新しい食べ物
お菓子
大正3年に森永のミルクキャラメルが一般でも食べられるようになりました。前年から発売していたのですが、ばら売りで80粒40銭、しかしそれでは携帯に不便ということで、缶入りで10粒10銭と高価であったのですが、紙サック入りのものを開発し、20粒入りで10銭となりました。
当時、ミルクキャラメルは煙草の代用品とも宣伝されており、ターゲットは子供だけではなかったようです。
また、大正7年にはミルクチョコレートが発売されています(現在に近い、板チョコです)。
大正3年に佐久間ドロップが発売。当時から例の缶入りでした。
大正11年にグリコが発売されます。発売当初より「一粒三百メートル」のコピーで大好評だったようです。
なお、発売当初はおまけがついていませんでしたが、大正期にはすでにおまけつきで有名になっていたので、すぐに付くようになったと思われます。
日本のお祭りの風物詩的なものとなった綿菓子ですが、明治期にアメリカより輸入されたもので当時は電気菓子と呼ばれていました。安価であり、庶民に親しまれたと言われています。
調味料
大正14年にキューピーマヨネーズが発売になりましたが、当時は128g入りで50銭の高級調味料であり、まったく無名であり初期出荷量はわずか、デパートの仕入れ担当者ですらポマードと間違える有様でした。大正5年に愛知トマトソース製造株式会社(現代のカゴメ)がケチャップを製造、販売を始めました。650mlの16円70銭で一般販売ではなく業務用でした。
明治42年には合資会社鈴木製薬所(味の素の前身)から、味の素が発売されています。大正8年で缶入り94gで1円77銭となかなか高価なものでしたが、値下げを断行したことにより一般に浸透し、台湾、朝鮮、中国にまで工場、支店を出すまでに至っています。
ちなみに文明開化とともにウスターソースも輸入されていましたが、この濃い味の調味料を醤油同然に使用していた為に口に合わないと言われてしまい、あまり一般には広がらなかったようです。その後、日本人向けに改良したものを食料品卸商三澤屋商店(現代のブルドッグソースの前身)が明治38年にソースの販売を開始しました。
飲料
大正8年にラクトー株式会社(大正12年にカルピス製造株式会社に。株式会社カルピスの前身)からカルピスが発売されます。カルピスは発売当初より宣伝に力を入れ、大正11年に「初恋の味」と言うコピーを持って、カルピスが酸乳飲料の代名詞となるまで普及に成功しました。大正初期よりアメリカからコカコーラが輸入されていましたが、こちらはあまり宣伝に力を入れておらず、外国に詳しいはずの著名人ですらもコカコーラを飲み物と知りませんでした。コカコーラが強くなるのは戦後のことです。
明治中期より登場した、サイダーとラムネ、カキ氷とアイスクリームですが、これらも大正期にはよく消費されるようになりましたが、サイダーとカキ氷は庶民の、ラムネとアイスクリームは新中間層以上のものとなっています。
(ラムネはレモネードが訛ったもの、サイダーはシードルが訛ったものだと言われており、サイダーは最初はリンゴ味だったのですが、そのうちにラムネと一緒の味付けとなり、ビー玉で封されたものをラムネ、それ以外をサイダーと呼ぶようになったようです)
その他の食べ物
都市伝説のようなものかもしれませんが、大正10年に、早稲田高等学院の学生によりカツ丼が開発されたとされています(時期的に、大正10年にカツ丼がひろまったらしいです)。オイデルミン
明治30(1897)年から現代まで、資生堂から発売されている化粧液です。それまで医薬品会社だった資生堂が初めて出した化粧品であり、高価であったものの販売数を伸ばしました。赤い液体が特徴で、「資生堂の赤い水」とまで呼ばれるようになっています。
ステープラー、いわゆるホッチキス
明治36(1903)年頃には、国内で使用されていました。日本人にはホッチキスの名前で馴染んでいますが(ステープラーが一般名称で、ホッチキスは商品名)、これは当時、伊藤喜商店(現イトーキ)がEHホッチキス社から輸入して「ホッチキス自動紙綴じ器」として販売したので、ホッチキスの名前で広まったためです。
芯なしの綴じ器(紙を圧着させるタイプ)も、明治から大正に登場しており、同じく一般的に使用されたようです。
その後、大正7(1918)年頃に伊藤喜商店などが国産化しました。なお、現代のように手持ち用に小型化したのは戦後で、それまでは業務用の大きなものでした(手持ち用の大型のものはあったようです)。
ランドセル
ランドセルはオランダ語の「ransel(ランセル)」が訛ってできた言葉だと言われています。元々は軍用の背嚢(平たく言うと背負い袋)が原型ですが、明治10(1877)年に学習院で採用され、明治20年には大正天皇(当時はまだ皇太子でもありませんが)の入学時に箱型ランドセル(現在の形に近いもの)を伊藤博文が献上、これが流行した(?)と言われています。
現在のような革製のものは明治23年が最初だと言われています(高級品であることは間違いないので、一般庶民はカバン、風呂敷包みであったことは確かですが)。
お子様洋食
昭和5(1930)年、日本橋三越の大食堂で「お子様洋食」(30銭)を出しました。続いて、上野松坂屋が3か月後に「お子さまランチ」を提供するようになりました。以後、「お子さまランチ」は定着して、各デパートが食堂で提供する定番のメニューとなります。その内容もいろいろな食べ物(洋食)を少しずつ、は同じで、ご飯に旗を立てるのは三越の時点で行われていました。
キューピー人形
アメリカのイラストレーター、ローズ・オニールが明治42(1909)年にアメリカで発表、キューピー(Kewpie)と命名したのが最初だと言われています(それ以前にも、オニールは同じようなデザインのキャラクターを発表していました)。明治45/大正元(1912)年からドイツで人形が作成されはじめ、日本でも大正3(1914)年から作成されはじめました(セルロイド製)。当初はアメリカへの輸入向けでしたが、国内での販売も行われました(三越がアメリカ製のものを輸入、販売も行っています)。
ちなみにマヨネーズで有名なキユーピー株式会社は1925年に国産マヨネーズを初めて販売、その際にキューピーをイメージしたロゴ、イラストを使用しましたが、本家のキューピーとは特に関係はありませんでした。
ライオンの歯磨き粉
現ライオンは、明治24(1891)年に小林富次郎商店として創業しました。創業当時は石鹸などの原材料の取次店だったのですが、次第に石鹸などの商品そのものを扱うようになります。
明治29(1896)に「ライオン歯磨き粉」を販売、このときパッケージにライオンの絵が入って商標としました。明治44年にはチューブ入りの「ライオン煉歯磨」を発売、これにももちろん獅子のマークが入っています。
大正2(1913)年には子供向けの「ライオンコドモハミガキ」、大正3年には現在で言う歯ブラシ「萬歳歯刷子」の販売も始めました。
ボラギノール
現在でも「痔にはボラギノール」で有名なボラギノールです。販売している天藤製薬は文化10(1813)年に京都で天津屋藤助として開店、大正10(1921)年に国内痔疾用新薬1号「ボラギノール」を開発し、発売を開始します。当初は坐薬タイプでした。
昭和8(1933)年にボラギノールクリームを開発し、販売しました。
ビオフェルミン
ビオフェルミンは大正6(1917)年に、神戸衛生実験所が設立されて、乳酸菌整腸剤「ビオフェルミン」の製造を始めました(ちなみに販売を当時の武田長兵衛商店(現在の武田薬品)に委託していました)。神戸衛生実験所は戦後の昭和24(1949)年に、ビオフェルミン製薬会社に名前が変わっており、現在(平成20(2008)年から)は大正製薬の子会社となっています。
森永のビスケット・マリー
大正12(1923)年に森永は16種ものビスケットの販売を開始しました。「マリー」はその中の一つで、その名前はマリー・アントワネットに由来していると言われます。森永は明治32(1899)年に森永太一郎が森永西洋菓子製造所として設立されました。大正元(1912)年に、森永製菓に改称しました。
森永の商標と言えばエンゼルマークですが、これは明治38(1905)年に登録されています。
マリーの他、大正3(1914)年には「ミルクキャラメル」、大正7年には「ミルクチョコレート」、大正8年には「ミルクココア」と今でも見る商品が開発されています。
味の素
明治41(1908)年、池田菊苗が「うまみ」を発見しました。翌42年にはうまみ成分であるグルタミン酸ナトリウムの製造法の特許を取得、事業化に乗り出します(明治40年にすでに鈴木三郎助と合資会社鈴木製薬所を設立していました)。明治42(1909)年には、『味の素』(中瓶30gで50銭)が発売されます。大正6(1917)年にはニューヨークにも事務所を開設して、世界的に売り出しを始めました。
セノオ楽譜
大正4(1915)年に設立されたセノオ楽譜出版社から発売されていた、国内外の名曲、名歌の楽譜です。いわゆるピース楽譜と呼ばれるもので、小品が1、2曲載せられたものです。合唱曲、民謡から童謡に歌劇にヴァイオリン、ピアノ曲、さらにいは軍歌や唱歌の類などと非常に幅広いラインアップで、値段も20~30銭程度とお手頃価格でした。
この楽譜の表紙を、竹久夢二や杉浦非水など当時の有名な画家が担当したことで、大正ロマンとモダンと評判になりました。
また、堀内敬三らによる外国曲の訳詞も楽譜とともに受け入れられたと言われます。
自動販売機
硬貨を入れるだけで何か購入できる機械は、紀元前までさかのぼることが出来ます。その嚆矢はアレクサンドリアの「聖水自動販売機」だと言われいます。これは硬貨の重みによって内部の器が傾くことで、その分の聖水が蛇口から放出される、という仕組みだったと言われています。
これに限らず、硬貨が有効な時代、文化になると工夫を凝らした自動販売機が発明されました。
日本では明治21(1888)年に、俵谷高七(たわらや・こうしち)が作成した煙草の自動販売機(当時、煙草の量り売りも普通に行われていました)だと言われていますが、こちらは博覧会に展示されたのみで一般には出回らなかったようです。
その後、俵谷は明治37(1904)年に自動郵便切手葉書売下機」という葉書と切手を販売するものを製造しましたが、実用的には程遠かったようで、実際の使用には至りませんでした(これの現物が、逓信総合博物館に保存されています)。
震災後、大正13(1924)年に中山小一郎が袋入りのお菓子の自動販売機を製造しました。これが日本で最初に普及した自動販売機だと言われています。
この自動販売機は当時人気だった麻生豊の漫画「ノンキナトウサン」の形をした看板にもなっており、各地の菓子屋に設置されました。
また、昭和6(1931)年にグリコの自販機が、10銭で20秒程度の映画が表示されてから、おつりが出てくる「音声映写装置付きグリコ自動販売機」なるものを設置、子供の間で人気となりました。
また、国鉄が大正15(1926)年にドイツ製の自動券売機を導入し、東京駅に4台、上野に2台設置されています。