗殺のとき、逮捕者が出てそこから芋づる式に血盟団のメンバーや、関係者が発覚、逮捕、調査され、井上も自首し、以降の計画は実施されませんでした。
 血盟団事件は5.15事件の前奏だったとも言われ、以降の太平洋戦争前のテロリズムを誘発した事件だと言われています。この事件は社会不安を煽り、政治的な空白、弱腰を招いて軍部の発言力を強化を招きました。

岩の坂もらい子殺し事件

 昭和5(1930)年に小石川の岩の坂で起こったもらい子の大量殺人事件です。
 岩の坂は過去は板橋宿の繁華街として栄えていましたが、交通の発展、鉄道が避けて通ったことなどから不景気になり、震災によって貧民が流入することでスラム化が進みました。
 名古屋であった事件と同じく、岩の坂の住民が養育費、教育費、あるいは周旋費用をいくばくか渡して生まれたばかりの赤子を引き取っていました。
 岩の坂付近の医院に、赤子を窒息死させたと女がやってきます。医者はその死因に疑いを持ち、板橋署へ届け出ました。
 これによって岩の坂が捜査されて、住民の多くが逮捕されたと言われており、年間で30人以上の子供が死亡していたと言われています。
 もらい子が5歳から10歳ぐらいまでで死んだものは解剖用に売り払い、生き残った者もそれ以上になると乞食の手引き(目立つところに座り込んで道行く人の同情を誘う役)、15歳も過ぎれば男は過酷な労働に、女は娼妓に売り払ったと言われています。
 多くの住民が逮捕されたと言われていますが、遺体の多くがすでに埋葬されいたり、行方不明になっていたりすることで、実際に死亡した子供の数は不明でした。このため、多くは殺人として立件されず、病院などに出された届出も栄養失調や事故などとなっていたため、傷害致死にすらならなかったと言われています。

エントツ男

 昭和5(1930)年11月16日に発生した、元祖エントツ男です。
 神奈川県川崎市の富士紡川崎工場における労働争議において、田辺潔(たなべ・きよし)が構内の高さ40mのエントツの上によじ登り、ストライキを主張しました。
 田辺は煙突にあった避雷針に赤旗を結び、ストライキを叫んでいました。地上側とは随時交渉、食料の支援なども行っていましたが、不調に終わり、田辺が煙突から降りる気配はありませんでした。
 しかし、11月22日に昭和天皇の乗るお召列車が近くを通過する予定であったため、そのときに煙突の上の赤旗が見えることを恐れ、11月21日労働者側の主張に大幅に情報する形で労働争議は妥結しました。
 この結果が田辺に伝えられると、「滞空時間百三十時間二十二分の珍記録を作って」、地上に降りています。120時間(6日間)にのぼり煙突上の滞在は当時は世界一だと言われています。

 当時、この煙突男の騒ぎはお祭り騒ぎのようなものであったとも伝えられており(実際、11月21日は川崎大師の縁日でした)、煙突の下には屋台が並び、労働争議とは無関係の参加者からも田辺の演説に同調する声や野次が飛んだと言われています。

陰獣事件

 昭和7(1932)年に愛知県で起こった、凄惨なバラバラ殺人です。首無し娘事件とも、犯人の名前をとって増淵倉吉事件などとも呼ばれています。
 名古屋の鶏糞小屋で若い女の腐乱死体が発見されます。この死体は損壊が激しく、首が切断され頭部がなく、両の乳房が切断されるほか下腹部もずたずたで内臓が飛び出していたと言われています。
 現場には犯人の名義の保険証や恋文のようなものが残されており、警察も
 発見から三日後、現場から離れた犬山で被害者の頭部が発見されます。頭部からは頭髪がなくなっていた他、損壊が激しく原型をとどめて居なかったのですが、歯形などから被害者のものであると断定されます。また、血痕や遺留品から犯人がこの場で破棄したものだと推定されました。
 事件の発覚から約1か月後、頭部の発見場所から遠くない小屋の中で犯人の首吊り死体が発見されます。死体は被害者の頭髪のついた頭皮を被り、下着を付けており、お守り袋に眼球を入れ、部屋の中の冷蔵庫には切り取った乳房と下腹部が入っていたと言われています。

 ちなみに陰獣事件とは江戸川乱歩の「陰獣」から取られていますが、事件はまったく関係ないうえに、類似点すら見られないという乱歩にとって迷惑な話でした。

白虹事件(はっこうじけん)

 大正7(1918)年に「白虹日を貫けり」の故事成語を用いた大阪朝日新聞が発行停止の処置を受けた筆禍事件です。
「白虹日を貫けり」、「白虹貫日(はっこうかんじつ)」とは、太陽の周りに白い虹が出て、太陽を貫くように見える自然現象のことで、古代中国では兵乱の兆しとされていました。
 これによって大阪府警は朝憲紊乱にあたるとして裁判所に告発、大阪朝日新聞は発行禁止にしようとしました。
 また、右翼団体の系列の黒龍会の構成員が新聞社社長に暴行を加える事件も起こり、同新聞社は論調の転換を余儀なくされました。
 これは政府による言論統制であると後世で批判されていますが、当時の世論においては反感を買う内容であったことは確かです。

玉の井バラバラ死体事件

 昭和7(1932)年に玉の井、向島の私娼窟で発生したバラバラ殺人事件です。
 玉の井のお歯黒ドブと呼ばれる水路で、布に麻ひもを掛けたようなものが浮いているを見つけた近所住人が交番に通報、引き揚げてみると人間の胴体がハトロン紙に包まれていました。
 付近の捜索によって、首や腕など八つに切断された死体が見つかります。解剖の結果、人間の毛髪や布団の綿、猫の毛などの犯人を示す痕跡が見つかるものの、死体の損壊が激しく犯人の特定には至らず、1か月もすると報道も沈静化、玉の井の商店街が懸賞金を出すなどしました。
 事件発生から8か月後、捜査が継続されることになると急転、犯人と目される兄妹が逮捕されます。犯人の一人の妹は被害者と内縁関係にあり、家内に転がり込まれて一緒に暮らすうちに暴力などを振るようになったため、これを殺害、遺棄したと自白しました。
 死体をバラバラにしたのは怨恨などではなく、単純に死体の運搬のためであったと供述しています。
 この事件は発覚当初は血盟団事件などがあったためにあまり報道されませんでしたが、事件の詳細が分かるにつれて報道が過熱、各社が「八つ切り」、「コマギレ」、「バラバラ」と刺激的なタイトルを付けましたが、「バラバラ」が定着して、今でも「バラバラ殺人」と呼称されるようになりました。
 ちなみに玉の井と言えば永井荷風の『墨東奇譚』が有名ですが、書かれたのは事件後の昭和11(1936)年です。

赤色ギャング事件

 昭和7(1932)年に大森で起こった銀行強盗事件です。銀行に忍び込むなどではなく、白昼堂々押し入り、拳銃などで脅しての犯行は日本初だったと言われています。
 当時、ギャング映画が流行っていたために、ギャング事件と言われるとともに、日本共産党員による犯行だったために、赤色とついています。
 昭和7(1932)年に川崎第百銀行(昭和18(1943)に三菱銀行に吸収、現存せず)の大森支店に拳銃などで武装した3人組が押し入り、行員たちを脅して現金を強奪、用意していた自動車で逃走するというまるでギャング映画のような犯行でした。
 拳銃の入手経路や、強奪された紙幣の番号などから犯人が特定され逮捕となりました。共産党員たちは当時資金難に陥っており、非合法の手段を辞さず資金を得ようとしていました(共産党内部に特高のスパイがいて、それに唆されたという説もあります)。

ダンスホール事件

 不良華族事件とも言われています。
 昭和8(1933)年に、ダンスホールフロリダを舞台にした華族の不倫事件です。
 フロリダで主任舞踏教師を務めていた小島幸吉は「日本一の好男子」などと自称、フロリダに集まる様々な身分の女性と関係を持ったと言います。
 事件当初、姦通罪で小島が検挙され、その取り調べで吉井勇伯爵の妻、徳子と関係していたことを自供、その徳子が小島のために友人の華族の婦人を次々と紹介していたことが発覚します。
 最初は某夫人などと報道されていましたが、すぐに「愛慾に躍る惡の華 吉井伯夫人連行さる」と実名報道がなされました。
 吉井徳子は事件の発覚後、取り調べを受けて、「不良ダンス教師と不良有閑マダムのエロ行状記」などと報道されていました。そのうちに「エロ行状摘發から賭博暴露」と、徳子が文壇や有名人による花札、麻雀の賭博を行っていたことも明らかになりました(小説家の久米正雄夫妻、や里見弴とその妻、妾、川口松太郎と画家小穴隆一、文藝春秋専務佐々木茂索夫妻などが検挙されています)。
 さらにその後、事態を重く見た宮内省からも調査が入り、徳子が近藤廉平男爵の七男・廉治と関係を持っていたことなども発覚しました。
 徳子は刑事罰は受けませんでしたが、宮内省は事件を大きく見て関係した華族を処分する意向を発表します。宗秩寮審議会によって徳子は「礼遇停止」、近藤夫妻は「除籍」、吉井勇と近藤滋弥(近藤廉治の兄)は「訓戒」とする処分が下りました。

 ちなみに徳子は柳原義光の娘で、その叔母は柳原愛子(大正天皇の生母)です。
 世間的に注目度の高い家系(世間を騒がせる家系)であったとも言えます。

ゴーストップ事件

 昭和8(1933)年、大阪、天六で起きた事件です。
 ゴーストップとは信号機のことです。事件は当初、信号を無視した陸軍の兵士を、巡査が派出所まで連行、そこで殴り合いに発展したというものでした。
 これを憲兵隊が入り兵士を連れ出した後、曽根崎署に抗議をしたところ、話が大きくなりはじめます。大阪府知事と陸軍中将が会見するも決裂、陸軍と警察の面子によって話は東京にまで持ち越されて陸軍大臣と内務大臣、警保局長(今でいう警察長官)の対立にまで発展し、伝わるとろこまで伝わって、昭和天皇にまで達しました。
 新聞などでこの事件が報じられ始めると騒ぎが大きくなり、陸軍の横暴を非難する声が大きくなり始めました。最終的に昭和天皇から特命が兵庫県知事に下り、事態の調停を図りました。
 さすがに昭和天皇が憂慮しているとなれば、急速に自体は収束、和解が成立します。
 なお、この事件の目撃者の一人が度重なる呼び出しと事情聴取に耐えかねて行方不明となり、後日轢死体で発見されています。

情死ブーム

 日本人は死に対して独特の美意識を持っていました(切腹や、自刃と言う美学)。
 江戸期においては曽根崎心中などの影響で情死が流行り、幕府からも禁止令が出るなどがありました。
 明治維新以降、江戸期に比べて薄くなったというよりも、より物語的に美化されるように強化されたのか、戦前にはうっすらとした情死のブームのようなものが漂っていました(太宰治のように心中未遂を繰り返すような人物も居ましたが)。
 自死、情死、心中の報道がなされると、後追いというわけではないですが、その死に様を真似る人々が出て、度々禁止令などが出されることがありました。


三原山病

 昭和8(1933)年の1月、2月に、実践女学校の女生徒が三原山の火口へ飛び込み自殺しました。この二人の自殺に立ち会った同級の女生徒がいた、という事件が発生します(事件と言ってよいのかは微妙ですが)。
 女生徒たちは何故かわざわざ伊豆大島まで観光船で赴き、険しい三原山を火口まで登って、一人になって帰ってくることを繰り返しました。
 この事件は「死の案内人」などとセンセーショナルに報道されて、「三原山病」などと呼ばれる自殺のブームを引き起こし、その年だけで100人以上が火口へ飛び込んでいます。
 皮肉なことですが、この自殺ブームが伊豆大島を観光スポットとして注目させて、その発展のきっかけとなったと言われています(有名な伊豆大島の三原山滑走場が建設されたのは昭和10(1935)年のことです)。

神戸の首だけ事件

 神戸ミイラ首事件、首預け事件とも言われています。
 昭和8(1933)年に発覚した、車次久一(しゃじ・ひさいち)による、愛人の男の首を切り落として水がめの中へ入れて、5年間も持ち歩いていた事件です。
 車次は大阪に生まれてすぐに難波新地の貸席へともらわれました。女性ばかりの環境の中、本人も振袖などを着せられて育ち、自身が女性のように思っていたと言われています。
 幼いころより三味線に踊りと芸事を仕込まれましたが、それが嫌になり家出、東京で高校などに通う傍らで男色を知り、ドイツ人に男妾として囲われ、大正15(1926)年に西宮に転居しました。
 このドイツ人が車次のために邸宅を買い与え、贅沢三昧の生活を送るとともに、男を買い漁りました。その数は1年で200人とも300人とも言われています。
 この中に被害者の松本竹蔵も含まれていました。車次と松本は昭和2(1927)年頃に出会っており、ドイツ人の邸宅で同棲、愛人が来るたびに松本を外泊させたと言います。このため、松本は外で浮気を繰り返し、そのたびに車次は嫉妬しました。
 昭和3(1928)年に今度は車次があてつけとばかりに浮気をした現場に松本が帰ってきて、殴るけるの暴行を受けます。これに恐怖した車次は、その夜に松本を殺害、首だけでも供養のためとノコギリで切断して水がめに封印し、残った身体は庭に埋めたと言います。
 その後、ドイツ人と別れた車次は神戸で汁粉屋や、長唄の師匠などの職業に手を染めますが長続きせず、や旅芸者となったところで水がめを持ち歩くわけにもいかず、友人に預けたところ、長く留守にしたために不審に思った友人に発覚しました。このころ、車次は大衆演劇の女形として人気が出ており、それがために留守が長かったこともあります。
 神戸地裁で8年の懲役を言い渡され、控訴しましたが棄却、刑が確定します。出所後、自ら劇団を立ち上げて自身の犯行を芝居にして上演したと言われています。

隅田川コマ切れ殺人事件

 昭和9(1934)年に東京の渋谷区で起こった強盗殺人、バラバラ殺人事件です。
 隅田川の永代橋、吾妻橋、芝浦で相次いで死体の一部が発見され、いずれも同一人物だと断定されました。
 死体の損壊は激しく身元の特定は困難かと思われましたが、指紋によって特定されます。その結果、死体は渋谷区に住む老夫婦であることが発覚します。
 警察の捜査によって強盗殺人であることが発覚し、押し込んだ先の夫婦を解体して遺棄したことが分かります。
 犯人は刑務所を出所したばかりの男で、老夫婦が大金を隠し持っているという冗談を信じて犯行に及んだことが分かりました。
 犯人には死刑判決が下り、速やかに死刑となりました(第一回の公判で死刑にしろ、と言ったわりに、その後は出廷拒否して看守に連れられて出廷するなどしていました)。

日大生保険金殺人

 昭和10(1935)年、本郷で起きた保険金殺人です。
 被害者の日大生が強盗に殺害され、家族が多額の保険金(6万6千円ほど、現在の価値なら1億3000万円程度)を受け取った事件ですが、父親がシナリオを書いて、一家総出での殺人事件であると発覚しました。
 事前に母親などが家の周りを不審な人物がうろついていると言い、父親は事件後に樺太から帰ったことになっており、証拠となる凶器も流しで水道を使ったために指紋なども取れないようにするなどしました。
 しかし、事件後に父親がすぐに死亡診断書を貰いに警察へ行って保険金の受け取りを匂わせたり、犯人とみられる不審人物が被害者にそっくりなど、計画にずさんさが目立ち、一家は取り調べを受けて保険金目当ての殺人であることが発覚しました。
 その後、この事件は大きく報道などにも取り上げられて有名となり、毎度の捏造や偽証が語られて物語化が進み、一家の内情なども詳しく報道されて、太宰治の「花火」などの題材とされました。
 最古の保険金殺人のように語られることがありますが、明治25(1892)年にすでにいとこを毒殺、保険金を請求したと言う事件があります(保険金殺人と断定された事件としては初めてかもしれません)。

喫茶店青酸カリ殺人事件

 昭和10(1935)年に浅草で発生した毒殺事件です。日本で初めて青酸カリを使用したものとして記録されています。
 被害者は浅草にある小学校の校長で、当日、教職員の給与が入った市役所で受け取り、風呂敷包みで運んでいる最中でした。その途中で喫茶店に寄り、犯人の男が注文した紅茶を飲んだところ倒れます。
 犯人は校長を介抱するふりしながら医者を呼ぶと、風呂敷包みを抜き取り、姿をくらまします。
 犯人は校長と顔見知りで、給与を運んでいることも知っているような身近な人物であったことなどから、当時の午後には逮捕されています。
 犯人は青酸カリは知り合いの工員から手に入れたものだと語り、芸者と遊ぶ金欲しさの犯行だと供述します。翌11(1936)年に死刑が確定、翌々12年に執行されました。
 当時、青酸カリはメッキや熱処理、顔料の原料の他、昆虫標本の制作にも使用されるため、容易に入手が可能でした。青酸カリの効能が分かると、これによる自殺が流行ったと言われています。

阿部定事件

 有名すぎるので詳細は割愛しますが、昭和11(1936)年5月18日に東京市荒川区の待合「満左喜(まさき)」で、阿部定が愛人の石田吉蔵(いしだ・きちぞう)を絞殺、遺体から性器を切り取って逃亡した事件です。
 この衝撃的な事件は大々的に報道されたこともあって、事件直後から戦後まで、作品化されたり、モチーフとして登場したり、テーマとして取り上げられたりしています。

上野動物園クロヒョウ脱走事件

 昭和11年は、2.26事件、先の阿部定事件と、この上野動物園クロヒョウ脱走事件で3大事件、などと言われることがあります。
 昭和11年7月25日未明、開園前の上野動物園でクロヒョウが逃げた、と発覚しました。
 上野動物園は臨時休園、職員総出で捜索するも発見できなかったため、警察に連絡が行き、上野の山を交通遮断、「脱走の報せに上野署から五十名、谷中署から三十名、いやそんなものではない、午前十時には警視庁新撰組二個中隊がピストル携帯での出動だ」という具合でした。
 ちなみに新選組とは特別警備隊(機動隊の元となる組織)です。このほか、猟友会や、警防団(警察と消防の補助組織。市民で構成)なども駆り出されて、総勢700名とも言われています。
 クロヒョウは動物園と美校(東京美術学校)の間のマンホールの中で発見されて、無事に捕獲されました。このとき、暗渠を障害物で塞いだうえで、木製の盾でクロヒョウを押し出すような作戦であったため、トコロテン作戦などと呼称されました。
 脱走の発覚から約10時間ほど経過していましたが、人的被害、クロヒョウにも怪我はなかったと言われています。

 この事件は25日にはすでに報道されて、帝都を一時恐怖と混乱に陥れたと言われています。翌26日には発見、捕獲も報道されるとともに、トコロテン作戦で活躍した原田国太郎のインタビュー記事の他、上野動物園の謝罪記事も掲載されました。

帝都の獅子

 前述のクロヒョウ脱走事件よりも前、大正3(1914)年7月、上野動物園からライオンが脱走しました。
 これもどうも朝方の檻の開け閉めなどの際に脱走された模様です。こちらもすぐに新聞などで報道されて「帝都の路上を猛獣が!」と書き立てられました。
 が、逃げたライオンは同じ年の3月に生まれた生後3か月、赤ちゃんとは言い難いですが、子ライオンです。
 このためか、上野動物園の周辺で騒ぎとなりましたが大々的な捜索とはならず、上野動物園の職員によって捜索が行われたのみとなりました。
 同日の9時ごろに弥生町の戸田子爵邸内に飛び込んだところを取り押さえ、上野動物園へ戻されました。

死のう団事件

 死のう団事件は、昭和8(1933)年、昭和12(1937)年にカルト宗教集団の「死のう団」(正式名称は「日蓮会殉教衆青年党」)が起こした一連の事件です。
 死のう団、日蓮会は江川桜堂が作った新宗教です。日蓮の残した文章を教義とし、日蓮宗の教えなどを否定しました。既存の宗教、政治腐敗、経済格差などを厳しく批判したためか、信者が拡大し最盛期の昭和6(1931)年頃には500名を超えたと言われています。
 昭和8(1933)年に青年部が結成されて、江川に対する狂信から瞬く間にカルト化、翌月には青年部から殉教衆青年党に改称されます。同年の8月、殉教千里行と称して「死のう」と叫びながら練り歩き、その日の夜には逮捕されました。約1か月後の9月に釈放されますが、信者の激減に加えて「死のう」の奇行が面白おかしく報道されます。
 昭和12(1936)年に宮城、国会議事堂、警視庁などに信者5名が現れて相次いで割腹自殺を実行しようとしました。自殺に用いた短刀には細工が施されており、致命傷にはならないようになっていました。同日、他の信者が歌舞伎座や銀座、品川駅で「死のう」と叫びながらビラをまきます。
 この奇行は再び「死のう団」事件として大きく報道されることになります。
 翌昭和13(1937)年、教祖の江川が病死、残った信者たちはその後を追うように殉死を遂げました。

津山30人殺し

 有名すぎるので詳細は割愛しますが、昭和13(1938)年に岡山県の現在の津山市の北部で起こった大量殺人事件です。
 犯人はわずか1時間半という時間で集落の民家11軒へ侵入、猟銃と刀剣類をもって30名を殺害しました(28人は即死、2名は病院搬送後死亡)。犯行後、犯人は山へ入って遺書を残して自殺を遂げました。
 この事件は横溝正史の『八つ墓村』のモデルにもなりました。

チフス菌饅頭事件

 昭和14(1939)年、兵庫県神戸市でチフス菌を混入させた饅頭を送り、12名がチフスに感染、1名が死亡しました。
 チフス菌の入手経路などから犯人が割り出されて、逮捕されます。犯人は女性で、年下の医学生に5年間学資を貢いでいたものの、医師になった途端に冷たく離縁されたことを恨んでの犯行でした。
 これの事件は大きく報道され、よりドラマチックに、まるでメロドラマのように持ち上げられたり、無差別殺人期のように取り上げられたりしました。
 このようにセンセーショナルに報道されることによって、犯人への同情が集まり、「滝川事件」で有名になった滝川幸辰が弁護につくことで、翌昭和15(1940)年には懲役8年が確定しました。

聾唖者の大量殺人事件(浜松事件)

 昭和16(1941)年から翌年にかけて、聾啞者の犯人が4件の殺傷事件を繰り返した事件です。
 犯人は遊ぶか欲しさに強盗殺人、強姦を計画、女性ばかりの家に押し入って殺傷を繰り返します。最初は1人殺害、1人負傷、次は3人殺害、3件目は家族を強盗を装って襲い兄を殺害、家族5人を負傷させ、最後は4人を殺害しました(いずれの犯行でも強姦は行われていません)。
 4つ目の事件で遺留品から足が付き、逮捕に至ります。逮捕後、犯人は聾唖者ではなく極度の難聴であると判断され、減刑もなく死刑が確定しています。
 この事件で功績があったとして、紅林麻雄は表彰されます。このことは大きく報道されて、紅林は時の人になりました(戦後、紅林は多くの冤罪事件を引き起こしています)。

首なし事件

 昭和19(1944)年に起こった警察官による殺人の隠蔽と、それを告発した事件です。
 首なし事件と言われるのは、警察官による殺害後、埋葬された被害者の首を切断、頭を持ち出して鑑定を依頼したため、事件の告発後に掘り起こされた死体に首がなかったことに由来します。
 昭和19(1944)年、茨城県那珂郡長倉村(現在の常陸大宮市)の採炭業者の男が拘引され、取り調べ中に警察官による激しい暴行を受け、死亡しました。
 警察側はこれを隠蔽、死因を偽って病死として処理します。しかし、採炭業者の雇い主から依頼を受けた弁護士がこれに疑問を持ち、墓を暴いて死体の頭部を持ち去り、鑑定を依頼します。
 その結果、巡査部長、警察医を告発、逆に警察側は弁護士を死体損壊などで訴えました。
 1審、2審とも証拠不十分で無罪となりますが、最終的には警察医は不起訴、巡査部長が有罪となりました。

九大生体解剖事件

 昭和20(1945)年、太平洋戦争末期に九州帝国大学で起こった事件です。
 アメリカのB29も撃墜されることがあり、その乗組員が捕虜として捕らえられました。これらのうち、価値がないと判断された捕虜たちが九大医学部において、生体解剖されました。
 この解剖は生死を考慮しない臨床実験であったため、8名の捕虜は全員死亡しました。実験は以下のようなものであったと言われています。
・代用血液として海水を注入する
・結核の治療のため、肺を摘出する
・心臓の停止
・生存に必要と思われる器官の確認ため、臓器の摘出

 生体実験は言うに及ばず、捕虜を軍法会議にもかけず処刑すること自体も問題とされました。
 この実験は軍部の命令であり、大学側は組織的には関与していないと言われていますが、関係者の多くが戦死するか、自死などしているため実際には不明です。
 これらの内容は戦後、GHQの調査も行われ、多くの関係者が戦争犯罪として起訴されたことで広く世間に知れ渡りました。この事件は遠藤周作の「海と毒薬」などの題材にもなっています。

光クラブ事件

 昭和23(1948)年、東大生の山崎晃嗣、日本医科大学生の三木仙也が銀座に貸金業「光クラブ」を設立しました。
 ごく平たく言うと高利貸しで、派手な広告を打って資金を調達、その金を貸し付けて利益を得るというものでした(当時、ドッジラインによって金融統制されており、通常の銀行の年利が1.83%のところ、光クラブではその10倍ほどの18%の年利になったと言われています。
 よく昭和24年には会社規模をさらに大きくしましたが、社長の山崎が物価統制令違反で逮捕、不起訴となりましたが出資者の不信を招き資金繰りが悪化して同年の11月に山崎は自殺しました。
「アプレ・ゲール犯罪」の代表とも言われており(アプレ・ゲールはフランス語で、直訳すると戦後です。アプレ・ゲール犯罪は戦後派犯罪と言われてます)、学生社長だった山崎は時の人でもあったと言われています(自殺の直前まで、新聞や雑誌のインタビューに応えていたと言われています)。

帝銀事件

 昭和23(1948)年に発生した集団毒殺、銀行強盗事件です。犯人と目される男は逮捕されましたが、自白を強要されたと冤罪を訴えたまま獄中で死去、真相が不明のままとされています。
 東京都豊島区にある帝国銀行椎名町支店で、近隣で赤痢が発生した、厚生省の指示で予防措置を行っている、などと偽って、銀行の行員、職員の合わせて16人に青酸化合物を飲ませました。このうち11人が即死、病院に搬送後に1人が死亡、合わせて12人が毒殺されました。
 犯人は行員らに毒を飲ませた後、わずかな時間で金庫から現金、預金通帳、小切手などを奪って逃走、ほとんど痕跡を残していませんでした。
 事件後、同年の8月になって犯人と目される画家が逮捕されます。画家は逮捕当初は犯行を否認していましたが、やがて自白しますが、供述には一貫性がなく自白を強要されたと冤罪を訴えます。
 昭和30(1955)年に死刑判決が確定するものの、画家は再審請求を続け、昭和62(1987)年に獄中で死去しました。
 この事件で使用された薬物は青酸化合物だと言われて、これが旧帝国陸軍の登戸研究所が開発した毒物兵器だったのではないかと疑われ、旧陸軍の関係各所も捜査の対象となりました。よく731部隊(関東軍防疫給水部)の関連があるなどとも言われますが、毒物の研究を行っていたためで、事件自体への関与は推測(妄想)以上のものにはなっていません。

国鉄三大事件

 昭和24(1949)年に立て続けに起こった国鉄絡みの三つの事件をこう呼ぶことがあります。
 事件は下山事件、三鷹事件、松川事件の三つで、これらは未だに真相が不明です。
 当時あったレッド・パージ、赤狩りとの関連や、国鉄の人員整理にまつわる反対派の犯行なども言われますが、それも不明です。

下山事件

 昭和24(1949)年7月5日、国鉄総裁の下山定則が出勤途中に失踪、翌日に轢死体となって発見されました。
 自殺、他殺も不明でしたが捜査は打ち切られて、15年後の昭和39(1964)には時効が成立しました。
 報道でも自殺、他殺の説が入り乱れましたが、すべて推測の域を出ず、未解決事件として未だに様々な論議、推測を呼んでいます。

三鷹事件

 同じく昭和24(1949)年7月15日、東京都北多摩郡三鷹の三鷹駅で無人のはずの電車が暴走、車止めを突っ切って脱線、転覆しました。路線脇の商店など、6名が即死、負傷者が多数出ました。
 事件後、国鉄労働組合の日本共産党員10名と元運転士であった男が逮捕、裁判にかけられましたが元運転士の男の単独犯行だとされて、無期懲役が言い渡されました。
 これに対して検察は全員の有罪を求めて控訴しましたが、元運転士の男以外は無罪が確定します。
 さらに二審では無期懲役から死刑となりますが、元運転士の男は無罪を訴え続けるも、獄中で病死しました。
 こちらの事件も元運転士の男が証言を変え続けるとともに、無人で電車が走ったことへの疑義が多数あったために、様々な揣摩臆測が流れました。

松川事件

 同じく昭和24(1949)年8月17日、福島県の松川駅の近くで列車が脱線、先頭の機関車は横転、転覆して乗務員3名が死亡、続く貨車、客車5両も脱線しましたが転覆には至らず、上客8名が怪我をする程度にとどまりました。
 捜査の結果、線路、枕木からボルト、ナット、釘が緩められたり持ち去られたり、レールが取り外されたりしていました。
 この事件は下山事件、三鷹事件に続く事件として世間の注目を集めます。
 こちらも国鉄労働組合の組合員や、東芝労組組合員など合計20名が逮捕され、一審では全員が有罪、5名の死刑判決が出るものの、検察側がアリバイなどの重要な証拠を隠していたり、レールを外すのに使用したと言われる道具でそれが不可能だったりするなど、昭和38(1963)年には全員に無罪判決が下されました。
 こちらの事件は法廷外での報道合戦も繰り広げられて、場外乱闘も激しかったと言われています。

日大ギャング事件

 昭和25(1950)年9月22日、日大で運転手を務めていた19歳の少年が、同じ日大の職員が車で輸送中だった職員の給与を強奪、逃走するという事件が起きました。
 逃亡した少年は、同じ職場の日大で親しくなった同じく未成年の娘と二人で高飛びしようと、品川に部屋を借りて潜伏していましたが、若いのに金遣いが荒い、札束などが入ったカバンを見られるなど、下宿主が怪しんで通報、9月24日には逮捕されました。
 逮捕時に少年が「オー、ミステイク!」と叫んだことから、この事件は「オーミステイク事件」などとも言われることがあります。
 犯人の少年はいわゆる二世気取りで(まったく二世ではないのですが)、腕にジョージと入れ墨を入れて、(簡単な)英語を使い、職員の車を止めるのにわざわざ「スタップ!」などと言ったと伝わっています。警察の調べにも(最初は)英語で対応したと言われています。
 こちらも「アプレ・ゲール犯罪」の代表で、特に無軌道な若者、戦前と異なる価値観を持つ若者の代表として見られました。
 逮捕時、犯人の少年が発したと言われる「オー、ミステイク!」と言う言葉は当時流行語になったとも言われています。
 当時、犯人は未成年でしたが、各種報道機関は容赦なく戦前の通りに実名で報道、顔写真なども掲載しました。しかし、これは少年法に反するとして日本新聞協会へ警告が発せられました。