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『大正の人々 その他』目次:
 大正時代の冒険家、馬賊や、オカルトに関わる人物、架空の人物、伝説上の人物などを紹介します。
 なお、ほとんどが国内の人物であるため、あるいは海外の、あるいは神話に関連する人物などはルールブックを参照してください。

出口王仁三郎

 でぐち・おにさぶろう、明治4(1871)年~昭和23(1948)年。
 丹波亀岡に生まれ、旧名は上田喜三郎と言いました。
 少年時代に言霊学を学んだと言われます。その記憶力と理解力は抜群であり、中学を中退させられましたが、13歳で代用教員に駆り出されています。
 明治31年に山中の修行で神秘体験を得たと良い、静岡の稲荷講社で長沢雄楯より修行法を学びました。
 同32年に金明霊学会を設立し、同33年に大本教の開祖、出口ナオの婿養子となります。
 大本教の教義の整備や組織の拡大を精力的に推し進め、機関誌を発行し、大道布教隊を組織して全国に宣伝しました。
 積極的な社会批判や救済の呼びかけは大きな反響呼び、実業家、軍人、知識人などの入信が相次ぎました。
 大正5年に大本教は皇道大本と改称し、「大正維新」をスローガンに掲げ、「神政復古」を唱え、「富国強兵」をも批判しました。
 そのため、大正10年と昭和10年の2度に渡り弾圧を受け、昭和の弾圧では完全に禁圧されました。

竹内巨麿

 たけうち/たけのうち・きよまろ、明治8(1875)年?~昭和40(1965)年。
 オカルティスト、皇祖皇太神宮天津教の教祖。
 本人は宇多天皇の子孫と藤波神宮の神主の娘との間に生まれたとし、鞍馬山で神代文字と神代史を学んだと言っています。
 実際は富山の木挽き職人と寡婦との私生児であり、明治27(1894)年に上京後、石工に弟子入りした後、御嶽教に入信、そこで新興宗教の運営のノウハウを学びながら修行と称して全国を行脚、鞍馬山に籠り『竹内文書』を準備しました。
 明治32(1899)年から徐々に公開を始め、翌年に『天津教』を開きました(最初は御嶽教の支部として『御嶽教天都会』としていましたが、明治43(1910)年に『皇祖皇太神宮天津教』として独立しました)。
 天津教の教典である、竹内の所持する『竹内文書』の荒唐無稽な内容を無条件に信じる素朴な人が多かったことも確かですが、日本人や天皇の優位性を論じる為にその内容を信じた人々も居ました。いわゆる陸軍の皇道派と言われるインテリ軍人とも接触があったと言われています(2.26事件後、特に処分等がなかったということは、それほど深い関係では無かったと思われますが)。
 竹内巨麿の主張する天津教の教義は無害とは言い難く、南朝の子孫を標榜したことや、天津教の主張する天皇家に対する不敬罪、あるいは単純な詐欺罪、文書偽造行使罪などの容疑により昭和5(1930)年から取り調べ、起訴され、昭和10年に逮捕されて長い裁判が始まります。
 昭和19(1944)年、裁判は戦局の悪化に伴い、最早相手にしていられなくなったと言わんばかりに「宗教の問題なので裁判所の管轄外」と宣言されて無罪となりました。
 竹内文書の大半は裁判後も返還がなされていなかったところ、東京大空襲で大半が焼き払われたと言われています(が、その後にまた復活している模様です)。
 天津教は戦後にGHQにより「非民主的」「不健全」といった理由から解体を命じられましたが、その後に熱心な信者達によって再建、相変わらずの様相を呈しています。

酒井勝軍

 さかい・かつとき、明治7(1874)年~昭和15(1940)年。
 山県出身のキリスト教の伝道者、オカルティスト、日本のピラミッドの発見者。
 酒井の前半生はキリスト教の伝道者として、後半生は『竹内文書』にのめり込んだオカルティストとして有名です。
 山形英学校に入学しますが家庭の経済的事情により退学、東北で開始された伝道活動により14歳のときに洗礼を受け、以降、苦学しながら東北学院を卒業しました。
 この経験から説教よりも実働という考えと、音楽を霊からの声と発想して説教よりも重視しており、讃美歌を学ぶため明治31(1898)に渡米、留学して信仰と音楽を学び、明治35(1902)年に帰国、東京唱歌学校を設立、伝道活動に従事しました。
 明治37(1904)年に日露戦争に従軍(直接戦闘に参加したわけではありません)し戦争を体験し、大正3(1914)年に月面に十字が浮かぶという神秘体験を経てキリスト教から離れていくことになります。
 大正7(1918)年にもシベリア出兵に通訳として同行、『シオン議定書』や反ユダヤ主義を教えられ、帰国後に『猶太人世界征略運動』『猶太民族の大陰謀』等を出版し反ユダヤ主義を展開したのですが、昭和2(1927)年にパレスチナ、エジプトへユダヤ研究のために派遣され、ピラミッドの研究なども行い、反ユダヤ主義から日本人とユダヤ人が同じ祖先をもつとする『日猶同祖論』、シオニズムへ傾きました。
 昭和4(1929)年に竹内巨麿有するいわゆる『竹内文書』を閲覧し、『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』を出版します。
 竹内とは帰国直後から接触があったと言われており、酒井のアメリカ留学中に天津教(皇祖皇太宮)に詳しい人物から『モーゼの裏十戒』などを教えられたと言います。
 以降、酒井は『竹内文書』にのめり込んでキリスト教から神道に鞍替え、神政復古などを唱えはじめました。
 昭和7(1932)年に『竹内文書』の内容を根拠に広島の葦嶽山をピラミッドであると断定し、次いで青森、飛騨と続々と「ピラミッド」認定を続け、青森では『モーゼの墓』や『キリストの墓』まで発見してしまいます。

 酒井が昭和9年に出版した『太古日本のピラミッド』は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来ます。
『太古日本のピラミッド』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1137942

田中守平

 たなか・もりへい、明治17(1884)年~昭和4(1929)年。
 大正、昭和初期の心霊家、あるいは太霊道の教祖とも。
 田中の語る「太霊道」なるものは、宇宙の根源、神であり遍在する存在「太霊」を説き、その「霊子」という実体によって何か行う「霊子術」というものでした。
 彼自身にカリスマがあったとも、宣伝工作や出版事業が巧みであったとも言われており、明治末期には3万人を超える信者が居たと言われています。

 田中守平は岐阜恵那の寒村武並村(現武並町)に生まれ、16歳で上京、苦学しながら大学に学んでいましたが、明治36(1903)年にロシアに対する強攻策を桜田門外に待ち構えて明治天皇に直訴して逮捕、不敬罪に問われるも精神病とされて故郷の恵那へ送還されました。
 その後、恵那山中で修業を積んで霊能力を身に付けたと言い、明治43年に「太霊道真典」なるものを著し、翌年に上京、東京霊理学会なるものを設立して呼吸法、座法、手当、自動運動を組みあわせた霊子療法で治療活動を自称しました。また、ウィジャ盤やテーブルターニングなどの西洋的な心霊主義の手法も取り入れており、それらを混ぜ合わせたうえ、彼自身の国粋主義的な思想もそこに組み合わされた独特なものであったと言われています。
 明治44年に中国で起きた辛亥革命において、革命闘士と交流のあった田中はすぐさま大陸に渡り、中国、朝鮮で祈祷(?)での治療行為を行い、たくさんの信者(?)を作ったと言われています。
 大正2年に帰国後、催眠術、心理学などを用いた(怪しげな)精神治療を行う者同士で「東洋心理協会」に参加、大正4年に地元岐阜で衆議院議員に立候補するも落選。以降、オカルト方面への傾倒が強くなり、大正5年、東京麹町に太霊道本院を開設し、治療と後進の育成を図り、組織化が進みました。
 大正9年に故郷の岐阜恵那にも恵那山大本院が落成し、誰でも修行で霊力が身に付くとして(千里眼やテレパシー、読心術などがわずか10日で修得できる!と謳っていたようです)会員に治療や、その伝授を行いました。
 参議院に落選したことからか、太霊道による霊的な文明を目指して、恵那山大本院のあった武並村(現在は武並町)は全国から信者が訪れてるようになり、武並駅が設置されるとともに郵便局まで出来るほどでしたが、大正14年に恵那山大本院は不審火で焼失し、昭和4(1929)年に田中自身も突然の発作に見舞われ、わずか46歳で他界した後は太霊道は急速に衰退し、忘れ去られました。

長南年恵

 ちょうなん/おさなみ・としえ、文久3(1863)~明治40(1907)年
 姓に二種の読み方がありますが、地元ではちょうなん、大阪に出て来た親類がおさなみと名乗ったため、どちらも正解のようです。
 明治時代の霊媒として有名な女性で、不飲不食、空中から物を取り出すなど、地元の鶴岡で有名になりました。
 弟の雄吉などが「惟神大道(かむながらのみち)教会」と称して看板を出し、お祓いや祈祷、年恵が空中から取り出したという霊水と称したものを売ったりしました。
 彼女を有名にしたのは、雄吉の宣伝によるところも大きいですが、明治33(1900)年の神戸で行われたいわゆる御霊水裁判です。地元鶴岡ですでに逮捕、拘置されるなどしていたのですが、神戸の雄吉のところへ身を寄せていたところ、再度拘置、裁判において長南年恵は霊水を出現させて無罪を勝ち取った、と言われるものです。

 語られる奇跡のほとんどは、後々に弟の雄吉が語った内容や、雄吉から話を聞いた大阪の新聞記者、さらに時代が下ってからの伝聞の記録等であるため、まったく裏付けがないものです。
 件の御霊水裁判にしても、実際は最初に証拠不十分につき無罪という至極まっとうな判断が下った後、霊水の試験が行われたという流れです。
 しかも、雄吉が語ったように部屋に入ってすぐ、というわけではなく5分程度の間ががあり、その間、年恵は誰にも見られない一人の状態であったと言われています(そして、瓶に入っていたのは濃い黄色の液体であったとか……)。

福来友吉

 ふくらい・ともきち、明治2(1869)~昭和27(1952)年
 リングのモデルにもなったと言われる『千里眼事件』に深く関わった帝国大学の助教授、心理学者であり、超心理学者です。
 岐阜高山の生まれで、親は商家だったために早いうちから奉公に出されましたが、中学で優秀な成績を収めて第二高等学校に進み、明治32(1899)年に東京帝国大学の哲学科を卒業します。
 卒業後、同じく帝大で変態心理学(変態というと今では性的嗜好の話になりがちですが、当時は単に変わった、変わっている様子、程度の意味でした)を研究、「催眠術の心理学的研究」で文学博士となり、明治41(1908)年には東京帝国大学助教授になります。
 福来の心理学の研究は次第に超常現象、心霊現象へと傾いていきます。
 明治43(1910)年、三船千鶴子の千里眼(透視能力)の実験を行い、これが本物であると発表しました。これは大々的に報道されて、超能力ブームのようなものを引き起こします。
 しかし、同時に福来の検証の甘さも指摘されて、他の超能力者(長尾郁子、高橋貞子)と合わせて、山川健次郎なども検証を行った結果、透視などの超能力には疑義があるとされました(一部は完全にトリックであると看破されています)。
 この結果、大正4(1914)年に福来は帝大より追放、故郷にある高山大学に移って研究を続け、福来心理学研究所を設立しますが、研究は次第に宗教色、神秘色を帯び始めて、世間からは相手にされなくなっていました。

久米民十郎

 くめ・たみじゅうろう、明治26(1893)~大正12(1923)年
「霊媒派」と呼ばれた大正時代の画家で、『支那の踊り』を残しています。
 帝都の生まれで学習院中等科、高等科を大正3(1914)年に卒業、渡英してロンドンの美術学校で学びました。
 大正7(1918)年に帰国、大正9年に帝国ホテルで個展を開き、有名な『支那の踊り』を出品します。巫女を使って作品を描く「霊媒画」などと新聞で紹介されました(自らも霊媒派と名乗ったと言われています)。同年に渡米、ニューヨークで個展を開いた後、パリなどでも作品を公開しました。
 大正12(1923)年に帰国、横浜で関東大震災に被災して倒壊したホテルに巻き込まれ、わずか30歳で亡くなりました。
「霊媒派」となったのは、ロンドン時代に詩人エズラ・パウンド、ィリアム・バトラー・イェイツらと交流があり、オカルトにも関心を深めた結果だと言われています。
 また当時流行していた田中守平の「太霊道」の熱心な信奉者であったとも言われています。

熊沢天皇(熊沢寛道)

 くまざわ・ひろみち、明治22(1889)年~昭和41(1966)年。
 戦後、天皇を自称する代表的な存在です(戦後には20人以上にもなる自称者が出たそうです)。
 大っぴらに扱われたのは終戦後、昭和20(1945)年からですが、それ以前から天皇の家系を自称していた熊沢家の養子となり、大正9(1920)年に即位、天皇を自称します。
 本人によれば熊沢家は南朝の後亀山天皇の孫の血筋の、熊沢宮信雅王の子孫であると言います。
 このことを認めるようにと養父の代から政府や要人へと上奏していたらしいのですが、当然偽物として扱われ無視されており、戦後までまったく取り上げられませんでした。
 熊沢家は系図を元に主張したようですが、系図以外でその身分を示すようなものは、熊沢家には一切残っていませんでした(この系図自体も60にも上ると言われており、最早何が本物なのか分からない状態です)。しかし、どこからともなく『御神宝』なるものが登場し、これを当時有名になりつつあった竹内巨麿が所持している(奪われたものである)と主張しています(そして、竹内巨麿側は完全に否定しています)。
 終戦後、GHQにも上奏書を送りつけましたがやはり無視。しかし、雑誌『LIFE』の記者の目に留まり昭和21(1946)年に取材をされた受けました。
 熊沢は自らが所持する系図等を使用して南朝の歴史を語り、自らが正統であると主張しました。この内容はアメリカ軍の機関紙や、雑誌『LIFE』、『NEWS WEEK』などで報道され熊沢天皇として有名になり、GHQも熊沢に接触しましたが明確な証明が出来ず即座に興味を失ったと言われています。
 ただ、この報道によって支持者が集まり、「南朝奉載国民同盟」なる政治団体を設立、自身が南朝の正当であることを全国に訴えました。
 以降、同様の主張を繰り返しましたが、物珍しさが薄れるとともに世間からも関心が失われ、GHQも天皇制度の方針が固まったことにより相手にしなくなりました。昭和25年頃にはほぼ忘れ去られており、たまに雑誌に登場したり、タレント扱いされていたようです。

菅野力夫

 すがの・りきお、明治20年(1887)~昭和38年(1963)。
 明治、大正、昭和初期に掛けて、世界を旅した探検家です。
 福島県の生まれで中学を中退後、右翼や国家主義の黒幕的な存在か、あるいは民族独立の支援等を行なっていた頭山満の書生となります。明治44(1911)年、辛亥革命をきっかけに頭山と共に上海に渡るものの、上海ではこれといった活躍は特にありませんでした。
 この後、一旦帰国し、第1回目の探検を開始します。この探検は、まず国内、九州を横断し、沖縄へ渡り、さらにそこからシンガポールへ渡り、マレー半島を北上、インドに入ってヒマラヤに登ろうとしたところペルシアで投獄され、現地の日本人に助け出された後、イランまで赴く、というものでした。
 探検は、海を渡る以外、大半は徒歩で行なわれるというもので(まあ、時代背景的にも徒歩しかない時代でもありますが)、大正元(1912)年から大正3(1914)年の2年にも及びます。
 帰国後は各新聞社に持てはやされ、各地で講演活動を行います。これらの活動で資金を集め、次の探検に出てるというサイクルで、8回に渡る探検を繰り返しています。
 菅野はこの探検をカメラで記録しており、世界各地の様々な写真を収めています。この写真を絵葉書に仕立てて日本へ送ったり、あるいは帰国時に売って資金としていました。

 容貌魁偉な巨漢で、髭も生やし放題の怪しげな風体であったにも関わらず、不思議と人に好かれた言われています。
英語に堪能であったとのことですが、彼の赴く地には英語が通用しない土地も多かった為、英語圏以外では無銭旅行をしたとも伝えられています。ただ、ある程度の資金を集めての探検であった為、これは初回だけのことでした。
 海外在留の邦人の助けも多く得ており、師の頭山の影響や、あるいは本人の人気、交友範囲の広さが窺えます。
 また、頭山の影響というよりも、日本人の探検家の大方が軍部と何らかのつながりを持っていることもあり(第5回には、特務機関の飛行機で移動したということも)、従軍カメラマンのような立場であり、いわゆる軍事探偵の役割もあったようです。

 探検の行き先は大体以下の通りです。
 ・第1回(大正元~3年)  九州横断→沖縄→シンガポール→インド→イラン
 ・第2回(大正3~4年)  日比谷公園→敦賀港→ウラジオストック→ハバフロスク→黒竜江→奉天→上海
 ・第3回(大正12年)   ハワイ→メキシコ→ペルー→チリ→アルゼンチン→ブラジル→シンガポール→マレーシア→ジャワ
 ・第4回(昭和 9年)   満州→モンゴル
 ・第5回(昭和11年)   関東州→満州→朝鮮
 ・第6回(昭和12年)   ハワイ事件(入国拒否)により、即座に帰国
 ・第7回(昭和13年)   台湾→ミンダナオ
 ・第8回(昭和14~15年) 中国(主に前線の慰問講演)

福島安正

 ふくしま・やすまさ、嘉永5(1852)年~大正8(1919)年。
 情報将校。最終的には大将にまで上り詰めた人物です。
 長野、松本の士族の生まれでしたが、貧乏であり幼い頃は苦労をしましたが、江戸遊学を許されて開成校に通いました。語学に堪能で、英語、フランス語、ロシア語、中国語、ドイツ語を話したと言われています。
 明治6(1873)年に開成校を中退後、司法省へ出仕、翌年に陸軍省へ移った後、明治11(1878)年に臨時士官登用試験に受かり中尉として登用されます。
 翌12年から清国、朝鮮へ情報収集任務に赴き、18年に陸軍大学でドイツ帝国(当時)のメッケルに学んだ後にインド・ビルマ方面の情報収集任務後、20年にドイツのベルリンへ駐在、その帰国に際していわゆるシベリア単騎横断を行います。その後も欧州、アジアを視察旅行後、陸軍の参謀本部の役職を歴任しました。最終的に参謀本部次長、大将となりました(現役時は中将、大正3(1914)年に後備役とともに大将に昇進)。
 シベリア単騎横断とは冒険旅行を装った現地視察であり、明治25(1892)年2月11日にベルリンを出発してポーランドに入り、ロシアの首都ペテルブルグには3月24日に到着、モスクワを経由してエカテリンブルグへ入り、オムスクから外蒙古をロシアと清の国境沿いに東シベリアを横断、イルクーツクを経由して満州のチチハル、翌明治26年6月12日にウラジオストックに入りました。全行程約1万4千キロ、1年4カ月で踏破しました。
 ロシア内では英雄扱いで当時のロシア皇帝アレクサンドル3世に拝謁するほどでしたが、清国とは日本と対立中だった為に非協力的で苦労しました。満州に入るとまた下へも置かぬ扱いでした。

白瀬矗

 しらせ・のぶ、文久元(1861)年~昭和21(1946)年。
 明治、大正の探検家で、陸軍中尉であった為、「白瀬中尉」と呼ばれます。
 当時は出羽国であった秋田県の生まれで、幼い頃より冒険心に富み、北極探検を目指していました。小学校の卒業とともに上京、軍人となります。予備役になった後、現役時代に知り合った児玉源太郎の勧めに従い、「北極探検」の準備として、明治26(1893)年に千島探検に参加しました。しかし、この探検は多数の死者を出し、自身も壊血病になるなどしながら占守島で2回越冬、明治28年に救助されます。
 明治30(1897)年に後備役で少尉として軍に任官、明治37年には日露戦争に出征、翌年には中尉に昇進しました。
 明治42(1909)年にアメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達、白瀬は大いに落胆したと言い、今度は南極に挑むことを決意します。明治43(1910)年に白瀬は帝国議会に「南極探検二要スル経費下付請願」を政府へ提出し10万円の補助を要求、衆議院は満場一致で決議したと言われるものの、その額は3万円でした(当時の物価から1円が現在の価値で5千円~1万円程度だった為、3万円とは1億5千万円~3億円ぐらいです)。
 当然、この資金では足りず、国民から義援金を募りなんとか探検の費用まかなったと言われますが、探検後、白瀬は借金にまみれになっていました。
 探検の費用で204トンの木造帆船(漁船)を買い取り、エンジンを取り付けて改造、東郷平八郎が「開南丸」と命名しました。
 明治43年11月に開南丸は東京芝浦を出港、翌2月にウェリントンに入港、その後に南極を目指しましたが、すでに南極の夏が終わろうとしていた為に、5月にシドニーに入港します。
 翌明治44年11月にシドニーを出港、再度南極を目指し、翌1月に南極大陸に上陸しました。このとき、白瀬は南極点の到達は断念、学術調査と領土保有を目的としています(この探検中、『大和雪原』と命名した雪原に日章旗を掲げ、先占による占有を宣言、敗戦後に取り下げるまで主張を続けています)。明治45年2月に南極を離れ、同年6月に帰国しました。
 帰国後、南極探検の後援会が資金を使い込んでいたことが判明し、白瀬は4万円もの借金を負って以降は冒険に関わることはなく、南極探検の講演を行うことで借金の返済に努めました。

高橋伝

 たかはし・でん、嘉永(1848)元~明治12(1879)年
 新聞などで大きく毒婦として取り上げられ、死後には戯作の題材となり、まるで毒婦の代名詞となった女性です。
 明治9(1876)年、古道具屋の後藤吉蔵が殺害され、現金が奪われます。現場となった宿屋には「あねのかたきうち」の書置きに「まつ」と署名されていました。犯跡をくらますためのものと思われますが、あまり効果はなく、宿屋にも痕跡が多数残っていたこともあって間もなく逮捕されました。
 逮捕の後も言を左右にして犯行を認めませんでしたが、捜査によって犯行が裏付けられて明治12年(1879)に死刑判決、即日執行されました。
 日本最後の女性の斬首刑だったとも言われていますが、創作上などの誇張で実際はその後も斬首刑となった女性は存在しました(斬首したのも八代目首切り浅右衛門ではなく、その弟吉亮です)。
 また、処刑後の遺体の一部(性器とそれに近い内臓部分と言われています)が保存されていると噂されましたが、実際にはどうだったのかもはっきりしていません。
 あまりにも報道や戯作において脚色されすぎ、奇怪な噂を立てられ、まるで連続殺人鬼、稀代の悪女、毒婦のように言われた結果、ほぼ創作上の人物と化しています。

本荘幽蘭

 ほんじょう・ゆうらん、生没年齢不詳(明治11年生まれとも言われます)
 非常に多彩な経歴を持ち、婦人記者であったこともあり、複数の新聞社が彼女の動向をわざわざ報道していました。
 結婚が十数回、八十人以上の男性と関係を持ったと言われています。これらの関係はすべて記録として残しており、幽蘭錦蘭帖などと名付けていました(というものがあった、という事だけ伝わっています)。

 明治12(1879)年に佐賀、福岡あるいは大阪の生まれとして伝わっており、何故か横浜のフェリス女学校で学んでいます。
 明治33(1900)年、明治女学校へ入学
 明治36年、救世軍へ入る
 明治37年、『読売新聞』などで記者活動(日本最初の婦人記者を自称)
 明治38~40年、大阪や横浜で女優として舞台に出演
 明治40年、上野に「幽蘭軒」を開く、「吉原角海老楼へ身売り」などと報道
 明治41年、扶桑教(神道系の新興宗教)の教導役、神田でミルクホールを開業
 明治42年、大阪に「蘭の茶屋」を出店、活弁になり、釜山で看護婦見習いになる。ロシアに行こうとしたが、唐津で女優に転身
 明治43年、女子精神病者の救護活動、「精神病者事前演説」を各地で行う。浅草でも活弁
 大正3(1914)年、講談師として各地へ出演
 大正4年、大阪で探偵になろうとする
 大正8年、剃髪、日蘭尼と名乗る
 大正10年、生前葬を行ったとされる
 昭和8(1933)年、満州で馬賊に囚われて救出される
 没年不明

三田定則

 みた・さだのり、明治9(1876)年~昭和24(1950)年。
 盛岡の出身で、旧姓は関で、29歳の時に地元盛岡の三田俊次郎の養子となります。
 明治34(1901)年に大学卒業後、法医学教室助教授となり、その後、ドイツ、フランスに留学、血清学を学び、大正元(1912)年に帰国しました。
 大正6(1917)年に東京帝国大学医科大学教授となり、翌7年に開設された血清学教室教授に、さらに大正9年から退官した片山国嘉から法医学教室教授を引き継ぎ、兼任し、多くの生徒を育てるとともに、片山から引き継いだ法医学の基礎を築きます。
 昭和10(1936)年に退官しますが、昭和12年に台北帝大総長となり、後藤新平、新渡戸稲造らと台湾の近代化に貢献しました。
 昭和16(1942)年、郷里に戻り、養父三田俊次郎が創立した「岩手医学専門学校」の第2代校長になり、戦後の教育改革で、「岩手医科大学」に昇格させ、初代学長に就任しました。

人見絹枝

 ひとみ・きぬえ、明治40(1907)年~昭和6(1931)年。
 岡山の生まれで、二階堂体操塾を卒業します。
 大正15年に大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属されます(現在の運動部のようなもので、スポーツをすることが半ば仕事のようなもです)。
 同8月の第二回万国女子陸上競技大会に日本人として一人で出場、、走り幅跳び、立ち幅跳びに優勝、円盤投げなどにも入賞し、一人で15点を叩き出し、個人優勝の名誉賞を得ました。
 この初の海外遠征によって、海外の事情を知った人見は、コーチや年間を通じてのトレーニングの重要性など、著書「女子スポーツを語る」等で世に伝えようとしました。
 以後も様々な大会に出場し、世界記録を含む、記録を出し続けました。
 昭和3(1928)年にアムステルダムオリンピックに出場、800メートルでは2位となり、ゴールで1位の選手とともに倒れこんで失神するという壮絶なレースとなり、以降、女子800メートル走はメルボルンオリンピック(昭和31(1956)年)まではずされることになります。
 オリンピック後は、競技者としても指導者としても競技に力を入れ、後進の指導や各地での講演を行いますが、昭和5年、5つの大会が半月のうちに集中し、成績は良かったもののマスコミの反応は悪いという、精神的、肉体的にも負担がかかり、翌年に若くして肺炎で死去します。

伊達順之助

 だて・じゅんのすけ、明治25年(1892)~昭和23年(1948)。
 明治-昭和期の大陸浪人、馬賊です。
 馬術とピストルの名手と言われ、馬賊とは言いますが、馬賊の頭目だけでもなく、軍閥の頭だったり、親日自警団の将官だったりと、軍人とも言えます(まあ、元々馬賊=自警団、地方の騎馬部隊ですが)。
 東京に生まれ、仙台藩知事、伊達宗敦の六男です(その伊達の名の通り、仙台の大名、伊達家の末です)。
 華族の名家の生まれながら、幼い折から素行が悪く、暴れん坊として悪名を轟かせて、学校を転々としたのち、明治42(1909)年には不良を射殺する重大犯罪を犯しています(これは当時『伊達事件』と呼ばれ、大いに世を騒がせましたが、結局は正当防衛となりました)。
 いつ頃に大陸に渡ったかは正確には分かっていませんが、大正5(1916)年の川島浪速が粛親王(清の皇族)、パプチャップ(蒙古人)らと起こした第二次満蒙独立運動に伊達順之助も参加しており、この頃にはすでに大陸に渡っていたようです(この大陸に渡ったきっかけも、ヤクザをピストルで撃ち殺したため、大陸に逃亡したと言われています)。
 第二次満蒙独立運動失敗後は朝鮮総督府警部を経て、張作霖の軍事顧問なります。昭和4(1929)年に張宗昌とは義兄弟の契りを交わし張宗援と名乗り、昭和6(1931)年には中国籍を得て中国に帰化しました。
 以降、独立した勢力として満蒙、山東の独立、自治を図りましたが、結局は自前の山東自治連軍(張宗援部隊)を率いて満州国軍に参加し、いいように使われていたようです。
 戦後は中国籍であった為、日本軍の協力者として戦犯となり、青島、上海、江湾の拘留所、収容所を転々とした後、上海監獄で昭和23(1948)年に刑死しています。
 大正5(1916)年に張作霖爆殺計画、大正8(1919)年には山県有朋暗殺計画(両方とも失敗)等々、過激な行動をしており、北一輝、大川周明、出口王仁三郎等の宗教と革命というテーマを持った人間とも親交が深かったとも言われています。
 また、小説「夕日と拳銃」(著:檀一雄)の主人公伊達麟之助は伊達順之助をモデルとしています。

小日向白朗

 こひなた・はくろう、明治33(1900)年~昭和57(1982)年。
 大正-昭和期の大陸浪人、馬賊です。
 新潟の生まれで、大正5(1916)年に中国に渡ります。このとき、彼はシベリア単騎横断で有名な福島安正に憧れて、福島のようなに中国、チベットを調査しつつ、ドイツを目指そうとしました。
 これは実現しなかったようで、20歳の時に陸軍密偵としてモンゴルを目指した時に馬賊に襲われ、捕虜となりました。そこで命と引き換えに馬賊のした働きとなります。
 そして初陣にて手柄を立て、小頭目に取り立てられました。その後、卓抜した戦闘力と、迷信を恐れないことから(というよりも、中国の迷信を知らない)、大頭目となります。この後、馬賊として多くの戦いを経て、名を広めます。
 大正13(1924)年の第二次奉直戦争では張作霖の奉天軍に入り、張宗昌の配下、大隊長として参加しました。
 張作霖爆殺事件後は、抗日、親蒋介石を打ち出した張学良に対してクーデターを起こそうとしますが、実行前に計画が漏れ、昭和4年に満州から追放されます(この辺り、かなり事情が込み入っており、クーデターは張学良に対してな訳ですが、露見、追放となったのは日本軍です。これは「奉天城占領計画事件」と呼ばれています)。
 日本軍の満州侵略が進むと、馬賊の兄弟らが抗日闘争に立ち上がり、これとともに昭和7年に再び満州へ戻ります。
 しかし、当時まだまだ勢力の強かった日本軍との武力闘争を避け、抗日を訴える馬賊の組織を満州から北支へ撤退させました。
 以後は南京で対テロ活動を行ったり、日本軍に協力して魔都上海でテロ活動、対テロ工作などを行いました。
 戦後、戦犯として捉えられますが、日本人であることを訴え釈放され、日本に帰国しました。

 小日向には千山無量観に住む道教の大長老「葛月潭老師」から、3年間道教の教えと武当派拳法など体術を修行し、「尚旭東」の名と破魔の銃「小白竜」を授かったといわれる伝説的なエピソードが語られています。
 この後、天下豪傑と交わり、老師の教え「除暴安良」を実践して、凶悪な匪賊を倒すなどした・・・。
 ・・・まるっきり小説のような話で、年代なども不明ですが、彼が何らかの武術を習得していたことは確かです。
 また、「小白竜」(しゃおぱいろん)とい名ですが、彼は色白の優男であった為、「小白臉」(しゃおぱいれん)と呼ばれていたことも事実です。

満州お菊

 まんしゅう・おきく、明治17(1884)年~大正11(1923)年。
 明治-大正期の満州の馬賊です。馬賊の女、ではありません。馬賊の女頭目です。
 本名は山本菊子(やまもと・きくこ)と言われています。
 熊本天草の出身であると言われており、7歳で朝鮮に売り飛ばされ大陸各地を流転の末、ハルピンの北方の酒場にたどり着きます。
 この間、シベリア出兵の日本軍とも関わりがあったとも言われていますが、事実は定かではありません。
 ハルピンで処刑寸前の馬賊を救ったことで馬賊となり(この救った馬賊が張作霖だとか、その義兄弟だとか言われています)、いつの間にか彼らの頭目にのし上がり、名が広まって行きました。
 以降、満州お菊と呼ばれ、彼女の発行する保票(通行手形)は信用の高いものだと言われています。
 病を得て、大正12年(1923)に39歳の短い生涯を、尼港事件のあったニコライエフスクに閉じたと伝えられています。

 かなり伝説的な人物ですが、実在の人物であり、もう一人のお菊、シベリアお菊と混同されている部分も見受けられます。
 シベリアお菊と同一人物である、と言われこともありますが、シベリアお菊は文字通りシベリア-満州を中心として活躍した女性で、特にシベリア出兵の辺りで日本軍に協力しました。
 また、ハルピンで没したと言われており、このあたりが満州お菊と混同される原因なのかもしれません。

平田篤胤

 ひらた・あつたね、安永5(1776)~天保14(1843)年
 国学を推進し、復古神道を唱えました。復古神道は尊王思想と結んで、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えたと言われています。
 出羽久保田藩(現在の秋田県)に生まれますが、寛政7(1795)年に出奔、江戸に向かいます。
 様々な職業を転々としながら苦学し、備中松山藩(現在の岡山県)の平田家の養子となりました。
 後に本居宣長の国学に目覚めて「本居宣長没後の門人」を名乗ります。
 それまで流行っていた儒教(朱子学)、仏教の影響を排した皇道を唱えるようになりましたが、それには宗教的、神秘的(まあ、オカルト的な訳です)な色合いが濃く出ていました。さらに、それまで学んでいた蘭学や西欧の知識、仏教、儒教などを援用してそれらの説に権威付け、裏付けとしました。
 この結果、幕末に、国学、篤胤学は尊皇攘夷運動を支える思想の一つとなり、その影響は広く地方の豪農層にまで及んだと言われています
 復古神道の他、「霊能真柱(たまのみはしら)」なる著作で死後の世界、幽世の研究を広めて世の関心を引いた他、『仙境異聞』では天狗にさらわれて異界で過ごしたという寅吉の聞き取りをまとめたりしています。
 また、篤胤は仏教と神道が混交されている現状を厳しく批判、これが明治維新後の廃仏毀釈、神仏分離令を後押しし、国家神道政策の思想的背景ともなっています。

明智小五郎

 あけち・こごろう、生没年不詳。
 江戸川乱歩の創作した日本で最も有名な私立探偵の一人です。
 初登場の『D坂の殺人事件』では書生くずれの変わり者だったのですが、以降『心理試験』『屋根裏の散歩者』などで登場したときは小奇麗な探偵となっており、このときまでは警察に協力するなどではなく、犯罪の心理分析やただ謎を解く、真実を追求することが趣味のようなものでした。
『一寸法師』の後に3年間外遊、帰国後、最初に手掛けた『蜘蛛男』のときには外国趣味のダンディとなっており、警察にも協力をするようになっており、何よりも変装の名人となったりと活劇型の探偵となりました。
『D坂の殺人事件』(大正14(1925)年)ではD坂(団子坂)付近の煙草屋の2階に下宿していましたが、『吸血鬼』(昭和5(1930)年)のときには御茶ノ水の開化アパート(モデルとなったのは実在の『文化アパート』)へ引っ越してモダンなアパート生活を、『人間豹』では『魔術師』で知り合った文代と結婚したとあり、このときは麻布区龍土町の白い洋館で郊外生活を、戦後に登場する作品では麹町釆女町の『麹町アパート』に引っ越しており、明智は時代を反映する生活をしていたようです。

金田一耕助

 きんだいち・こうすけ、大正2年~?(没年不詳)。
 横溝正史が創作した日本で最も有名な私立探偵の一人です。もじゃもじゃの蓬髪にくたびれたよれよれの袴姿がトレードマークとなっています。
 初登場は昭和13(1937)年に岡山で起きた『本陣殺人事件』(作品の初出は昭和21年)ですが、これ以前に探偵として大きな事件をいくつも解決しており、この時点で探偵としては有名だったようです。
 東北の生まれで昭和6(1931)年に上京、翌年には渡米しサンフランシスコで麻薬に溺れるなどした後、殺人事件を解決、このとき生涯のパトロンとなる久保銀蔵と出会っています。その援助を持ってカレッジに通い、卒業後に帰国、探偵事務所を開きました。
 昭和13(1937)年に『本陣殺人事件』を解決しましたが、昭和15年に召集を受けて中国に出征、ニューギニアのウェワクに転戦し終戦を迎えます。復員後、『獄門島』を始め様々な事件を解決しました。
 金田一の事件を記録したのは成城の先生となっており、その本業は探偵小説家です。

辰宮洋一郎

 たつみや・よういちろう、明治15(1882)年~昭和11(1936)年。
 大蔵省の若き官吏で、帝都改造計画に加わり、明治末期から大正にかけての歴史の奔流を目撃します。
 震災後は、復興院事務官となります。
 明治40年に加藤と出会い、依童(よりわら)とされますが、洋一郎ではその役目を果たせず、果たしてその役目は妹の由佳理へと受け継がれます。

辰宮由佳理

 たつみや・ゆかり、明治22(1889)年~昭和23(1948)年。
 辰宮洋一郎の妹です。
 強度のヒステリー症状、乃至は霊能を有し、そのために奇怪な事件に巻き込まれてしまいます。
 精神を病んで森田正馬医師の治療を受けますが、帝都に巻かれた怨念と復讐の種子は彼女を通して不気味に開花します。

辰宮雪子

 たつみや・ゆきこ、大正2(1913)年~昭和44(1969)年。
 辰宮由佳理の娘です。
 母である辰宮由佳理を凌ぐ霊能の持ち主で、魔人、加藤保憲の次なる陰謀の的となります。

辰宮恵子

 たつみや・けいこ、明治28(1895)年~昭和69(1994)年。
 旧姓目方。旧中村藩、相馬に社を護り、平将門を祖に祀る俤神社の宮司の娘です。
 ある日、将門公の夢告を戴いて、帝都を護る者として昭和元年に辰宮洋一郎の元へと嫁ぎました。
 不思議な、霊的パワーを秘めた女性で、泉鏡花の言う「観音力」の持ち主です。あるいは、恵子を知る者達は、 彼女を「菩薩」だと言います。

鳴滝純一

 なるたき・じゅんいち、明治25(1882)年~昭和73(1998)年。
 帝大の理科大学に席を置きます。同大の寺田寅彦と、また幸田露伴にも同じく師事しました。
 辰宮洋一郎の帝大以来の旧友で、怪事に巻き込まれた辰宮由佳理を助けようと奔走しますが、妹の変事に無関心な兄、洋一郎と対立します。

黒田茂丸

 くろだ・しげまる、?~昭和20(1945)年。
 二宮尊徳の仕法を世に広め、農本による地上の楽土を築こうとする(一種の魔術結社とも言える)報徳社の一員である、 風水師です。
 風水師とは地相占術を心得、龍脈を観る者達の事で、黒田は本場の香港へ渡ってこの技術を身につけたと言われています。
 後に大陸、新京へと渡り、そこで加藤と再び相まみえ、新京の崩壊を食い止めようと奔走します。

平井保昌

 ひらい・やすまさ、?~大正元(1912)年。
 土御門家の総裁である老陰陽師で、正しく最後の陰陽師です。
 鬼殺しの英雄、「源頼光」に協力した武者の名に同名の人物がおり、奇しくも明治の「羅生門の鬼」に 遭遇し、秘術を尽くして鬼、加藤と渡り合いますが、明治天皇崩御に接し自刃しました。

平将門

 たいらの・まさかど、?~天慶3(940)年。
 平安期の関東最大の英雄です。あるいは、相馬小次郎、滝口小次郎とも名乗ったようです。
 天慶2年に関八州を制圧し、上野国府で新皇を名乗り、関東の独立国家化を宣言します。
 当然、朝廷側がこの様な事を認めるはずが無く、同3年に征討軍が派遣され、将門は下野押領使であった藤原秀郷(俵藤太)、平貞盛等に討ち取られ、さらに将門一門のほとんどが討ち取られます。
 討ち取られた将門の首は京へ運ばれ、七条河原で晒されます。見物人が市をなす程でしたが、首は腐りもせずにまるで行ける者のように色が変わらず、目を見開いたままで、しかも夜な夜な「斬られし我が体、何れの処にある。ここに来たれ!首を継いでいまひと戦せん」と呼ばわりました。
 その様子を見て取ったある人が、「将門は米噛みよりぞ斬られける俵藤太が謀にて」と詠んだところ、首はカラカラと笑い目を閉じましたが、その夜、首は体を求めて飛び上がり、東を目指して飛び去りました。
 京を飛び去った将門の首は武蔵国の辺りに落ち、夜毎に妖しい光を発し土地の者は何かの祟りかと恐れおののきましたが、それが将門の首と分かると、大己貴命を祀る社の傍らに手厚く葬ったと言われています。
 現在もなお大手町のビルの一角に残る将門首塚は、すでに千年間、東京の中心を鎮護し続けています。

安倍清明

 あべの・せいめい、延喜21(921)?年~寛弘2(1005)年。
 平安中期最高の、あるいは日本最高の陰陽師です。官制魔道の宗家「土御門」家の開祖でもあります。
 賀茂忠行に天文学を学び、異常な才能を発揮したため、天文の奥義を授けられ、それまで賀茂家が独占していた陰陽道の秘術である歴道、天文を二分し、天文の安倍(土御門)、歴道の賀茂となります。
 天徳4(960)年に天文得業生として初見し、以後天文博士、主計権助、大膳大夫などを歴任します。
 当時、霊的コンサルタントとして皇族や貴族、民衆の間から絶大な信頼と人気を集めていました。
 その絶大な技量を示す説話として、『大鏡』には天変を察知し、花山天皇の退位を予言したあります。
 また、一説には信太の狐の子とも言われ、長じては芦屋道満と技くらべを行ったとも言われています。

加藤保憲

 かとう・やすのり、?~昭和73(1998)年?
 陸軍少尉、後に中尉となっています。また、大陸に渡った後、軍を出奔、現地の馬賊に身を投じたとも言われています。
 本人は紀州、龍神村の出だと言いますが、果たして大陸で作戦を共にした将校は、加藤が寝言で朝鮮語を口走ったと言われています。
 その背後には朝鮮、支那の魔術結社が見え隠れしますが、果たしてこれらの結社は加藤が一時的に協力、あるいは利用しているに過ぎません。
 平時より五穀断ちを実践し、帝都に怨霊を呼び、古来最も恐れられた呪殺の秘法「蠱術」を使い、陰陽道、奇門遁甲に通じ、目に見えぬ鬼「式神」を操ることに長じる真正たる呪術師で、「清明判」、加藤が言うには「ドーマンセーマン」の紋を頂きます。
 帝都の命運はこの怪人物の手に握られています。